閑話休題1.美しいが冷淡
「じゃあ、お疲れ。また来週ね」
「ありがとうございました」
いったん外出していたところから、元の街外れの塾に戻ってきた桜井と奈月。既に授業を終え帰り支度も整えていたため、二人は教室でしばし暖まってから解散することにした。
外はもう、すっかり暗くなっている。本当は送って行ってあげられればいいのだが、奈月自身『一人で帰れる』と言って聞かないし、桜井にもまだ仕事が残っているため断念することにした。
「気をつけて」
出ていこうとする姿に声を掛ければ、「はい」という澄んだ声と共にいつもの無表情が返ってくる。先ほど外で一瞬だけ見せてくれた笑みは、もう跡形もない。ひょっとしてあれは幻だったのだろうか……と、そんな疑いを抱いてしまうほど。
ガラガラ、ピシャリ。
古いタイプの引き戸が閉まり、遠ざかっていく足音を後ろで聞きながら、桜井は職員室へ戻るための準備をする。
ふと窓の外に目をやれば、白い雪が再びちらついているのが見えた。今夜は寒くなるのだろうか、とふと考える。
白く染まった地面に、彼女の顔が――今日見た様々な表情が、ぼんやりと浮かんでは消えていく。
――雪に埋もれた小さな手袋を見つけた時の、寂しそうな横顔。
自らの口から過去を語って聞かせた奈月の、潤む瞳と震える唇が、ひどく儚げだったのを思い出す。
――手をつないで去っていく母と娘の後姿を、無言で見送っていた時の、どこかすっきりとしたような表情。
あの時彼女は、母娘の幸福をまるで自分のものと錯覚していたのだろうか。それとも、決して手に入らない何かに憧れ、焦がれていたのだろうか。
そして――……そのあと彼女が見せた、純粋で柔らかな、自然さを伴った微笑み。
初めて目にした彼女の綺麗な表情に、桜井は思わず息を詰め、見惚れてしまいそうになってしまった。
その夢のような笑みはほんの少しの間だけで、すぐにいつもの皮肉げな無表情へと戻ってしまったのだけれど……それでもその一瞬は確かに桜井の胸に刻みつけられ、しっかりと残った。
目を閉じれば、すぐにでも鮮やかに浮かんでくる。誰もが心を奪われるであろう程の、純真無垢なあの笑顔。
あの時、桜井は実感した。いつでもあんな風に笑えるようになれば、彼女はもっと魅力的な女性になるのだ、と。
奈月の母親は、きっとそれを望んでいるのだ、と。
きっと彼女は、本当はあんな冷たい無表情を浮かべるような子じゃないはず。だから……本来の姿を、取り戻してあげたいと思った。母親の望みを、叶えてあげなければならない、とも。
けれど、それ以上に――……あんな風に笑う彼女の姿を、この目でもっと見たい、と思った。塾講師としての務めとか、そういうことじゃなくて。
ただ、単純に。
「笑った顔を、もっと見たい……なぁ」
懇願の響きを伴った自らの声に、思わず苦笑した。
外を見れば、さっき見た時よりも強くなった無数の雪が、覆うようにあたりを白く染めている。奈月はちゃんと家に帰れただろうか、と桜井は一瞬考えた。
「……いいや、あとで電話してみよう」
呟きながら荷物を纏めた桜井は、足を進め外に出ると、煌々と部屋中を明るく照らしていた電気を消す。窓にぼぅっと浮かび上がった小さな雪景色が、どこか神秘的に映った。
――廊下を歩きながら、ふと思いついたことがあった。
冬が過ぎて、外が暖かくなったら、彼女を誘ってどこか遠出でもしてみよう。今までみたいに近くの海や塾の周りじゃなくて、もっと遠く……そう、車を使って行くような、そんな場所に。
そうしたら、彼女の無表情を少しずつ和らげることができるかもしれない。あの時のような花開くような笑みを、もう一度……いや、もしかしたらいつでも、見ることができるようになるかもしれない。
そんな、そう遠くないかもしれない将来に想いを馳せながら、桜井はゆるりと唇に弧を描いた。
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