18.答えをください:その3
三月も終わりに差し掛かり、各地の大学では続々と受験結果の開示――つまり、合格発表が行われ始めていた。
「――おぉ、マジでか! 頑張った証やな。先生も嬉しいわ。ホンマおめでとう!!」
「そっか、駄目だったか……。そんなに気を落とさないで。先生だって浪人したことあるし、何かあったらいつでも相談に乗るから。ね? だから頑張ろう」
街外れの塾に勤務する講師たちは、担当する教え子たちからひっきりなしにくる合否の連絡への対応に時間を割いていた。
が……それらに一喜一憂する間もなく、彼らにはほかにもまだまだ仕事があった。
新規申し込みや解約手続きなどの、細かな対応と手続き。来年度使用するテキストや参考書の発注。講師の入れ替わりなどといった、塾内部の編成……などなど、いちいち挙げていくとキリがない。
この時期の学習塾は、一番忙しいといわれる。それは普段わりかしゆったりとしている街外れの塾でも例外ではなく……。
まさに猫の手も借りたいとはこのことだ、と半ば本気で思いながら、桜井も周りの講師たちに交じって忙しなく動いていた。
暗くなってきた頃に、ようやく一息ついた。
講師たちはみんな自分の席で、燃え尽きたかのようにぐったりとしている。桜井も椅子の背凭れに力なく体を預けながら、ふと机に散乱する資料などに紛れていた自分の携帯電話へと目をやった。
今日は忙しくて全く確認していなかったけれど、何か連絡などはあっただろうか……。
手に取って確認すると、大量のメルマガとともに、一件の着信が来ていることに気付いた。留守電メッセージが入っているようだ。
誰からだろう……? と不思議に思いながらも、慣れた手つきで留守電に繋ぎ、恐る恐る携帯電話を耳にあてた。
アナウンスの後聴こえてきた声に、桜井は頬が綻んでいくのを感じた。
『先生、藤野です』
それは、最近めっきり会わなくなった彼女――教え子である藤野奈月のものだった。
いつもの凛とした鈴の音のような落ち着いた声は、どこか思いつめたように強張っていた。聞いているこちらも、自然と息が詰まってしまう。
少しだけ間があって……すぅ、という息の音が聞こえたかと思うと、その声はまくしたてるようにこう告げた。
『明日、塾へ行きます。いつもの教室で待っていていただけますか』
◆◆◆
電話を切って初めて、肝心の時間を告げていないことに気付く。
そんな基本的なことにも構っていられないほどに、先ほどまでの自分は焦っていたのか……と、冷静になった奈月は思わずがくりと肩を落とした。
また掛け直そうか、とも思ったが、電話に出なかったということは忙しいのだろうから、迷惑をかけてしまうかもしれない……と思い直した。多くの留守電メッセージを残すのも、なんとなく気が引ける。しばらく悩んで、結局やめておくことにした。
結果がわかったら、すぐに塾へ行こうと奈月は決めていた。それで桜井がまだ来ていなければ、来るまでずっと待っていればいい。
「待っていていただけますか」とは言ったけれど、桜井にも都合があるだろうから、彼が先に待っているとは思えない。それにそもそも自分が呼び出したのだし、自分は待つことには慣れている。
だけどもし言われた通り、彼が先に待っていたとしたら……?
……仕方ない。その時は、謝ろう。
「よし」
深呼吸して、声を上げる。ほどなくして咲葵子の夕飯を告げる声がしたので、奈月は「はい」と返事を返し、部屋を出た。
◆◆◆
合否の発表は、郵送で奈月の家に届いた。簡素な封筒を開け、中身を確かめる。奈月は中身を見てもほとんど表情を変えることはなかったが、揺れるその瞳が代わりに、彼女の感情を十分すぎるほど物語っていた。
不安そうに見守る咲葵子に、無言で預ける。それを目にした咲葵子が何か言う前に、奈月は身支度を整え家を出た。
いつも通っていたのと同じ道を、無言ですたすたと歩く。十分ほどで、奈月はそこへたどり着いた。
築何年になろうかというほどに古ぼけた建物――もとい、街外れの塾。
最初来たときは『山姥の家』のようだと思って、入るのにちょっとばかり勇気がいったっけ……と、あの時から少しも変わらない姿を見上げながら、奈月は思い返していた。
だけど今はそんなこと、露ほども思わない。むしろ見かけるたびに、心のどこかで安らぎを覚えるほどだ。そう思う原因は、この塾自体にももちろんあるけれど……やっぱり彼がいるから、というのが一番大きいのだろう。
試験前のように――むしろ、試験前以上に――緊張で強張る身体をどうにか和らげようと、奈月は立てつけの悪い戸を開ける前に、一つ深呼吸をした。
――古い階段を、ミシミシと音を鳴らしながら登っていく。
いつもの教室へ行く前に、奈月は塾長室へと寄った。
軽くノックし、柔らかな声の返事が返ってくるのを確かめる。「失礼します」と申し訳程度の挨拶をしながらドアを開けると、想像通り、上品な雰囲気をまとった四十代ぐらいの男性――塾長の青柳が、変わらぬ体制で椅子に座っていた。奈月を見るなり、穏やかな笑顔で「やぁ、奈月君。久しぶりだね」と気軽に声をかけてくれる。
「お久しぶりです、青柳塾長」
恭しく礼をし、奈月はさっそく青柳に試験の結果を報告した。
それから少しの間、受験の話やプライベートの話など、他愛もない会話をして……十分ほど滞在していただろうか。
「せっかく来たのだから、お茶でもどうだい」という青柳の言葉を、奈月は「申し訳ありません、急いでいるので」と申し訳なさそうに断った。青柳は別段気を悪くした様子もなく、むしろ奈月の心情を見透かしたかのように意地悪く笑った。
「なるほど。これから、健人に会いに行くんだね」
「っ……」
図星なので、どうとも反論することができない。相変わらず鋭い人だ、と奈月は思う。
青柳は愉快そうな表情を崩さぬまま、「まぁ、頑張りたまえ」と言ってひらひらと片手を振った。そんな青柳に、奈月は顔を赤くしたままぺこりと礼をする。それからこれ以上の感情を悟られないうちに、足早に塾長室を出た。
うつむいたまま廊下を歩いていると、やがて教室が多く並ぶ棟へたどり着く。手前から数えて三番目の教室が、いつも桜井に勉強を教えてもらっていた場所――奈月が今回、桜井を呼び出した場所だった。
入り口の前に立つと、急に足がすくんだ。気持ちを落ち着けようと、胸に手を当ててみる。心臓はいつもの奈月らしくないほどにトクトクと早鐘を打っていた。
胸に当てた手はそのままに、奈月は幾度か深呼吸を繰り返した。そうしているうちに少し落ち着いた気がしたので、気合を入れるため「よし」と声を上げる。
そうしてようやく、意を決したように教室の戸を開けた。
教室に足を踏み入れた瞬間、奈月は思わず息を詰まらせた。
まだいるはずがないだろうと、高をくくっていたのに。せっかく落ち着けたはずの心臓が、再び早鐘を打ち始める。
誰もいないはずのそこには、既に見慣れたシルエットが――跳ねた茶髪のラフな服装をした男性が、窓のサッシ部分に身体を預けていた。
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