11.小悪魔的な思い

 ふわり、ふわりと身体が揺れる。

 この不思議な感覚は、きっと暑さのせいだけじゃないはずだ。


 蝉は鳴き、太陽は無駄に活発に働き、じりじりと人間の体力を奪っていく、そんな季節。

 藤野奈月は油断した。

 夏休みは、塾に行く以外ほぼ外出する用事がない。昨年は桜井の突然の思い付きで、たびたび出かけることがあったのだが、今年は受験の年であるためか、それもあまりなくなっていた。

 用事のない日、彼女は主にクーラーの効いた部屋で勉強をして過ごす。だから特に喉が渇くことなどはなく、ここのところあまり水分を摂っていなかった。どうやらそれが仇になったらしい。

 その日、塾があったため久しぶりに外出した奈月は、異様な眩暈を覚えながら教室へと向かっていた。

 それでもどうにか古びた建物へたどり着くと、ミシミシと音のする階段を昇り切り、やっとの思いで教室に辿り着く。

 力のあまり入らない手で、ゆっくりとドアを開けた。

「――にちは」

 いつも通り天真爛漫な笑顔で迎えてくれている(はずの)塾講師・桜井健人の顔も、言葉も、もはやよくわからない。

「――藤野?」

「せ、せ……」

 『先生』と呼ぼうとしたけれど、舌が回らない。一体どうしてしまったというのだろう。さっきから、頭がくらくらして、正気ではいられないのだ。

「――した、調子悪いのか?」

 桜井の心配そうな声に、大丈夫です、と答えようとしたちょうどその時。

 ぐらり、と重心が傾く。体勢を立て直すこともできぬまま、奈月は力なくその場に倒れこんだ。

「――藤野!」

 最後に奈月が認識できたのは、びっくりしたような桜井の顔と、焦ったような声だった。


    ◆◆◆


 意識を失った奈月を医務室に運び、一つだけ置かれたベッドにそろそろと横たえる。奈月はすっかりぐったりとしていて、先ほどからされるがままだ。ずいぶんやられているな、と呟き、桜井はエアコンのスイッチを入れた。

 この塾には、医務室と職員室にだけエアコンがついている(とはいっても、随分ガタがきている古いタイプのものだ)。教室にもエアコンを入れろ、と思うのだが、なんせ空き教室が無駄に多い為、全てにつけると予算が半端ないことになってしまうのだ――と、塾長の青柳あおやぎが前に言っていた。

「だったら職員室じゃなくて、生徒の来る教室に優先してつければいいものを……全く、柳さんって人は」

 そういう気遣いがあの人には足りないよ、などと塾長への文句を言いながら、桜井は手早く氷枕とスポーツドリンクを奈月のもとへ持っていった。

 エアコンが効いてきたのか、部屋は先ほどよりだいぶ涼しい。氷枕を首の下にあてがってやると、奈月は冷たさのせいかぴくり、と反応した。

「んぅ、ひやってする……」

 可愛らしいことを言うんだな、と桜井は少し笑ってしまった。呼応するように、ゆっくりと奈月の瞳が開く。

「せんせ……?」

「やぁ、気が付いたようだね」

 桜井は奈月を安心させるように目を細め、彼女の汗でうっすらと濡れた前髪を梳くように撫でてやった。奈月は「ん……」と声を上げながら、一瞬気持ちよさそうに目を閉じる。まるで猫みたいだな、と桜井は思った。

「わ、たし……」

「教室に来たとたん倒れたんだよ。多分、熱中症だ」

 ちゃんと水分摂ってなかったんだろう、と軽く嗜めるような言葉を掛けながら、桜井は先ほど持ってきたスポーツドリンクを奈月に差し出した。

「ほら。自分で飲める?」

「ん……」

 奈月は一見肯定とも否定とも取れる唸りを上げたが、手元がおぼつかないところを見ると、どうやらまだ自らで水分を取るのは無理らしい。

 見かねた桜井がペットボトルの蓋を開け、奈月の口元まで持っていってやった。最初はためらうように口を開閉させていた奈月だが、やがてこくこく、と遠慮がちに液体を飲み込む音がした。

「ぷは、」

「どう? 少しは楽になった?」

 こくり、と奈月は頷いた。さっきと比べると随分顔色もよくなっている。桜井は安堵したように微笑むと、奈月の髪を数回撫でた。

「今日の授業はなしにするから、もう少しここで休んでいるといいよ。君のことだから、普段から睡眠時間も短いんだろう」

「そんな、こと……ないです」

 若干頬を染めながらきまり悪そうに否定する奈月を、桜井は可愛らしいなと思った。

「……ほら、もうお休み」

 安心させるように頭をポンポンと軽く叩き、薄布団をかけてやる。とたんに奈月はとろんとした目になった。


「……しょ」

 桜井が医務室から出て行こうとすると、小さく呟く奈月の声がした。思わず振り向き、聞き返す。

「え?」

「……ね、ちゅ……しょ……」

 それは眠りにつく寸前の、ほんの戯言にすぎないようだった。先ほど桜井が言った『熱中症』という言葉が耳に残って、なんとなく復唱したのだろう。しかし彼女が発した言葉はひどくたどたどしく、聴く人によっては誤解を招きかねない。

 現に桜井には、それがいかがわしいワードにしか聞こえなかった。その場面をうっかり想像してしまい、どんどん顔が熱くなっていくのが分かる。

「……っ、何考えてんだ、俺は」

 きっと今、自分の顔は手遅れなほど真っ赤になっていることだろう。全く、これで人に――特に塾長に――会ってしまったらどうしてくれる。

 無意識とはいえ、また奈月にやり込められてしまったような気がして、桜井は悔しくなった。きびすを返し、ふくれっつらで奈月のもとへ戻っていく。

「全く……俺はいつも君に負けちゃってるよね。ほら、現に今日だって」

 奈月の傍らに跪き、すっかり夢の中へ入ってしまったらしい奈月の前髪をそっと除けた。

「だからさ、これぐらいの悪戯、許されてもいいんじゃない?」

 桜井は囁くと、口元を意地悪く吊り上げ、いじめっ子のような笑みを浮かべる。そしてあらわになった奈月の額に唇を寄せ、わざとリップ音を立てて口付けた。

「お休み」

 得意げに小さく笑って立ち上がり、桜井は今度こそ医務室を後にした。


「……ばか」

 ――その後、奈月が真っ赤な顔で額を抑え、潤んだ瞳で医務室のドアを睨んでいたことなど、桜井は知る由もなかった。

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