19.答えをください:その4

「――やぁ」

 奈月の存在に気付いた男性――桜井はそのままの姿勢で微笑みながら、軽く片手を上げる。たったそれだけの仕草なのに、妙に様になっているのが悔しい……と奈月は思った。

「試験はどうだった? 今日、結果発表だったんだろう」

「えぇ、おかげさまで受かっていましたよ」

 近づきながらそう告げると、桜井は嬉しそうににっこり笑った。

「そっか、おめでとう」

「ありがとう、ございます」

 なんとなく照れくさくなって、奈月は小さな声でぶっきらぼうに礼を言った。そんな彼女の頭を撫でながら、桜井がポツリとつぶやく。

「……君も、とうとう大学生なんだね……」

 少し寂しそうな響きを伴ったその言葉に、奈月は胸が締め付けられるような心地になった。

 桜井から目をそらしながら、話を変えるように奈月は言った。

「……先に、来てらしたんですね」

 桜井は「なんだいそれ」と言って軽く笑った。

「待っていろと言ったのは、君のほうじゃないか」

「そう、ですけど……時間、言ってなかったのに」

「言われなくても大体分かるよ」

「でも……」

 奈月は思わず、恨めし気に桜井を見上げた。

「昨日、電話に出てくださらなかったから。今日も忙しいんだろうな、と思って……こっちが待つ覚悟、していたのに」

 予定が狂いました。どうしてくれるんですか。

 桜井はしばらくきょとんとしたように目をぱちくりさせていたが、やがてゆっくりと破顔した。

「言ったでしょ? 女の子を待たせるのは、男として駄目だって」

「っ……」

 何で、こんな時にそんなことを言うのか。

 彼はいつもそうだ。そうやって、思わせぶりなことを言って……いつもいつも、その言動に惑わせられて。

 あなたのその真意は、一体何なのか。

「……先、生」

 たどたどしく、彼を呼ぶ。桜井はいつものように笑いながら「なぁに?」と無邪気に首をかしげた。

 そんな桜井を直視できず、視線を床に落としたまま奈月は尋ねた。

「あなたは、わたしに対してどんな答えを持っていらっしゃいますか」

「え……?」

 当惑したような声が降ってくる。おそらく、きょとんとした表情をしているんだろう。けれど奈月はそれを確かめようとしなかった。

「わたしは、」

 うつむいたまま、苦しげに言葉を続ける。

「わたしは、あなたに対する答えを……感情を、余りあるぐらい持っています。それこそ、一言じゃ言い表せないくらい……たくさん、たくさん持っているんです」

「藤野……」

 桜井がかすれた声を上げる。そのあまりにも弱々しい呼びかけに、奈月は思わず顔を上げた。

 桜井は切なげに瞳を揺らしながらも……それでも優しく微笑みながら、奈月を見ていた。

 何も言えず見入ってしまった奈月に、桜井が口を開く。

「俺に、聞かせてくれる? その……『答え』を」

 いくらでも、時間をかけて構わないから。

 優しい言葉とその表情から、奈月は彼が自分の話を真剣に聞こうとしてくれているのだということを察した。

 すぅ、と軽く息を吸い、奈月は一言ずつ語り始める。

「先生は……今までわたしが知らなかったこととか、大事なことをたくさん教えてくれました。あなたに出会っていなければ、わたしはきっと今も、うまく笑えていなかった。おかあさんにもきっと、正面から向き合えていなかった。全部、全部先生のおかげです。先生が、わたしを変えてくれました」

 桜井は奈月が話している間、一度たりとも言葉をさしはさむことはなかった。ただ黙ったまま、優しい瞳で奈月を見つめながら、たどたどしく紡がれていく言葉を聞いていた。

「先生が完璧人間じゃない、なんてことは最初から知っていました。駄目な部分も、弱い部分も、いっぱい見てきたから。それでも先生が、そんな部分までわたしにさらけ出してくれて……そこまでして、わたしを救ってくれて。正直、嬉しかったんです。『先生』っていう肩書はあったけれど、『先生と生徒』なんて関係じゃなくて。そうじゃなくて、わたしは先生と対等に接することができているんだ……って。勝手ですけど、そんな風に思っていたんです」

 そこまで言ったところで、奈月は少し視界がぼやけていることに気付いた。感極まってきたのだろうか……と、話しているうちに冷静を取り戻した心で考える。

 再び深呼吸をする。嗚咽で喋れなくならないうちに話してしまおうと、奈月は心持早口になって続けた。

「あなたと色んなところに出掛けることが、とても楽しかった。あなたに頭を撫でられたり、手をつないでもらったりすることが、とても嬉しかった。あなたの笑顔には、いつも元気付けられた。打算抜きで……あなたの隣にいるのは、とても心地が良かった」

