02.情の温かさ

 雨は湿っぽくて、鬱陶しいと嫌う人も多い。

 それでも――……そんな梅雨ならではの過ごし方がちゃんとあるってこと、彼らはきっと知らないんだ。


 街外れの塾にて。

 内装と同じく古びた玄関には、忘れ物なのか、それとも単に置いてあるだけなのか……そんな所在のない傘が何本もしまわれている傘立てと、傍らには何故かパイプ椅子が一つだけ、出入口と内部を繋ぐ廊下から背を向けるようにして置かれている。

 現在そこに座っている少女――藤野奈月は、外で響く雨の音を聴きながら、開いた化学の参考書に目を落としていた。

 今やここは、ほとんど物音の聞こえない、奈月好みの静かで落ち着いた場所となっていた。講師や生徒の数がそんなに少ないというわけではないみたいだけれど、今はもうそのほとんどが帰路に着いた後らしく、後ろから時折聞こえる足音以外にその気配は感じられない。

 出入口や窓に雨の当たる、パラパラという独特の音が、奈月はとても好きだった。まるで心が洗われるような、清らかな気分にさせてくれる。

「――あれ、まだ残ってたの」

 不意に頭上から声が降ってきて、奈月は緩慢な仕草で頭を上げた。表情を一切変えぬまま、それでも声色だけは驚いたような様子で、それまで閉ざされていた唇を動かし言葉を紡ぐ。

「桜井先生」

 目の前に立って奈月を見下ろしていたのは、二か月ほど前から奈月の担当をしてくれている塾講師――桜井健人。湿気の影響か、いつもよりさらに跳ねまくった茶髪をふわりと揺らしながら、今日もその童顔に人懐っこい笑みを浮かべている。

「何してるの?」

 不意にそう問われ、奈月は膝に置いていた参考書を桜井の前に掲げてみせた。その状態のまま、ぶっきらぼうな声で答える。

「ご覧のとおりですよ」

「咲葵子さんには、お迎え頼めないの?」

 咲葵子――戸籍上奈月の母親に当たる、その人の名前を出されたことに、奈月はほんの少しだけ眉根を寄せた。

「あの人は、免許を持っていませんから」

 感情を込めず、淡々とした早口で答える。

「こんな雨じゃ、傘を持っていても濡れるでしょうし……だから少しでも落ち着くまで、こうして時間を潰すことにしたんです」

 正直、これは言い訳だった。

 本当は、家に帰るのが憂鬱だったから……少しでもその時間を遅らせようと思って、こうしてここにいるだけにすぎないのだ。

 でも、この人にそこまで言う義理はきっとない。いくら、とっくに見透かされている事実だったとしても。

 内心から込み上げてきそうな感情を押しとどめるため、まるで何も考えていなさそうな目の前の男を強気に睨む。しかし当の桜井はその視線に少しもひるむことなく、ただいつものようににっこりと笑った。

「そっかぁ」

 じゃあ、俺も付き合うよ。

 何でもないことのように自然と続けられたその言葉に、奈月は一瞬目を見開いた。

 てっきり、『そっかぁ、早く雨が上がるといいね。じゃあまた明日』なんて言い残して、すぐにこの場を去ると思っていたのに。……いや、この人のことだから、そんな冷たいことは言わないんじゃないかとも一瞬思ったけれど。

 だけど、でも……。

「今までみたいにおとなしくここで勉強していますから、結構です。それに……先生にだって、お仕事があるでしょう」

「大丈夫、俺もちょうど休憩したいと思ってたところだし。それに……」

 そこで言葉を切った桜井は、奈月の手から開かれたままの参考書を取り上げた。あっ、と思わず漏れた奈月の抗議の声にも構わず、いまだ付箋のなされていないページを惜しげもなくぱたりと閉じてしまう。

 返してください、と口を開きかけた奈月を遮るように、桜井は続けた。

「ここで一人放置したら、また君は根詰めて勉強ばかりするんだろう?」

 寂しげに揺れる茶色い瞳と、差し向けられたその言葉に、ドキリとした。彼の言うことは、まさに図星だったから。

 反論しようと、震える唇を開く。

「だって……」

 だって、それしか方法を知らない。

 これまで構ってくれる親も友人もなく、一人っきりで過ごすことにすっかり慣れきってしまっていた奈月は、ぽっかりと空いた時間を過ごす術を一つしか知らなかった。

 とにかく時間を無駄にせず、自分なりに知識を蓄えること。

 そうすることでしか、奈月は一人の時間を埋めることができなかった。

 言葉と共に、これまで我慢していたものが全部出て行ってしまいそうで、思わず唇と目をきつく閉じる。

 うつむいた奈月の頭に、不意にぽふり、と温かいものが落ちてきた。何事かと、閉じていた目をそっと開く。顔を上げれば、柔らかく微笑む桜井と視線がかち合った。

 ふと視線をずらすと、彼の左手がこちらに伸びているのが見えて――そこでようやく奈月は、頭の上に乗っているのが彼の手のひらであるということに気付いた。

 自分のものより大きくてしっかりとしたそれが、奈月の頭に触れながら、時折髪を梳くようにして幾度か動く。初めての感触に戸惑いながらも、不思議と気持ちが和らいでいくのが分かった。

 母親には、何度かこうして頭を撫でられたことがある。けれど、それ以外の人に――ましてや男の人に、こんなにも優しい手つきで撫でてもらうのは初めてだった。

 心地よさのままに目を閉じると、瞼の裏に父親の姿が浮かぶ。最後にあの人が触れてくれたのは、一体何年前だろう……。

 ポンッ、と頭の上で弾んだ手に、奈月はハッと我に返った。いつの間にか目の前でしゃがみこんでいた桜井に、一瞬びくっとしてしまう。

「せっかくだし、落ち着くまで何か話そうよ」

 『落ち着くまで』の主語には、きっと言うまでもなく『外が』とつくのだろう。けれど奈月には何故か、別の意味に聞こえたような気がした。

 にっこりと屈託なく笑まれれば、反論する気も不思議と失せてしまう。それが何だか悔しくて、口をつぐんだまま、奈月はこくりとうなずいた。

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