10.私の心に安らぎを

 陽の光がのどかに差す春の日に、どうして落ち着いた心もなく桜の花は散り急ぐのだろうか?


「花の命は短くて……なんて言いますからね」

 街外れの塾にて。窓際の席に座って頬杖をついている女子生徒――藤野奈月が気だるげに言った。

「それじゃさ、生き急いでるみたいじゃん。春なんだからもっとゆっくりしてもいいんじゃないかと思うよ。俺は」

 奈月の向かいの席に座り、今にも机に倒れこみそうになっている塾講師――桜井健人が眠そうに答えた。

 受験勉強をしばし放置して、二人でのんびりと窓の外に広がる景色を見る。よく晴れた青空の下、大きな桜の木が見頃を迎えていた。少し開けられた窓からはふわりと春風が吹き、さらに止めとでも言わんばかりに穏やかな春の陽射しが教室まで入ってくる。二人ともすっかり睡魔のお誘いを受け、うつらうつらし始めていた。

 先に限界を迎えたのは桜井だった。普段から言動が子供じみている桜井だが、このようなところもやはり子供のようだ。

「藤野……俺、もう駄目……だ……」

 呂律が充分に回っていない声がしたかと思うと、桜井の身体からぐったりと力が抜けた。いきなり周りが静かになる。

「先生……?」

 不審に思った奈月は席から立ち上がり、桜井の顔を覗き込んだ。

 桜井は完全に机に突っ伏していた。顔が横を向いているので、閉じられたまぶたや半開きの唇がこちらからも伺える。背中が上下し、規則正しい寝息がかすかに聞こえた。

 いい大人とは思えないほど無防備なその寝顔を、奈月はしばらく考え事をするようにぼうっと見つめていた。が、やがてはっとした表情をすると、ぶんぶんと首を横に振った。

「わたしったら、一体何考えてるの……」

 ぶつぶつと、自分に言い聞かせるように呟いた。


 ひらり、


 満開の桜から、薄桃色の花びらが次々と巣立っていく。一つ、また一つ。ひらひらと、ひらひらと。その儚くも美しい風景を、奈月は何気なく目で追っていった。

 重力に抗うことなく、舞い踊るように落ちてくる。そのうちの一つが、春風と共に教室内へ入ってきた。そして優しく、音もなく、眠っている桜井のふわふわとした茶髪の上に着地した。

 思うより先に、半ば反射的に奈月は手を伸ばした。目の前の柔らかな茶髪にそっと触れる。花びらを取ろうとしただけのはずだったのに、何故だか伸ばした手を引っ込めようという気が起こらない。奈月はまるで髪の感触を楽しむように、しばらく手をそのまま逡巡させた。

 撫でるたびに甘く、それでいてどこかさわやかな、不思議な香りが鼻をくすぐる。桜井がいつも使っているシャンプーの匂いだろうか…。

「んっ……」

 そこまで思った時、不意に桜井が声を上げた。奈月は一瞬ビクッと肩を震わせ、急いでその手を引っ込めた。間髪いれず、閉じられていた瞳がゆっくりと開く。上手いこと焦点のあっていないであろう茶色い瞳が、奈月の姿を捉えた。

「ん……藤野?」

「先生、おはようございます」

 奈月は無理矢理笑顔を作った。ようやく作り笑顔も板についてきたとはいえ、こういう状況で笑うのはまだ苦手だ。バレやしないだろうかと内心びくびくしながら、そっと引っ込めていた手を桜井の前に差し出した。その手には、先ほどまで桜井の髪に留まっていた一枚の花びらが乗っている。

「これ、ついてたので。取っておきました」

 奈月が今言ったことを理解したのか、奈月の心中を目ざとく察したのか、それともただ寝ぼけているだけなのか……。桜井はいつも以上に締まりのない表情をした。そうしてこちらへゆっくりと手を伸ばしてくる。奈月は思わず、固く目を閉じた。

 体温の高い大きな手が、奈月のサラサラとした黒髪に触れた。しかしそれは一瞬で、すぐに離れた。

 恐る恐る閉じていた目を開ける。とろんとした笑顔の桜井が、先ほど奈月に触れた手を差し出していた。

「君にもついていたよ、これ」

 その手には、薄桃色の花びらがもう一枚乗っていた。

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