05.あなたに微笑む

 とても寒い日に、人間の街へ温かい手袋を買いに行く、子狐のお話。

 遠い昔、そんな物語を読んだことがあったような……。


「そういえば今日、雪が降るそうですよ」

 ある寒い日のこと、街外れの塾で勉強をしていた少女――藤野奈月が、不意に窓の外を見ながらそう言った。

 奈月と向かい合って勉強を教えていた塾講師――桜井健人は、その言葉に過剰反応した。

「え、まじで!? やったぁ!!」

 教える手を止めたかと思うと、とたんに目をきらきらと輝かせながら身を乗り出す。相変わらず子供のような男だ。

「多分、塾が終わる頃にはもう降っているんじゃないでしょうか」

 奈月が再び外を見つめて言うと、桜井は相変わらず目を輝かせながら

「じゃあ早く今日の分終わらせちゃおう!」

 と張り切る。早く終わらせた所で時間が進む訳じゃないのに……と半ば呆れながら、奈月は頷いた。

「そうですね」


「――よし、じゃあ今日はここまでにしておこうか」

「はい」

 いつもの如く授業(といっても個人授業だが)が終わると、奈月はふと窓を見た。うっすらと雪の積もった景色が目に入る。どうやら、勉強をしている間に少し降ったらしい。

「先生、よかったですね。雪が少し積もってますよ」

 奈月が言い終わるか終わらないかのうちに、桜井はがたんと音を立てて椅子から立ち上がった。大急ぎで窓を開け、身を乗り出す。

「本当だ!」

 心底嬉しそうに、両手を広げて降る雪を掴もうとする。そんな様子が可愛くて、奈月は思わず目を和ませた。

「本当に雪が好きなんですね」

「だって綺麗なんだもん。それに、」

 桜井はそこで言葉を止めると、奈月の方を振り返ってにっこりと笑った。

「いっぱい降ったら、外で遊べるしね!」

「そうですか」

 奈月はそう言った後、桜井に一つ提案をした。

「じゃあ……今から少し外へ出てみましょうか?」

 桜井はさっきよりも目を輝かせながら、元気よく頷いた。

「うん!」


    ◆◆◆


「寒っ……」

 自分から外へ出ようと提案したにもかかわらず、奈月は盛大に顔をしかめていた。ストーブがついていて暖かかった教室とは違って、外は身が締まるほどの冷気をまとっている。

 そんな中、桜井はというと……。

「やった、雪だ雪だ!!」

 はしゃぎながらあちこちを走り回っている。本当にこの人講師なのか?と心の中で疑問に思いながら、奈月ははしゃぐ桜井の後をゆっくり歩きながら追いかけていた。


 ――しかし突然、奈月は立ち止まってその場にしゃがみ込んだ。

「どうしたの? 具合でも悪い?」

 先ほどまではしゃいでいた桜井もさすがに気がついたようだ。気遣う言葉を掛けながら、奈月の側にしゃがみ込む。奈月は大丈夫だというように表情を和らげた。

「いいえ、違います」

「じゃあ、何でいきなり座り込んだりなんかしたんだい?」

 桜井が首をかしげる。奈月はそっと地面を指差した。

 そこには、薄く雪が積もった桃色の手袋が片方落ちていた。サイズからして、おそらく子供のものだろう。

「可哀想に……落とした子供はきっと悲しんでいるでしょうね」

 奈月は暗い表情でその手袋を拾い上げ、おもむろに立ち上がった。

「わたし小さい頃、手袋を片方落としちゃったことがあるんですよ」

 ――それは、奈月がまだ幼い頃。

 両親の離婚が成立した翌日。奈月は厳格な父親の目を盗んで、雪が降る中を駆け出していた。離婚と共に出て行ってしまった、母親の咲葵子に会いに行くために。

 だからといって、宛てがあった訳でもない。幼い奈月には母親の行き先などわかるはずがなかった。

 だから、走った。雪に足を取られながらも、必死に走った。辺りを見回し、母親の姿を探し、何度も『おかあさん!』と叫びながら。

 途中で何度も転んだ。寒くて、痛くて、たまらなかったけれど、奈月はぐっと堪えた。母親に会えたら、笑顔を見せたいと思っていたから。

 しかしどれだけ走っても、母親は見つからなかった。奈月はとうとう走り疲れて、雪の積もった地面に座り込んだ。

 ふと気付くと、右手が異常な冷たさに包まれていた。ずっとはめていたはずの手袋が、右手だけなくなっていたのだ。不器用ながらも母親が作ってくれた、暖かい、この世に一つしかない大事な手袋だったのに。

