09.伸びゆく姿

 新年の始まりに、目標を立てよう。

 その行動こそが、自分を変える一つのきっかけになるのだから……。


「あけましておめでとう、奈月」

「あけましておめでとうございます」

 正月の朝。

 自宅で早々と起床した藤野奈月は、朗らかな表情の母親・咲葵子と新年の挨拶を交わした。

 奈月が咲葵子と暮らし始めて、もう二年が経とうとしている。それでもまだ奈月は母親というものに慣れておらず、実の母親だというのにいまだに何処か他人行儀で、ぎくしゃくとしていた。

 今年は受験を始め、いつもより様々な変化がある年だ。今年中には自らも、何かしら変わらなくては……。

 奈月はひそかに決心を固めていた。


    ◆◆◆


 そうと決めたら、休んでいる暇はない。みんなが頑張っていない正月の頃から、こつこつ努力を続けなければ。

 奈月は咲葵子の作ったお雑煮やおせち料理をさっさと食べてしまうと、早速自室に戻って勉強を始めた。


 一時間ほど経った頃だろうか。

「――ひゃっ!?」

 突然、奈月の携帯電話から着信音が鳴り響いた。

 奈月は一瞬驚いて心臓が止まりそうになってしまった。集中していたからという理由もあるが、普段から携帯電話が鳴ることなど滅多になかったため、何事かと思ってしまったのだ。

 自らの携帯電話が震えながら光っているのを見て、奈月はホッと息をついた。

「なんだ、わたしの携帯の音か……」

 まだ完全には落ち着いていない心臓を抑え、一度深呼吸する。そうしてからようやく、奈月は携帯電話を手に取った。

「――あ、もしもし藤野?」

 通話ボタンを押すなり、聞きなれた能天気な声が聞こえてくる。

「桜井先生ですか……」

 声の主は、奈月が通う塾に勤務する講師・桜井健人だった。なんとなく気の抜けた声を出すと、とたんにむぅ、と不満そうに唸る声が返ってくる。

「なんだい、その言い方は。失礼だなぁ」

 相変わらずの口調に可笑しさと懐かしさを感じながら、奈月は思わず笑ってしまった。

「そういう意味じゃないですって。前触れもなくいきなり電話が鳴ったものですから、誰っ!? って思っちゃって」

「あ~、びびってたんだ」

「な……びびってなんかないですっ!」

「ふふっ……あ、そうだ。君に言わなきゃいけないことがあったね」

 控えめに笑ったあと、桜井が急に神妙な口調でそんなことを言うので、奈月は少し構えた。

「な、何ですか……?」

「んーとね、」

 奈月のいぶかしげな声など全く意に介していないというように、桜井は朗らかな声で続けた。

「あけましておめでとう!」

 奈月は思わず、座っていた椅子から落ちそうになった。

 なんだ……そんなことか。何か重要なことを言われるのではないかと緊張してしまった、さっきの時間を返してほしい。

 けれど、こんな何気ない会話も……そういえば、もうすぐ当たり前ではなくなってしまうんだ。

 来年の春にある受験が終わったら、塾を辞めなければならないのだから。

 そんな考えがふっと頭をよぎって、奈月は少し淋しい気持ちになった。

「……どうしたの?」

「いいえ、何でも」

 心配そうな桜井の声に苦笑気味に答えながら、奈月は体勢を立て直す。そして、自らもめいっぱい朗らかに言ったのだった。

「あけまして、おめでとうございます」


 ――そのあと桜井の思い付きにより、午後から一緒に初詣に行こうという流れになった。

 あなたが唐突なのはいつものことですが……それにしても、何故いきなりそんなことを?

 何気なく尋ねると、電話口で桜井は「そりゃあもちろん、君の合格祈願だよ」と、まるで何でもない事のように言った。

 が。

「それに……元気そうな君の声を聞いたら、なんだか急に会いたくなっちゃったんだもん」

 その直後にぽつりと発された桜井の言葉に、奈月は不覚にもドキッとしてしまった。

 わたしだって会いたいですよ――という、恋人にすら恥ずかしくてかけられないであろう言葉が、思わず喉元まで出かかった。けれどそんな甘い言葉は自分には吐けない……と我に返り、寸でのところでどうにか飲み込む。

 結局奈月は、少しぶっきらぼうに「じゃあ、これから会いましょうか」と了承の返事を返した。


    ◆◆◆


 「お正月なんだから、やっぱり着物を着ていった方がいいんじゃない?」という咲葵子の提案をやんわりと断って、奈月は桜井との待ち合わせ場所である神社へと向かった。

 神社の前へ着くと、鳥居のところに既に桜井がいた。冬なのでコートを羽織ってはいたが、その中は今まで会っていた時と同じような、比較的ラフな格好だ。

 奈月の姿を見つけるとたちまち笑顔になり、まるで母親を見つけた子供のように「やっほー」と言いながら、こちらに手をぶんぶん振ってきた。変に目立っているが、桜井に気にした様子はない。

 若干頬を赤らめながらも、奈月は桜井のところまで足を進めた。

「先生、今回はわたしより先に来ていらっしゃったんですね」

 開口一番に奈月が言ってやると、桜井は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「さすがに、また遅刻なんてしたら……まずいでしょ」

 何度も女の子を待たせちゃうなんて、男失格だもん。

 桜井は顔を赤らめたまま、はにかんだ。

 昨年の夏祭りの時、桜井は寝過ごしてしまい、奈月との待ち合わせに大遅刻した。奈月はあまり気にしていないのだが、桜井は今でもそのことを、一生の不覚とばかりに反省しているらしい。

「先生は、男失格なんかじゃないですよ?」

 桜井を励ますつもりで、奈月は上目づかいで桜井を見ながら言った。

「先生は……十分、男性らしくて……かっこ、いいです」

 桜井の頬がさらに赤く染まる。それを見て、奈月は急に恥ずかしくなってしまった。

「あ、ありがとう……」

「いえ……」

「じゃ、じゃあそろそろ行こうか……?」

「はいっ……」

 二人して顔を赤らめながら、奈月と桜井は連れだって人ごみの中を歩いて行ったのだった。


 ――神社の境内へどうにかたどり着くと、二人はお賽銭を入れるため財布を取り出した。

「何円入れたらいいんでしょう、こういう時は」

「うーん……五円?」

 桜井がとりあえずといったように五円玉をかざし、困ったように笑いながらコテンと首を傾げる。どうやら桜井にもよくわからないらしい。そんなんでよく「初詣に行こう」などと言えたな……と、奈月は内心呆れていた。

「というか、これって合格祈願ですよね。一体何に対するご縁を願うっていうんですか……」

「そりゃあ、合格のご縁でしょ」

 それは果たしてご縁というのだろうか……?

 なんとなくよく分からないままではあったが、とりあえず奈月は桜井に倣って五円玉を賽銭箱に入れた。ガラガラと鈴を鳴らし、手を叩き、二人で手を合わせてお祈りする。

 それから売店で合格祈願のお守りを購入して、帰路に就くことにした。


「今年も、いい年になるといいね」

 帰り道、桜井がそう言って無邪気に笑った。

「そうですね……」

 答えながら、奈月はこれからのことに思いを馳せた。

 今年はきっと、今までとは違う一年になるのだろう。……いや、今までとは違う一年に、しなければならない。

 改めて決意を固め、奈月は呟いた。

「頑張らなくちゃ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る