14.わが胸の悲しみ:後篇
二日後。
その日は休日で、本来ならば塾はないはずだったのだが、奈月は朝から塾へと向かっていた。桜井に呼ばれたのだ。桜井はいつもの教室ではなく、講師たちが集まる職員室のような場所を指定した。
奈月が到着すると、桜井は既にいた。彼のほかには誰もおらず、閑散としている。桜井は設置されたテレビの前に座り、不安げな表情で手にしたビデオを所在無く弄んでいた。
「先生?」
声をかけると、我に返ったように奈月を見る。奈月と目が合った瞬間、ほっとしたように微笑んだ。
「藤野。来てくれてありがとう」
「それ、見るんですか」
桜井の隣に腰をおろしながら、できるだけ何気なく聞こえるように尋ねる。桜井は気まずそうに視線を泳がせた。
「うん……まぁね。一人じゃやっぱり見る勇気なくて、君を呼んじゃった」
ごめんね? と言って、桜井が首を傾げる。その瞳は不安げに揺れていて、思わず『大丈夫だよ』と言って抱きしめてあげたくなってしまうほどに弱々しいものだった。
さすがに抱きしめるまでは出来ないので、代わりに奈月は桜井の手をぎゅっと握った。
「大丈夫です。わたしが、ちゃんと傍についてますから」
こわばっていた桜井の表情が、少し和らいだ。
「ありがとう……」
ビデオをデッキに入れ(古い塾だけあって、デッキはまだDVD対応ではなくビデオ対応のものだった)、再生ボタンを押す。
しばしの沈黙の後、画面に現れたのは、桜井によく似た男性だった。眉間にしわを寄せ、気難しそうな顔をしている。桜井とは正反対の表情だ。
瞬間、桜井が奈月の手を強く握りしめる。この人が桜井の父親なのだと、すぐに奈月は理解した。
男性は仏頂面で、しばらくきまり悪そうに視線をさまよわせながら口を開閉させていたが、『ちょっとー、父さん!』『早く言いなさいよぉ』という二つの女性の声が向こうから聞こえてくると、『わ、わかっている』と、焦ったように口を開いた。
「この声は多分、母さんと……
独り言のように、桜井が呟いた。
「真白さんっていうのは」
「姉だよ」
「まだお若いところを見ると……結構昔に撮られたもののようですね」
「そうだね……もう、何年前になるんだろう」
桜井は少し寂しそうな眼差しで、画面を見つめていた。
画面の向こうでは、相変わらず『早く~、お父さん。言うって言ったのはお父さんでしょお?』『早く覚悟決めなって!』『ちょ、ちょっと待て。心の準備が……』などといったごたごた(?)が繰り広げられている。
やがて気の強そうな女性の声が無理やりカウントダウンを始めたため、男性は諦めたように咳払いをし、話し始めた。
『あー、えー……健人。お前がこれを見ているということは、
龍次というのは、確か青柳塾長の下の名前だったような……と、奈月はぼんやり思い出していた。
「何が……良かっただよ。ばーか」
桜井が絞り出すような声で呟く。その表情は、無理に強がっているようにも見えた。
男性はしばらく何を言おうか迷っているようだったが、『思うことを、素直に言えばいいのよ』という向こうからの言葉が聞こえると、少し安心したような表情になった。
『思うことを、素直に……か。そうだな……』
男性は少し頬をゆるめたようだった。桜井が信じられないというように目を見開く。多分、父親のそんな表情を見たのは初めてだったのだろう。
コホン、と咳払いをして、姿勢を改めながら男性はカメラの方を――画面の向こうにいる、桜井と奈月の方を――しっかりと見据えた。
『俺は……こんな性格だから、なかなか……お前とはちゃんと話すことができずにいるな。顔を合わせば喧嘩ばっかりして。改善したいとは思うのだが、なかなか難しいんだ。こんな俺を、お前が嫌っているのも知っている』
淡々と、男性が話す。桜井は食い入るように、たどたどしく紡がれる言葉を聞いていた。
『けど……けど、俺は。お前がこの世に存在してくれていることが、何よりも嬉しいと感じている。何年たっても、その気持ちはずっと変わらないだろう』