 く、と顔を傾け、桜井の眼を見据える。

 そうして意を決したように、奈月ははっきり告げた。

「あなたが、好きです。ずっと傍にいたいって思えるくらいに。どうしようもないくらいに、あなたのことが好きなんです」

 桜井が大きく目を見開く。そんな桜井の表情の変化など構わず、奈月は安堵の息をついた。同時に、目に溜まっていたのであろう水滴が一滴、頬を伝う。

 とにかく、言いたかったことは全部言った。答えは、全て彼にぶつけた。

 あとは……彼の答えを聞くだけだ。

 桜井は何かを言い淀んでいるようだった。瞳を泳がせ、口を幾度も開閉させている。そんな彼に、奈月は冷静な声で言った。

「わたしの答えは、これで全てですよ。先生」

 あなたの答えを、お聞かせください。

 奈月の強気な言葉と視線に、桜井は苦笑した。

「君、案外したたかなんだね。……わかった。俺も、教えようじゃないか」

 俺が持っている、君への答えを。

 まぁ、本当はそんなもの単純明快なんだけどね……と奈月に聞こえないほどの小さな声で呟くと、桜井は潤んだままの奈月の目を見据えながら、口を開いた。

「初めに柳さんから君のことを聞いたとき、俺は君に親近感を覚えたんだ。君にも、厳格な父親がいたっていうことだね。でも……話を聞いているうちに、やっぱり違うんだな、って思った。俺は父親に反発したせいでこんな性格になったけれど、君は父親に従っていたせいで俺とは正反対の性格になった。同じようで違う、違うようで同じ……そんな君を少しでも助けることが、俺にできたら、って思って。それで、君の担当を受けたんだ」

 そのあたりのことを聞いたのは、初めてだった。今まで桜井はもちろんのこと、青柳や咲葵子でさえ詳しく教えてくれたことがなかったのだから。

 目をぱちくりさせる奈月を見て少し笑い、それからまた桜井は口を開く。

「出会って、勉強を教えて……一緒に出掛けたりもして。最初は君を変えるための、授業の一環のつもりだった。そう自分に言い聞かせてた、って言った方が正しいかもしれない。だけど回数を重ねていくうちに……そうだね、バイキングに行った時ぐらいか」

「ハイキング、です。先生」

 すかさず奈月が突っ込みを入れる。いつまで間違えるおつもりですか、と呆れたような表情をする奈月に、桜井は照れたように笑った。

「ごめんごめん、何でか覚えられなくて」

「いい加減覚えてくださいよ。……まったく、今までのシリアスな雰囲気はどこにいったんですか」

「あはは、本当だね。……じゃ、戻そうか」

 ひとしきり笑った後、桜井は再び真剣な表情に戻った。

「……とにかくそれぐらいの時に、はっきり気づいちゃったんだ。君と一緒に時間を過ごすことを、俺自身も楽しんでいるんだってことに。俺が、何よりも君の傍にいることを望んでいるってことに」

 だから手をつないだり、額にキスしたりするようになったのかもね。

 桜井は特に意識した様子もなくサラッと口にしたが、奈月はそれらの出来事を思い出して、一気に顔が熱くなるのを感じた。

 桜井が不思議そうに首をかしげる。

「あれ、どうしたの? 顔赤いけど……」

「あなたのせいですよ! もぅ……早く続けてください」

 不機嫌そうに唇を尖らせ、熱くなった顔をパタパタと手で仰ぎながら言うと、桜井は「あ、うん。そうだね」と焦ったように答えた。

「……君との別れが近くなった、と感じた、あの秋の日。その時になって、結局俺は何もしてあげられていないんじゃないか……って気持ちになった。俺個人の気持ちとしては、やっぱり君と咲葵子さんとの関係を修復してあげたいって気持ちが強かったから。だから……ちょっとためらいはしたけれど、彼の命日に、彼のところへ君を連れて行くことにしたんだ」

 結果、それがいろいろと功を奏したんだよね。

 そう言って、嬉しそうに桜井は笑った。奈月もつられて微笑む。

 あの日確かに、奈月は救われた。そして同時に、桜井自身も救われたのだ……と、奈月は思った。

 それから桜井は、慈しむように瞳を細めて奈月を見た。

「まぁ……そうだね。あれが決定的だったのかな。俺の答えは多分、そこで既に出ていたんだよ」

 急に緊張の面持ちになった奈月に、桜井は安心させるかのように柔らかく微笑む。

 そして、奈月が聞きたかった『答え』をようやく口にした。

「俺は、君と離れたくない。君のことが好きなんだ」

 その瞬間、止まっていたはずの涙が再びこみあげてきた。不安や恐怖……そんな負の思いが渦巻いていた、先ほどの涙とは違う。この思いを何と呼べばいいのか、奈月にはわからなかった。けれど多分嬉しいのだと思う。

 桜井は手を伸ばし、奈月の涙を指で優しく拭った。この上なくいとおしそうな目で、言葉を続ける。

「だから、たとえ……今の『先生と生徒』っていう関係性が失われたとしても。これからもずっと、俺の傍にいてほしい」

 頬に添えられた暖かく大きな手に、自らの手をそっと重ねる。それから奈月は濡れた瞳を細め、幸福に満ちた笑みを浮かべた。

「もちろんです」

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