03.細やかな愛情

 あー夏休み! なんて言ってはしゃいでいる人もいるけれど……。

 夏休みだからこそ頑張り時だからと暑い中勉強を強いられるのは、正直どうかと思う。


「暑いねぇ……」

 街外れの塾にて。汗だくになりながら、教室の真ん中の席にだらりと座っていた青年――塾講師・桜井健人が力なく呟いた。

「本当に暑いですね。この教室、クーラーないんですか」

 桜井の向かいで、時折浮かんだ汗を拭いながら問題集とにらみ合っている女子生徒――藤野奈月は僅かに苛立ったような表情で文句を言った。

 桜井は困ったように笑いながら、頭を掻いた。

「残念ながら貧乏なんだよねぇ、うちの塾って……」

「じゃあせめて扇風機は」

「あぁ、あるよ。さすがにこの季節、何もないのはしんどいからね」

 ちなみに今つけてるよ、と言いながら桜井は教室の端を指差した。確かにそこにはせわしなく首を動かす扇風機が一台だけある。それでもくるくると回る羽根からは、申し訳程度の生ぬるい風しか伝わってこなかった。

 奈月は諦めたようにため息をついた。

「本当に……わたし、どうしてこんな塾に来たんだろ」

 そもそも、咲葵子さんがあんなこと言わなければ……。

 そんな風に思いながら小さく悪態をつくと、それに呼応するように桜井も唇を尖らせながら呟いた。

「俺も……何でこんな塾で働いてんのかな」

「あなたが言わないでくださいよ」

「まぁ細かいことは気にしないで。……あ、そうだ!」

 言いながら、桜井はおもむろに立ち上がった。その目はまるで、名案を思いついた子供のように無邪気に輝いている。そのまま「ちょっと待ってて」と言い残し、教室を出て行った。


    ◆◆◆


「――遅い」

 奈月は頬杖をつきながら、壁に掛けられた時計を一瞥した。

 何せ桜井が教室を出て行ってから、もうかれこれ三十分近く経っていたのだ。クーラーもなく扇風機も効かないこの部屋でこれ以上桜井の帰りを待つことは、奈月にとって拷問以外の何者でもなかった。

 もしやあの人はわたしを置いて、今頃涼しい部屋で一人サボっているのだろうか……。

 ぼうっとする頭で、奈月はふとそんな疑念を抱いた。桜井は「貧乏なんだよねぇ」なんて言って誤魔化していたけれど、奈月はちゃんと知っていた。桜井を始めとする講師たちの仕事場には、クーラーがきちんと完備されているということを。

 もちろんその疑惑を否定する気持ちが全くないわけではない。だけどなんだか空しくなって、そう思う自分にひどく腹が立った。

 奈月は勉強道具を一旦全て片づけると、机に顔をつけた。頬に当たるひんやりとした木の素材が心地いい。

「ずるいですよ……先生の馬鹿」

 寝そべったままポツリと、そんな独り言を漏らしたとき。

 ――突然首筋に、気温の高い部屋には場違いな鋭い冷気を感じた。

「ひゃっ!?」

 素っ頓狂な声を上げ、奈月は飛ぶような勢いで起き上がった。両手で首を押さえながら、何事かと言いたげな眼差しで隣を見る。

 奈月の視線の先には、いつの間に戻ってきたのか、先ほどよりさらに汗だくになった桜井がニコニコ顔で立っていた。棒アイスが入った袋を両手に一つずつ持っている。どうやら、先ほどの刺すような冷気の原因はそれらしい。

「最初は冷蔵庫にアイスあるかな~と思って行ったんだけど、生憎ストックが切れててさ。コンビニまで買出しに行ってたら遅くなっちゃった」

 いまだに首を押さえたまま呆然としている奈月に、桜井はそう語りながら持っていたアイスの一つを差し出した。我に返った奈月は「ありがとうございます」と掠れた声を出し、受け取る。

 冷蔵庫、あったんですね。

 そう続けようとしたけれど、それ以上声はでなかった。

 こんなに優しい人を、さっきまで疑っていたなんて……。

 なんだか泣きたくなって、奈月はそのままうつむいてしまった。

「……ごめんね?」

 黙り込んでしまった奈月の顔を覗き込み、桜井は恐る恐る謝罪の言葉を口にした。反省しているのだろう。自分が遅れてしまったせいで奈月に余計な心配をさせてしまったのではないか、と。

 奈月は逆に謝りたい気持ちでいっぱいになった。だけど、どうも素直になることができない。大人ぶってはいても、こういうところでやっぱりまだまだ自分は子供なのだと思い知らされる。

 ふと、彼の手に目がいった。少し前の雨の日に、一度だけ頭を撫でてもらったことのある、包み込むように大きくて優しくて――気持ちが落ち着いて、思わず甘えたくなるような、不思議な力を持ったそれ。

 もう一度頭を撫でてくれたら許す、と――そう素直に言えたら、どれだけいいだろう。

 けれど……。

 代わりにぼそりと、一言だけ呟いた。

「先生の、馬鹿」

「え、えええええ!? 本当ごめんなさい!!」

 おろおろする桜井に背を向け、奈月はさっさと棒アイスの袋を開けると中身を口に放り込んだ。ソーダ味のひんやりとしたそれは、火照った身体を冷ますのにうってつけだった。

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