13.わが胸の悲しみ:中篇

 桜井は視線を落とし、小さな声で話し始める。

「彼は生真面目で頑固な人だった。俺はそんな彼に、ずっと反発していたんだ。融通が利かなくて、面白くもなんともなくて……毎日毎日、喧嘩ばかりしていた」

 青柳はその間、まるでわが子を見守るような優しい目で桜井を見つめていた。奈月もまた、痛みをこらえるように唇をかみしめながら、それでも桜井の一挙一動を見逃すまいとばかりに、目をそらすことなくじっと見ていた。

「俺は……彼が大嫌いだった。一生分かり合えないって、ずっと思ってた。むしろ分かり合いたくもなかった。父親と呼んだことなんて、一度もなかった」

 あぁ、そうだったのか。と、奈月はようやく理解した。

 桜井が子供っぽい楽天的な性格をしているのは、元来のものではなかったのかもしれない。それは生真面目な父親に対するあてつけで……同時に、自らを守るための処世術だったのかもしれない。

 奈月には桜井の気持ちがなんとなくわかったけれど、やっぱり自分と桜井は違う、と思った。

 奈月にも厳格で生真面目な父親がいたが、奈月は彼の言動に反発などすることなく、ただ黙って従うだけだった。それが正解なのだと、信じて疑わずに。

 結果……自分と桜井は同じ立場にいながら、まったく正反対の人間になってしまったのだ。

 桜井が弱々しげに、再び口を開く。

「そんなある日、彼が事故に遭ったからすぐ病院に来てくれ、という連絡が入った。けど俺は……」

 唐突に、そこで言葉が切られた。いつまで経っても発せられない次の言葉に、奈月が不思議に思って彼を見る。

 桜井はただ、言葉もなく肩を震わせていた。強く握られた拳も小刻みに震えている。うつむいていたため表情はよく見えなかったけれど、もしかしたら泣いているのかもしれない。

「俺は、行かなかった」

 落ち着くように、桜井は吐息交じりの声で呟いた。

「どうして……行かなかったんですか」

 思い切って、奈月が声を上げた。桜井は奈月の方へ視線を向けると、淋しげに笑った。

「どうしても、行くわけにはいかなかった。俺のちっぽけなプライドが、行っちゃダメだって、俺を止めた。それで、結局……」

 桜井はそこで再び視線を落とす。彼の目は、少し潤んでいた。

「結局、彼はそのまま死んでしまった」

「……」

「俺はついぞ、彼を父親と呼べないまま……二度と、会えなくなってしまったんだ」

 親孝行、したい時には親はなし。

 そんな言葉を、奈月は思い出していた。

 当の親が亡くなってしまったあとでは、何をすることもできはしない。後になってそれに気が付いた、桜井の抱える痛みと悲しみはどれほどのものなのだろう……と、奈月は思った。間接的に話を聞いているだけの自分でさえ、こんなに痛いのに。

 それはきっと、自分にはわからないほどに……計り知れないものなのかもしれない。

 うなだれる桜井になんと言葉をかけていいかわからないまま、奈月はただ、切なげな眼で桜井を見つめていた。

 桜井が、震える声で呟く。

「今更……反省したって、遅いから。だから俺は今までずっと、何度命日がやってきても、この場所に足を運ぶことができなかった」

 再び顔を上げ、桜井は黒々と光る墓石を見つめた。

「彼は……こんな俺を、一生許してはくれないだろう。俺に愛情なんて、もしかしたらひとかけらも抱いていなかったかもしれない」

「それは、どうかな」

 凛とした声が、静かな墓地に響いた。桜井と奈月は弾かれたように、揃って声の主――青柳の方を見る。

 青柳はいつもより穏やかな、優しい表情で桜井を見ていた。

「知っているかい、健人」

 辺りをゆっくりと歩きながら、青柳が語りだす。

「親というのはね、我が子のことが何よりも愛しいし、どんなものをかなぐり捨ててでも守りたいと思うものなんだよ。それこそどんな仕打ちを受けても、許してしまえるほどにね」

「ま、まさか」

 桜井が驚愕したように目を見開き、震える声で反論した。

「あの人が……そんな甘ったるい感情、抱くはずない」

 ふふ、と青柳は笑った。

「確かに、そんなイメージはないだろうね。君の父親は……葉一よういちは、ひどく堅物だったから」

 まるで桜井たちのことをよく知っているような青柳の言い方に、奈月はきょとんとして首を傾げた。

 そんな奈月の様子に気づいたのか、青柳は丁寧に解説をくれた。

「私はね、彼の父親とは――葉一とは、長年の友人だったんだよ」

「そう、だったんですか」

「あぁ。今日この場所にいたのも、友人の墓参りをしていたからというわけだ」

 なるほど、と奈月は思った。

 つまり、桜井と青柳が互いを『柳さん』『健人』と親しげに呼び合うのも、そういう付き合いがあったからだったのだ。

 奈月が納得したのを確かめると、青柳は再び桜井の方を向いた。

「だけどね、健人。私はずっと、葉一から相談を受けていたんだよ。彼は頭がよかったから、自分の性格についてもちゃんと理解していた。息子がそんな自分を嫌っていたということも」

「そんな……わかってたくせに、何で」

「葉一はね、びっくりするぐらい不器用な男だったんだよ。大切に思うからこそ、その思いをどうやって伝えたらいいのかわからない。ましてやその人は自分を嫌っている。だから、なおさらどう接していいかわからなかった」

 その気持ちは、奈月にもなんとなくわかるような気がした。

 しかし桜井はまだ納得がいっていないようで、険しい顔で腕を組み、幾度か首を左右に傾げていた。

「まだ……にわかには、信じがたいようだね」

 そんな桜井を見て、青柳は苦笑した。

「ならば、これを見れば……信じてもらえるかな」

 青柳は桜井に、一つのビデオを手渡した。

「何ですか、これ」

「見てもらえればわかるよ」

 青柳はにっこりと笑ってそう言うだけで、それ以上は何も語らなかった。

 桜井が受け取ったことを確かめると、青柳は「では、また」と言って踵を返す。そのまま軽く手を振りながら、悠々と立ち去って行った。


「先生……今日は、もう帰りましょうか」

 青柳の後姿を見つめたまま茫然としていた桜井に、奈月が声をかける。桜井は言葉もなく、こくりとうなずいた。

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