15.あなたを信じます

 どんなつらいことでも、苦しいことでも……あなたが導いてくれるなら、きっと乗り越えられる。

 そう思っても、いいですか?


「おかあさん」

 年明けのある日の早朝、玄関先にて。

 靴を履き、学校へ向かう準備をすっかり整えると、藤野奈月は見送りに来ていた母親を呼んだ。

「なぁに、奈月」

 奈月の母親・咲葵子はそれに対し、嬉しそうに微笑みながら返事をした。

 奈月にとって忘れられない日となった、秋のある日。奈月は初めて咲葵子を『おかあさん』と呼んだ。

 奈月はあのあと顔から火を噴きそうなほど照れてしまい、すぐに自室へと戻ったが……一瞬見えた彼女の表情は驚きに満ち、白い頬には一筋の涙が伝っていた。

 ――それ以来、ずっとだ。

 奈月が頬を染め、不器用ながらも「おかあさん」と呼ぶと、咲葵子はこんな風に至極幸せそうな、とろけそうな微笑みを見せる。

 その笑顔を見るたびに奈月は、なんだかいたたまれないような、それでも嬉しいような、不思議な気分になるのであった。

 その日も奈月は変に照れ臭くなってしまい、コホンと咳払いをした後、できるだけ冷静な声を保ちながら、言おうとしていたことを咲葵子に告げた。

「……今日は塾があるので、いつもより帰りが遅くなると思います」

「わかったわ」

 咲葵子は微笑みながら、特に何でもない事と言った様子で了承した。可愛らしく手をひらひらと振り、見送りの言葉を告げる。

「楽しんでいらっしゃいね」

 楽しんで、の意味はよく分からなかった。塾へ行って勉強するのに、何を楽しむというのだろう。

 ……まぁ、塾講師の彼と過ごす時間は、確かに楽しいのだけれど。

 心の中でひそかにそんなことを思いながら、奈月は母親に向かって微笑んだ。

「では行ってきますね、おかあさん」


    ◆◆◆


「ふぅ……」

 その日の夕方、街外れの塾にて。

 奈月は目の前の問題集をあらかた終わらせると、辟易したように力を抜いて椅子にもたれた。

「お疲れ様。追い込みって、結構疲れるよね」

 俺も経験したから分かるよ~、と言いながら、塾講師――桜井健人は奈月に温かい飲み物が入った缶を手渡した。

「ミルクティーでよかった?」

「はい、ありがとうございます」

 ありがたく受け取り、早速プルタブを起こす。ふぅ、ふぅと息を吹きかけながら、火傷しないようにそっと口をつけた。

「はぁ……落ち着く」

 一口飲んで、思わず気の抜けた声が漏れる。

 あまり見られない奈月の珍しく脱力した姿に、桜井は笑ってしまった。

「たまには息抜きも必要だよ。あまり根詰めてもよくないしね」

 桜井も奈月の向かいの席に腰を下ろすと、自分用に買ってきたのであろう缶コーヒーのプルタブを起こし、こくこくと飲み始める。

 ぷは、と息をついた後、桜井は唐突に尋ねてきた。

「ところで、センター試験っていつだっけ?」

「明日ですけど~」

 だらけた姿勢のまま、奈月が答える。

「そっかそっか、明日か~」

 桜井もまた、語尾を伸ばすようにして答える。が……その意味を理解したのか、一瞬その状態で固まった。

「……って、明日!?」

 事実を知っても嫌に落ち着いている奈月とは反対に、桜井はうっわ、まじかよ~、などと唸りながら困ったように頭を抱える。

「まだ一週間くらい先だと思ってたぁぁぁ……どうしよう。藤野はともかく、他の生徒に対してはだいぶ悠長にやりすぎてたかも……」

「どうしてわたしは『ともかく』なんですか」

 桜井の発した言葉が気になって尋ねると、桜井は顔を上げた。ふくれっ面で、若干涙目になっている。不甲斐ない自分に対して怒っているようだ。

「だって……君は、俺がどうこう言わなくても頑張ってくれるし。現に今日だって」

 桜井はおもむろに奈月の目の前の問題集を指さした。

「問題を解きたいのでしばらく一人にしてくれますか、って」

 奈月は姿勢を正すと、はぁぁぁぁ、と大きなため息をついた。

「当たり前じゃないですか。本番前日なんだから、集中したいに決まってます。大体……」

 今までだれていたのが嘘のように、奈月はきびきびと立ち上がると腕を組み、座っている桜井を見下ろした。

