街恋物語

街外れの塾にて

本編

01.出逢い

 燻っていた自分を変えてくれる出会い。

 それは、運命だなんて信じた覚えのない言葉を使ってもいいと思えるくらいに、素敵なものだったりもする。


 築何年になろうかというほど古ぼけたその建物に入るのは、とても勇気が要った。まるで昔住んでいた田舎にある、『山姥の家』と呼ばれていたあの不気味な一軒家のようで。

 間違っている、とは思えない。ここまで歩いてきた道はちゃんと事前に教えられた通りのはずだし、何より――古くて読みにくいものの――そこにはきちんと看板が立っている。

 ここが、今日から通う塾なのだ。

 とにかく入ってみよう。それしかない。

 覚悟を決め、ごくり、と息を呑む。そして、藤野ふじの奈月なつきはようやく立て付けの悪い入口のドア(というより戸)を開いた。


    ◆◆◆


「あなたは今日から、わたくしが引き取って育てますわ」

 唯一の家族だった父親の葬儀の日、奈月の前に現れた女性はそう言って微笑んだ。

「今日からようやく、一緒に暮らせますわね」

 その女性は、奈月のことをよく知っているようだった。

 誰、だっけ……?

 奈月は最初その人が誰なのか――その人が、自分にとってどのような存在なのか、分からなかった。

 このまま誰だか分からぬままおどおどしていても仕方がない、と悟った奈月は、勇気を振り絞って女性に尋ねてみた。

「あの、失礼ですが……」

 しかし、奈月はすぐに後悔した。尋ねたとたん、女性が酷く傷ついたような顔をしたからだ。

「っ……ごめんなさい。わたし……」

 急いで謝ると、女性は淡く微笑みながら黙って首を振った。

「いいの。あなたがわたくしのことを忘れてしまっているのは、仕方のないことですもの。これから、徐々に分かっていけばいいの。ね?」

 女性はふわりと奈月の頭を撫でた。

「では手始めに、自己紹介を致しましょうね。わたくしの名前は西村にしむら咲葵子さきこ。もっとも、昔は藤野咲葵子と名乗っていましたけれど」

 穏やかな口調と柔らかな笑顔。頭を撫でられる感触。近づいた時にふわりと鼻を掠めた、安らぐような甘い匂い。そして、咲葵子という彼女の名前。

 それらが全て繋がった時、奈月の心を懐かしさが支配した。同時に、今まで封印してきた昔の記憶がどんどん甦ってきた。

 あぁ……そうだ。この人は……。

「もしかして、あなたは……わたしの」

「そうよ。思い出してくれたのね」

 女性は嬉しそうな、あどけない笑みを浮かべた。

「わたくしは、あなたの母親よ。奈月」


 ――今日から、塾に行くのよ。

 十数年ぶりに共に暮らすことになった母親・咲葵子の、最初の言い付けはそれだった。

 奈月は、彼女が何故いきなりそんなことを言い出すのか疑問だった。もともと塾へ行かなければならないほど成績は悪くなかったはずだ。それなのに、どうして今さら?

 尋ねると、咲葵子は少しきまり悪そうに目を泳がせた。

「それは、その……ね」

「咲葵子さん?」

 呼びかけると、びくりと咲葵子の肩がはねた。しばらく見つめていると、やがて観念したのか、俯いたまま小さな声で言った。

「……あなたには、心のケアというものが必要だと思ったの」

「心の、ケア?」

「そうよ。あなたは色々苦労したのでしょう。それで疲れていると思ったから、心のケアも兼ねて塾へ通ってもらおうと思って」

 何でそれで塾が出てくるんだ? と思ったが、これ以上追求するのはやめておくことにした。掘り下げたところで意味がないだろうし、これ以上自分に不利な状況を作りたくないと思ったからだ。

「そうですか……わかりました」

 今のところは、この人に従っておこう。

 自分なりに利己的だと思う判断を下し、奈月は塾へ行くことを了承した。


    ◆◆◆


「それにしても、咲葵子さんの意図が全く理解できない……」

 指定された無人の教室で、ぼんやりと窓の外を見ながら奈月は呟いた。

「だいたいこの年になっていきなり一緒に暮らそうだなんて、虫が良すぎるんじゃない? 知らない人と一緒にいるみたいで具合が悪いよ」

 血の繋がった親子だからといって、今さら甘えることなんか出来ない。素直になるには、受け入れるには、いささか大人になりすぎた。

 それに、わたしは母親のことなんか忘れたんだから。もう昔のことなんて思い出したくなかったんだから……。

 そこまで考えて、酷く憂鬱な気分になった。思わずため息をついてしまう。

 同時に、今まで閉めていた教室の入口が、耳障りな音を立てて開いた。

「……っ!」

 思わず驚き、とっさに振り向く。

 入口の前に立っていたのは、ふわふわとした茶髪と童顔が特徴の、ラフな格好をした男性だった。

 男性は奈月の挙動不審な反応に驚いたのか、少しばかり目を見開いていた。が、それも一瞬のこと。彼はすぐに奈月に向かって、屈託なく笑いかけてきた。

「こんにちは」

「……こんにちは」 

 警戒心を解かぬまま、奈月も形だけの挨拶を返す。すると男性はむぅ、と不満げに唇を尖らせた。

「そんなに怖がらなくてもいいじゃないか。傷つくなぁ」

「こ、怖がってなんかないです!」

「震えながら否定されても、まったく説得力ないんだけど」

 はは、と男性は笑った。機嫌を損ねてしまったかと奈月は内心不安だったが、その無垢な笑顔からはそういった感情は読み取れない。どうやら本当に怒っているわけではないようだ。

「……さて、とりあえず」

 気を取り直すように男性は口を開いた。

「君が、藤野奈月さん。ってことでいいんだよね」

 突然現れた男はやたらフレンドリーなうえに、自分の名前を知っている。この状況はいったいどういうことなのだと、奈月はちょっとしたパニックに陥っていた。普段聡明である奈月ならばすぐに答えがわかるはずなのだが、どうも頭がうまく回っていないようだ。

「……そう、ですけど」

 やはり警戒心は解かぬまま――むしろさらに強めて――奈月は答えた。

「というか、あ、あなた、一体誰なんですか。いきなり現れて、人の名前呼んで……ぶしつけにも、程がありますよ」

「ぶしつけ、か……君、結構手厳しいね」

 まぁ、こちらも自己紹介をしていないから悪いんだけれど。

 そう言って、男性は困ったように笑った。

「――では、改めまして」

 居住まいを正すと、男性はいまだ固まっている奈月に向かって、無邪気に笑いかけた。

「今日から君の担当をすることになった、塾講師の桜井さくらい健人けんとです。よろしくね、藤野」


    ◆◆◆


 それから奈月は毎週決まった曜日に、街外れの塾へと通うようになった。

 初めは突然現れた男性――塾講師の桜井に対して警戒心を抱いていた奈月だったが、桜井が子供のように無邪気で朗らかな性格だったこともあり、打ち解けるのにそう時間はかからなかった。


 ――ひょっとしたら、この人なら本当にわたしを変えてくれるかもしれない……。


「……藤野? どうしたの」

 向かいの席で参考書を開こうとしていた桜井が、きょとんとしながら首をかしげる。どうやら知らぬ間に、ぼうっとしながら彼を見つめていたらしい。

「……いいえ、なんでもありません」

 どこからでしたっけ、と言いながら、奈月も自らの参考書に手を伸ばした。

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