桜井の目が潤み始めた。奈月の目頭も、自然に熱くなっていく。
『生まれてきてくれてありがとう、健人。不器用な俺だけど……これからも、親子でいてほしい』
桜井の目から、耐え切れなかった一筋の涙がこぼれ落ちた。
「これからも、だなんて……もう遅いよ。馬鹿……」
堰を切ったように、桜井の目からは大粒の涙がとめどなくあふれ出した。
「父さん……父、さん……」
今まで言えなかった言葉を幾度も繰り返しながら、桜井は泣きじゃくっていた。奈月はただ隣で、そんな彼の手を握ることしかできなかった。
◆◆◆
「こうして……何のためらいもなく、この場所に来れたのは初めてだよ」
黒みがかった墓石に花を手向けながら、桜井が穏やかな表情で言った。
「君の、おかげだ」
「わたしは何も……むしろ、きっかけをくれたのは塾長ですよ」
線香に火をつけながら、奈月は微笑んだ。
桜井は黙って首を振った。
「柳さんももちろんだけど……もし君がいなかったら、俺は……ずっとあのままだったと思う。君がいてくれたから、俺は逃げずに向き合えたんだ。本当に、感謝してもしきれないくらいだよ」
桜井の爽やかな笑顔に、奈月は思わず顔を赤らめた。「どう、いたしまして」ともごもご呟きながら、先端の赤く光った線香の束を手渡す。
桜井は「ありがとう」と言ってそれを受け取ったが……。
「せっかくだから、君も参ってくれるかな」
「わたしも?」
桜井は無邪気にうなずき、奈月に数本線香を手渡した。奈月は少しためらうそぶりを見せたものの、おどおどとそれを受け取った。
「いい、んですか?」
「うん。むしろ、参ってほしい」
憑き物が取れたかのような、爽やかな笑顔。どうやら彼の中で、ようやく色々と整理がついたようだ。
奈月は安堵の笑みを浮かべながら、うなずいた。
「わかりました」
「――あの日、父さんの命日の日」
墓参りを終えた帰りの車内で、桜井は唐突に語り始めた。
「君を呼んだのは、俺が不安だったからっていうのもあるけど……もう一つ、理由があったんだ」
「理由、ですか?」
前を見たまま、こくり、と桜井はうなずいた。
「君に、俺と同じ後悔を味わわせたくないと思った。早く、実行してほしかった。もうすぐ俺は……君に、先生らしいことを何もしてあげられなくなってしまうから」
そう言うと、桜井は少しだけ淋しげな表情をした。
桜井から明確な別れを示唆するような言葉が発されるのは初めてだ……と、奈月は思った。それはもうすぐそこまで来ているのだと、改めて思い知らされる。
「俺にはもういないから、いまさら言ったって遅いけど……君のお母さんは、まだ元気にしているだろう?」
奈月はようやく、桜井の言わんとすることの意味が分かった。桜井だけじゃない。ついに自分にも、行動を起こさなければいけない時が来たのだ。
「今のうちに……ちゃんと『お母さん』って、呼んであげてほしい」
それで俺も、報われるような気がするんだ。
昔の奈月ならば、拒否してしまうであろう言葉。しかし今の奈月は、それをすんなりと受け入れられるような気がした。
「……そう、ですね」
後悔だけはしたくない。ちゃんと、すべきことはしなくちゃ。
今年こそ変わらなくちゃって、決めたんだから。
◆◆◆
「か、帰りました」
「お帰りなさい、奈月」
相変わらずおっとりとした母親に少しだけ拍子抜けしながらも、奈月は心の準備をするかのように、すぅ、と息を吸った。
「もうすぐ夕飯ができるから、もう少しだけ待ってね」
「はい、おかあさん」
言った後、奈月はすぐに気恥ずかしくなった。心臓がどくどくと音を立て、血流が一気に良くなったような気さえする。
「じゃ、じゃあ後で!」
もつれる舌でどうにか言い捨てるように叫び、奈月はパタパタと足音をさせながら忙しなく自室へ走っていった。
しばしの沈黙の後、後ろで震える吐息とすすり泣きの声が聞こえたけれど、奈月は気づかないふりをした。
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