「大体、生徒が真面目モードになったら本番が近いんだなって気づくでしょう? 何でアホみたいにギリギリまで悠長に授業やろうとしてるんですか! センターの日程も知らない塾講師なんて普通信じられませんよ」

「うぅ……ごめん。だって君以外の生徒は皆、今週は塾を休むっていうから……実際先週までしか授業やってなくて」

「それはみんな、それぞれ家で追い込みかけてるんです!」

「え、そうなの!?」

「そうです! いい加減生徒の心理に気づいてくださいよ!!」

「……ごめんなさい」

 桜井が反省するようにしゅんとうなだれたところで、奈月の説教タイムはようやく終わりを告げた。

「……まったくもう。今度からはちゃんとしてくださいよ」

「はぁい……」

 身体を縮こまらせながら上目づかいで奈月を見る桜井は、さながら小動物……具体的に例えるならば、耳が垂れ下がったウサギのようだった。

「そんなに落ち込まないで下さいよ、先生」

 相変わらず子供っぽい桜井が可愛くて、奈月は思わず笑ってしまった。珍しく自分よりも下にある桜井の顔を、目を和ませながら見つめる。

「わたしも少し……きつく、言い過ぎました。ごめんなさい」

 言いながら、なんとなく手を伸ばす。目の前に見えるふわふわとした茶色の髪を、桜井がいつも奈月にしているように、軽く撫でてみた。

 桜井が一瞬目を見開く。しかしすぐに気持ちよさそうに目を細めると、「たまにはこういうのもいいね」と小さな声で呟いた。


「――さて、センターが明日となると……俺が言うことじゃないけど、もう明日に備えてゆっくり休むしかないね」

 ため息をつき、桜井が言った。

 さすがに不安な気持ちになって、奈月は目を伏せる。桜井はそんな彼女に目ざとく気付いたのか、奈月に向かって元気づけるように微笑んだ。

「自分を、信じなきゃ」

「はい」

 奈月もつられるように、はにかんだ。

「よし。……さて、じゃあ」

 奈月が浮上したのを確認すると、桜井はおもむろに立ち上がる。

「ちょっと待ってて」

 それだけ告げて、桜井は再び教室を出て行った。


 ――五分ほどで戻ってきた桜井は、両手に何かを持っていた。

「何ですか、それ。端切れと、綿と、たこ糸……と、サインペン?」

 まさか、これから工作でもするというのか……?

 呆気にとられる奈月をよそに、桜井はそれらを使って何かを作り始めた。綿を適量、端切れに包み、たこ糸で結び……綿の入った丸い部分に、サインペンで何かを書き込んでいく。

 やがて書き終えたのか、サインペンを置いた桜井は、にっこり笑いながらそれをこちらへ向けてきた。

「じゃん!」

「……てるてる、坊主……?」

 桜井が作ったのは、にっこり笑顔のてるてる坊主だった。

 わけがわからずぽかんとする奈月に、桜井がふふん、と自慢げに鼻を鳴らしながら説明を始める。

「明日はコンディションも大事だけど、天気もやっぱり大事じゃん? ほら……雪とか降ってそもそも会場に行けない、とかなったら悔しいし」

 思わず窓の外へ目をやる。幸い、今は雨や雪といった類のものは降っていなかったが……確かに、この季節だ。必ずしも何らかのアクシデントが起こらないとも言い切れない。

 桜井はそんなことまで考えていたのか、と奈月は感心した。

 そうこうしているうちに桜井は、同じものを二つ、三つと作っていく。三つのてるてる坊主が出来上がったところで、桜井はそのうちの一つを奈月に手渡した。

「……くれるんですか」

「うん。君の家にも飾っておくといいよ」

「あとの二つはどうするんですか?」

 一つは奈月の家に、というのは何となくわかった。が、それ以外に二つも用意する必要というのはどこにあるのだろう。聡明な奈月にも、その辺のことは思いつかなかった。

「決まってるじゃん。一つはここに飾って……」

 桜井はそう言って、先ほどまで見ていた塾の窓を指さす。

「もう一つは」

「もう一つは……俺の家!」

「先生の?」

 奈月の家、そして塾……というのは、かろうじて理解できる。しかし、何故桜井の家にまで?

