閑話休題2.揺れる心

「桜井先生~、水臭いじゃないですか」

 九月初め、学校が二学期に入って間もない頃。

 久しぶりに顔を出した勤務先での授業が終了すると、ちょうどこれから昼休みが始まる時間帯になっていた。教室内では生徒たちが各々持参の弁当を広げたり、購買へパンなどの食料調達に行ったりと、わりかし自由な時間を過ごし始める。

 そんな中、自分の方にニヤニヤしながら近づいてきた一人の女子生徒――東雲くるみが発したその言葉に、桜井は小さく首を傾げた。

「何がだい?」

 だいたい、この少女と自分は『水臭い』などと言うほどの深い付き合いではないはず。話をすることはおろか、こうして顔を合わせることだってほとんどないというのに……。

 いや、それとも――単に自分が知らなかったり忘れていたりするだけで、彼女との間にはどこかで何かのつながりがあったりするのだろうか?

 そんなことをあれこれ考えている間に、くるみはしびれを切らしたらしく、先ほどよりずっと近くまで、ずいっと顔を寄せてきた。慣れない距離に、照れよりも驚きと戸惑いの方が大きくて、どうしていいか分からなくなった桜井はさらにしどろもどろになってしまう。

 教卓越しから顔を近づけてくる彼女の表情は、何故だかひどく楽しそうで――……そのことに気付いた瞬間、桜井は背筋が急にぞわっと泡立ったのを感じた。

 なんだか、すごく嫌な予感が……。

 そんな桜井の懸念は、見事に的中した。リップクリームでも塗っているのであろうつややかな唇が、弾むような音とともに続きを紡ぐ。

 瞬間、桜井の顔がカッと赤く染まった。

「八月の夏祭り……来てたでしょ? 女の子と一緒に」


 何の話ぃ? などと言いながら次から次へと寄って来ようとする他の生徒たち――おそらくみんな、くるみの友人なのだろう――を曖昧にかわしながら、桜井は直ちにくるみを連れて教室を出た。

 近くの使用されていない空き教室に連れ込み、そこでようやく足を止める。桜井が早足だったからか、同じ速度で半ば引っ張られながら歩いていたくるみは少し息を切らしていた。

「手、せんせ……わかったから、離して」

「あぁ、ごめん」

 掴んでいた彼女の腕を離してやると、くるみはようやくふぅ、と安堵の息をついた。息が整ってきたらしく、今度はふふっ、と思い出し笑いのように笑みをこぼす。

「そんなに、照れなくたっていいのに」

 悪戯っぽい目で見上げられ、桜井は決まり悪そうに目を逸らした。唇を尖らせながら「別に照れてるとかじゃないもん……」と、まるで不機嫌な子供のようなことを言い訳がましく呟く。

 くるみはクスリ、と小さく笑った。

 この人を見るたびにいつも思うけれど――やっぱり、彼女の口から語られる人物像そのものだ、と。

「んで?」

 せっかくこうして二人きりになれる機会をもらったのだ。普段なら聞けないようなプライベートなことを、隅々まで聞いてやろうじゃないか。

 くるみは一人、そんな企みを胸に秘めていた。

「んで、って……」

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを湛えながら、一歩、また一歩と近づいてくる年下であるはずの少女を前に、まるで怯えるように桜井は後ずさった。それでもかまわず、くるみは問いかけてくる。

「あの時一緒にいた子……藤野奈月とは、どういう関係です?」

 まさか彼女の口からその名が出るとは思わなかった桜井は、呆気に取られたようにぽかんと口を開いた。

 藤野奈月――彼女は桜井が本職である塾講師をしている、街外れの塾での教え子だ。他に受け持つ生徒とは少し違った事情があるものの、基本的にはそのスタンスはさして変わらない……はず、だったのだが。

 桜井は近頃、そんな彼女に対する気持ちが少しずつ変化し始めているのを感じていた。彼女を連れて遠出するようになってからは、なおさら。

 ――……というか、そんなことは今どうでもよくて。

 我に返った桜井は、期待のまなざしでこちらを見つめるくるみの問いに答えようと、あわてて口を開いた。

「藤野は、俺が勤務してる塾での教え子だよ。それ以上でも、それ以下でもない」

「へぇ、それにしては」

「……っていうか、君こそどうして彼女を知っているの?」

 くるみの追及にかぶせるように、疑問を呈する。くるみはほんの少し悔しそうな表情を浮かべた後、あぁ、と呟きごく気軽に答えた。

「あたし、奈月とは中学時代からの付き合いなんです」

 予想だにしない答えに、目をぱちくりさせる。

 いや、だって。こんなこと、すごく、すごく失礼なことだってわかってるんだけど……。

「藤野、友達いたんだ……」

 心からの大真面目な呟きに、くるみはプッと吹きだした。

「失礼ですよ、先生。あの子が聞いたら、なんて言うか」

「だよね……お願いだから、このこと彼女には内緒にして」

 手を合わせて頼み込めば、どぉしよっかな~、なんていう妙に思わせぶりな返事。そこをなんとか、とさらに拝めば、くるみは明るい色の瞳をキラン、と光らせた。

 ……あぁ、また何か嫌な予感。

 グイ、と腕を引かれ、自然とくるみと顔を近づける体制になる。この状況、本日何度目だろう……などと至極くだらないことを一瞬考えていると、くるみが耳元で楽しそうに囁いた。

「正直に打ち明けてくれれば、さっきのことはチャラにしてあげます。……実際、どうなんです? 二人っきりで夏祭りに行くなんて……しかも手を繋いで歩くなんて、普通の先生と教え子の関係じゃありえないじゃないですか」

 再び顔が熱くなるのを感じながら、桜井は思わずといったように眉をひそめた。同じように声を落とし、答える。

「……本当に、何もないよ」

 えー、とくるみが不服そうな声を上げる。こんな話を聞いて何が楽しいのかは、残念ながらさっぱりわからない。

 彼女が疑うのも、もっともなんだと思う。けれど……実際そうなのだから仕方ない。

「じゃあ、この間の夏祭りは?」

 くるみは、なおも食い下がってくる。案外しぶといらしい。

 夏祭りに奈月を連れて行ったことに、正直下心が全くなかったというわけじゃない。塾のことは別として、個人的に彼女とデートめいたことをしてみたかった、という気持ちがあったのは事実なのだから。

 けれど……易々と打ち明ければ、絶対にこの子はその件をネタに自分をからかってくるだろう。奈月の友人なのだから、別に悪い子じゃないとは思うのだけれど……何となく、そんな気がしてならないのだ。

 苦し紛れと知りながらも、言い訳めいた答えを返す。

「授業の一環だよ。勉強することだけが、学生の性分ってわけじゃないしね。それを、彼女に教えていただけさ。手を繋いだのは、人込みではぐれたら困るから……ただ、それだけだよ」

 さ、この話は終わり。君も早くご飯食べなきゃ、昼休み終わっちゃうよ。

 誤魔化すように早口で教師らしいことを告げれば、くるみはさらに不満げな声を上げる。

「ほら、早く教室戻りなよ。俺も、職員室戻るから」

 ちょっと先生! というくるみの抗議の声にも構わず、赤くなった顔を隠すように、桜井はそちらから背を向けた。

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