04.真の魅力
『秋は夕暮れ』と、どこぞの誰かがそんなことを言っていた。
秋といえばいろいろあるけれど、やっぱり秋の夕暮れは格別だと思う。
というわけで。
「海へ行こう!」
街外れの塾で仕事をしていた塾講師――桜井健人は突然立ち上がったかと思うと、明らかに季節はずれの発言をした。
「いや……なんでいきなり海なんですか?冒頭では夕焼けのこと語ってたくせに。それに、海って普通夏に行くものでしょう?秋に行くものではないと思いますけど」
隣の席に座ってお茶を啜っていた女子生徒――藤野奈月はその発言に対し、少し顔をしかめながら淡々と正当な意見を言った。
それに構わず桜井は、奈月の顔の前でちっちっち、と指を振って見せた。
「わかってないなぁ。藤野は。秋に海で沈む夕陽を見るのが、一番ロマンチックで素敵なんじゃないか」
やっぱ夕暮れといったら海だろ~、と一人で納得している桜井を見て、奈月は大きなため息をついた。
「先生……そういうのは恋人と行ってくださいよ。何もわたしを連れて行く必要はないじゃないですか」
呆れてそう言うと、桜井は唇を尖らせた。
「俺に恋人がいるとでも思ってるのか?」
「いないんですか」
「いないよ、悲しいことにな」
「あぁ……ふっ、やっぱりそうでしたか」
「やっぱりって何!」
大人のくせに、しかも講師のくせに相変わらず桜井はぎゃあぎゃあと騒いでいる。
「というか君さ、最近俺に対する物言いが最初より酷くなってきてない!?」
その言葉に、奈月は一瞬動きを止めた。
確かにここ最近――正確には、一度桜井に対して「馬鹿」と言い放った日から――割と彼に対して、何でも言いたいことを素直に言えるようになった気がする。……まぁ、思い返せば最初から失礼な物言いしかしていないような気もするが。
桜井を見ながらそんなことをいろいろと考えていた奈月だったが、当の桜井はそんな彼女に気が付いていない様子……というか全く気にしていない様子で、すぐさま立ち直ったかと思うと、奈月に向かって無邪気に笑った。
「まぁとにかく。今日はもう塾終わりだし、早速行こう!」
「え、じゃあ咲葵子さんに……」
「こら。咲葵子さん、じゃないでしょ?」
「っ……」
また、だ。
桜井からこの指摘を受けるのは、もう何度目になるか分からない。彼女を名前で呼ぶたび、桜井は同じようにやんわりと否定の言葉を重ねてくる。
一緒に暮らすようになってもう結構経つが、奈月は未だに咲葵子を『母親』と呼ぶことが出来ていなかった。憎んでいる訳ではない。ただ、『母親』という存在をなかなか素直に認識することができないだけ。
自分に母親がいるという事実を、受け入れられないだけだ。
「……ごめんなさい。今はまだ、あの人を母親とは呼べないんです」
勘弁、していただけますか。
落胆したように俯いて、ぼそりと呟いた。
「……そっか。まだ、無理か」
先走らせてごめんね、と囁き、桜井は奈月の頭を慈しむように撫でた。久し振りに感じる温かく心地の良い大きな掌に、ふっと目を閉じる。
しばらく桜井は無言で奈月の頭を撫でていたが、手を離してからは全く何事もなかったかのように、
「まだ暗くなってないから、お家に連絡しなくても大丈夫だよ。もし遅れても、塾で遅くなったことにすればいいさ」
と、先ほどまでなされていた会話を再開させた。
「……そんな無茶な」
奈月は話題が戻ったことに心からホッとしながら、会話を続けた。
「それより、仕事はしなくてもいいんですか」
「気にするな。後でどうにかする」
「どうにかなるものなんですか、それって……」
「大丈夫だって。それより早く行こう、早く!」
「子供ですか。全く……後でどうなっても知りませんからね?」
◆◆◆
塾を出て十五分ほど歩くと、海のある場所に到着した。海岸へと降りる階段の前には、特徴的な人魚の像が二つ、まるで二人を迎えるかのようにそびえ立っている。
「お~、綺麗だなぁ!」
着いた瞬間から年甲斐もなくはしゃいでいる馬鹿な大人(桜井)を、奈月は呆れながらも優しい目で見守っていた。
海水浴シーズンも過ぎ、夕方であることもあってか、海には人がほとんどいなかった。しかし、カップルらしき男女が夕陽を見に来ている姿はちらほらと見かける。みんなロマンチックな雰囲気に弱いのだろうか……。
「藤野!こっちこっち!」
そんなことを考えていると、いつの間にやら桜井が場所を取っておいてくれたようだ。奈月は両手を振っている桜井のもとへ小走りで駆け寄った。
「ここからだときっと、夕日が綺麗に見えるよ!」
「そうですね……あ、もうすぐ陽が落ちるみたいですよ」
桜井はとたんに目を輝かせ、空の方へと視線をやった。奈月もまた、陽の落ち始めた空を見やった。
――オレンジ色に染まった空と沈む太陽が映る海は、桜井の言ったとおりロマンチックで綺麗だった。
「……夕暮れはやっぱり、海で見るのが一番綺麗ですね」
奈月が呟くと、桜井は今まで空にやっていた視線を彼女に向け、得意げに微笑んだ。
「そうだろう?」
「はい、来てよかったです。ありがとうございました」
そう言って、あまり慣れていない笑みを作ってみる。桜井は一瞬驚いた顔をしたが、やがて照れたように笑った。
いつもの笑顔も今日は、夕陽に照らされて特別綺麗に見えた気がした。
「なんだか、魔法みたい」
太陽が完全に沈んだ頃。いまだ名残惜しげに空を見つめる桜井の横顔を見て、奈月はポツリとそう口にした。
「……え?」
桜井が奈月を見て不思議そうに首をかしげる。
「今の、どういう意味?」
奈月はそんな桜井に向かってつっけんどんに言った。
「内緒です。先生には教えてあげません」
桜井は不満げな顔で「なんだよー」と言いながら唇を尖らせた。そんな桜井を横目に見ながら、奈月は満足げな表情をした。
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