 すっかり赤くなった自らの右手を見つめて、奈月は漠然と思った。

 もう二度と、母親には会えないのだと。会ってはいけないのだと。

 堪えていた涙が溢れてきた。もう止まらなかった。どれだけ願っても、もう母親には会えない。あの人はもう、わたしの母親ではない。楽しかった時は、もう戻りはしない……。

 唇をかみしめて、奈月はもう片方残っていた手袋を捨てた。そしてその場で、声を押し殺して泣いた。

 娘の不在を知った父親が、不機嫌な顔で彼女を迎えに来るまで。

「――……あの日、手袋と一緒にわたしは失ったんです。大切だった、あの手袋と一緒に……あの人との思い出も、子供の無邪気な感情も……」

 奈月の唇は震えていて、その顔は今にも泣きそうに歪んでいた。桜井の表情も自然に暗くなっていく。

「……なんてね、」

 しかしすぐに奈月は桜井のほうへ向き直ると、まるで暗い過去を払拭するかのように精一杯笑顔を作った。

「昔のことです。この手袋を見て、ちょっと思い出しただけですよ」

「……」

「きっとこの手袋を落とした子も、どこかで泣いているはずですよね。たとえそれが一時的な少しの悲しみだったとしても、わたしは、子供のそんな姿を見たくない……」

「そっか……」

 奈月の心情を察したのか、桜井は穏やかな表情を浮かべた。

「君は、優しいいい子だね」

 桜井らしい真っ直ぐな褒め言葉に、奈月は思わず目を逸らした。

「そ、そんなこと……ただ自分と重ねてしまって、つらいだけです」

 口篭もった彼女の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。桜井は一瞬微笑んで、よし、と声を上げて立ち上がる。そして励ますように、俯く奈月の頭をポンと叩いた。

「じゃあ、落とし主を探しに行かなくちゃね」


 振り返って歩き出そうとした時、とある親子らしき女性と少女の姿が二人の視界に入った。今にも泣きそうな顔をしている少女を、隣の女性が慰めているようだ。

 奈月の表情が曇る。それに気付いた桜井が、

「困ってるみたいだよ。声、掛けてみようか」

 小声で奈月に囁いた。奈月は力なくこくり、と頷く。

 奈月の返事を確認した後、桜井は奈月を誘導し、それとなく二人に近づいていった。そして、交互に声を掛けた。

「あの、どうかなさいましたか?」

「……何か、お探し物でも?」

 女性は言いにくそうに告げる。

「あの……この子が、手袋を片方どこかに落としてしまったらしくて」

「凄く気に入ってたのよ。なのにね、なくなっちゃったの」

 女性に続いて、少女が泣き声で言った。

 奈月と桜井は、一つの心当たりにたどり着いた。互いに顔を見合わせる。

「もしかして……」

「何かご存じなのですか?」

 その様子を見た女性が首をかしげた。奈月はしゃがんで少女と視線を合わせ、尋ねた。

「ねぇ。あなたが無くした手袋って、もしかして桃色?」

「そうよ。これと同じもの」

 少女は答え、片手を差し出した。小さなその手は、淡い桃色のふわふわとした手袋に包まれている。二人はそれを見て確信した。

 桜井はポケットから先ほど奈月が拾った手袋を取り出し、少しかがんだ。にっこりと笑いながら、それを少女に差し出す。

「君の落とした手袋は、これだね?」

「そうよ!」

 少女はとたんに嬉しそうに顔を綻ばせ、桜井の手から手袋を受け取った。いとおしそうに抱き締め、飛び跳ねている。女性は驚いたように目を見開いていたが、やがて優しく微笑み、少女の頭を撫でた。

「よかったね、ちぃ」

「うん!」

 帰り際、女性は奈月と桜井のほうへ深々と頭を下げた。少女は無邪気に笑い、二人に向かって手袋をはめた両手をぶんぶんと振った。

「どうも、ありがとうございました。それでは失礼致します」

「ありがとう、またね! お姉ちゃん、おじちゃん!!」

「おじ……」

 桜井が傷ついたような、複雑な表情をした。奈月は思わず噴出しそうになるのを堪え、少女に手を振り返した。

「またね!」

 親子は嬉しそうに微笑みあいながら、手をつないで帰っていった。


「……よかった」

 遠ざかる親子を見つめ、奈月が明るい声で呟いた。

「やけに嬉しそうだね」

 桜井が目をぱちくりさせながら思ったままのことを言った。奈月は彼を見上げ、嬉しそうに微笑んだ。

「嬉しいですよ。あの子の悲しみを取り除けて、本当によかった」

 滅多に見せることのない、心からの純粋な笑みだった。少し潤んだその目には、温かさが宿っている。彼女の表情にほんの少し目を見開いた桜井は、やがてつられるように微笑んだ。

 二人の間に少しだけ、温かいかすかな灯火のような時間が流れた。


「じゃあ、そろそろ塾のほうへ戻りましょうか。おじちゃん」

 しばらくすると、奈月はいつもの皮肉っぽい表情に戻った。

「ちょ、おじちゃんって言うな!」

 ショックを受けたような表情の桜井をよそに、奈月は機嫌よさそうに、鼻歌を歌いながら雪の中を駆けて行った。桜井は少しの間眩しげな表情で奈月の後姿を見つめていたが、やがて苦笑を浮かべて彼女を追いかけた。

「待ってくれよ、藤野!」


「――遅いですよ、おじちゃん」

「おじちゃんとは失礼だな。俺はまだ二十代だよ?」

「おじちゃんじゃないですか。まぁ、中身はまだまだ子供レベルですけどね」

「むぅ……。相変わらず手厳しいな、君は……」

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