16.答えをください:その1

 今までを振り返り、全てを踏まえて結論を出す。それは決して容易いことじゃないって、思ってた。

 だけど、本当は……。


 かねてより志望していた大学の入試は、ようやく終わりを告げた。三月も近いとはいえ、凍てつくような寒さは相変わらずだ。

 長かった日程が全て終了した後の帰り道、白い息を吐きながら藤野奈月は万感の思いで携帯を取り出した。厚手の手袋――センター試験前日、咲葵子がくれたラッピング袋の中に入っていた――を外し、慣れた手つきである一つの番号を呼び出す。

 耳に当てると、数回のコール音のあと、ブッという少々耳障りな音が鳴る。間もなく受話器からは、聞き慣れた特徴的な声が聞こえてきた。

「もしもし、藤野?」

「桜井先生」

 思わず緩んでしまう頬を周りに見られないよう片手で押さえながら、奈月は電話の相手――塾講師・桜井健人に落ち着き払った声で告げた。

「今、受験が全て終わりました」

「そっか、お疲れ様」

 気遣うような優しい声で、ねぎらいの言葉を掛けられる。それだけで、不思議とこれまでの疲れが全部吹き飛んでいくような気がした。

「合格発表はいつ?」

「え、と……十日後だそうです」

「長いね。まぁ、もう終わったんだし気長に待つしかないよ」

 桜井は相変わらず能天気だ。少し吹き出しそうになったが、どうにか押さえた。

「お疲れ様。ゆっくりお休み」

「ありがとうございます」

 彼に真っ先に連絡したのは、きっと彼の声で紡がれるこの言葉が聞きたかったからなのだ……と、奈月は再確認した。

 電話を切り、家路へ急ぐ。

 何故だか肩の荷が降り、さっきよりも身体が軽くなったような気がした。


 帰宅するなり、心配そうな顔をした母親・咲葵子が「どうだった?」と尋ねてきた。

 受験が近づいてきてからというもの、咲葵子はずっとこんな表情だった。それほど自分を案じてくれていたのだな……と思い、少しだけくすぐったい気持ちになる。彼女の不安を少しでも取り除こうと、奈月は「手応えは、それなりに」と答え、にっこり笑ってみせた。

 それから咲葵子に「とりあえず、少し休みます」と告げ、自室へ向かう。その間、奈月はふと考えていたことがあった。

 そう言えば咲葵子は、当然のように試験の出来について尋ねてきた――普通の人ならば、そうするだろう――が、桜井はそういったことについて一言も尋ねてこなかった。

 センターの日程すら頭からすっぽり抜け落ちていた彼のことだから、単に聞くのを忘れていたということもあり得る。だけど……もしかしたら、という淡い期待にも似た考えが頭をよぎった。

 もしかしたら彼は、敢えて言わないでくれたのかも知れない。奈月のことを、ちゃんと信頼してくれていたから。

 そうだといいな、と呟きながら、自室のドアを開ける。今ではすっかり慣れたその場所へ入るなり、奈月はそのままの格好でベッドへ勢いよくダイブした。


    ◆◆◆


 数日後、高校の卒業式があった。

 クラスメイトたちや先生たちと写真を撮ったりなどしながら、別れを惜しんでいく。そういったことも今まであまりなかったので、奈月は嬉しくも少しだけ照れ臭い気持ちになった。

 中でも奈月にとって一番嬉しかったのは、母親の咲葵子が卒業式を見に来てくれたことだった。

 咲葵子が家を出ていってしまってから、入学式や卒業式などの行事ごとには誰も来てくれたことがなかった。唯一の家族だった父親は仕事第一の人で、家族のことを――奈月のことをかえりみてくれたことなど皆無に近かったのだ。

 友人もほとんどおらず、見守ってくれる家族だって一人もいなかった。常にそんな孤独な日々を送っていた奈月にとって、行事ごとというものは苦痛でしかなかった。

 でも、今は――……。

「なっちゃん、今度はあたしたちと写真撮ろっ!」

「えー、ダメだよ。次は私たちと写真撮るんだよ。ね、なっちゃん」

「ちょ、ちょっとみんな落ち着いて……」

「あ、なっちゃん顔赤くなってる!」

「かーわいーっ」

「あらあら、奈月ったら人気者ね」

 こんな風に……一緒に笑い合える友人たちも、温かい目で見守ってくれる家族もいて。

 嬉しくて、ちょっとだけくすぐったくて、だけどすごく幸せで。

 こんなに満ち足りた日々は、自分にはもう二度とやって来ない。そういう世界は、自分にとって全く無縁なものなのだ。ずっとそう、思っていたのに……。

 願わくは、こんな日々がこれからもずっと続いていって欲しい……と奈月は心から思った。


 それから合格発表日までの日々も、ゆるゆると過ぎて行った。度々高校のクラスで打ち上げがあったりということはあったものの、基本は今までと何ら変わらない。

 けれどただ一つ、いつも通りではなかったこと。

 それは、高校に入学した時から欠かさず通っていたあの場所に――街外れの塾に、あれ以来一度も行っていないこと。

 塾講師である桜井と、一度も関わりをもたなくなったことだった。

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