 疑問が尽きない奈月に、桜井は晴れ晴れとした表情で言った。

「俺も、君と一緒に祈りたいんだよ」

 その一言で、奈月はなんだか心が軽くなった気がした。それまで感じていたはずの不安も、追いつめられる焦りも、イライラも、全部吹っ飛んでいくようだった。

 桜井と一緒なら、何でもできるような気がする。

 そんな、心強い気分になった。

「ありがとうございます」

 奈月は微笑みながら、桜井に礼を言った。

「これで明日は、絶対大丈夫な気がします」

「もちろんさ」

 桜井はえっへん、と胸を張った。

「だって俺が作ったんだよ? 絶対、御利益あるに決まってる!」

 その満面の笑みは、てるてる坊主が浮かべるものと全く同じ、晴れ晴れとしたものだった。


    ◆◆◆


「ただいま帰りました、おかあさん」

「お帰り、奈月。……あら、可愛いてるてる坊主ね」

 帰宅後。桜井特製てるてる坊主に、早速咲葵子が食いついた。奈月は何故だか嬉しくなった。説明する口が、思わず緩む。

「桜井先生に頂いたんです」

「あら、そうなの。よかったわね」

 見守るように目を細めながら咲葵子が言う。笑顔になったまま、奈月は「はい」と弾むような声を返した。


「――奈月」

 夕食を終え、自室へと足を運ぼうとした時。咲葵子がいきなり、真剣な声で奈月を呼びとめた。

「何ですか、おかあさん」

 首を傾げながら、奈月は振り向く。

 咲葵子は案じるような、それでいて芯の通った、射るような視線を奈月に向けていた。ラッピングされた何かを手渡され、奈月はおずおずと受け取る。

「頑張りなさいね」

 明日のセンター試験のことだろうか、と思い、返事をしようと口を開く。が、声を出す前に咲葵子がさらに言葉を続けた。

「もうすぐ……答えを出さなければいけない時が来る。その時に後悔しないように、ちゃんと考えるのよ」

 いつものおっとりした声とは違う、諭すような、しっかりした声。

 それがどういう意味なのか、その時の奈月にはわからなかった。けれどその時の彼女が醸していた、張り詰めたような雰囲気に、抗うことはどうしても出来ず……圧されるように、つられるように、奈月はゆっくりとうなずいていた。


 自室の窓のサッシに、早速てるてる坊主を吊るす。垂れ下がる笑顔のそれを指でぷらぷらと揺らしながら、奈月は今更になって、咲葵子の言った言葉を思いだしていた。

 ――答えを、出さなければいけない時が来る。

 時間がないというのは、奈月もなんとなくどこかで感じていた。

 春になれば、今より周りを取り巻く環境はずっと変わるだろう。高校とは違う出会いがたくさんあるだろうし、責任も多くなる。

 そして、桜井との関係も……。

 次のステップへ進むために、自分はどうしなければいけないのか……咲葵子が言っていた『答え』というのは、多分そういうことなのだろう。

 だけどそれは、今考えることじゃない。今はただ、目の前の試練に立ち向かうだけだ。他でもない、自分のために。

 親孝行らしいことをほとんどしていないし、ひどい態度もたくさん取ってきたのに……それでもそんな自分を愛し、身を案じてくれる、咲葵子のために。

 そして今まで自分のことを体を張って支えてくれて、現に今も自分を応援してくれている……桜井のために。

 ぐるぐると駆け巡る邪魔な考えを断ち切り、奈月は寝る準備に入った。

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