(3)
テトリスは人類の偉大なる発明であったと太一は考える。
フローレンスは太一の世話を進んで焼くが、別段常に一緒にいるわけではない。太一の部屋とは別の場所で諸々の雑事をこなしているわけであるからして、一緒にいない時間の方が長いのであった。
そうした時間、太一はぼんやりと微睡んでいることが多いのだが、そうでない時はフローレンスが残していったゲームをして暇をつぶす。これはフローレンスの故郷で使われていたものだそうで、ランダムに表示される数の中からいくつかを選び出して、同じくランダムに表示される規定の数にする、というものだ。液晶パネルに触れるだけで他には何もない。爽快なサウンドエフェクトが鳴り響くわけでなければ、愛嬌のあるキャラクターが出てくるわけでもない。本当に数字だけ。違う国の数を表す記号に当初は物珍しさを覚えたものだが、そんなもの、途方もない回数反復していれば当然慣れてしまう。
動物番組でチンパンジーが似たような訓練をしていた気がする。吸血鬼になっても知能は人間と変わらない。チンパンジーが当該訓練を楽しんでいるかどうかは別として、少なくとも太一はこのゲームを楽しいとは思わなかった。
それでも他にすることがないのだ。例えば筋トレなどの運動したところで吸血鬼は疲労しないので爽快感を味わうことはできない。あんな恐ろしい化け物を見た上で、この部屋から抜け出そうという気にもならなかったし、恐らくフローレンスがそれを許してくれないだろう。
自分が死んでからどれだけの時間が経ったのか、太一は数える気にもならない。フローレンスに聞けば正確な回答が返ってくるだろうけれど、それはそれで尋ねるのが怖い気がした。太一は小さな端末を投げ捨てるとぼふんとベッドに飛び込んだ。フローレンスは何をしているのかわからないが、お喋りをする相手もいないのなら幸福な夢にでも浸るしかないだろう。天井を見上げる。天井にぶら下がっているレトロな照明の中でゆらゆらと光っているあれはなんだろう。電気とも炎とも違う、熱のない光。太一の意識も、そのゆらめきに誘われるようゆったりとぼやけていく。
瞼が重い。まとわりつく夢魔の誘いに太一は少しだけ抵抗したが、その内あきらめると静かに目を閉じる。
自分のいない未来を夢想するのが、数少ない楽しみの一つだ。自分が引き受けた不幸の分だけ、みんな幸福になるのだ。そうでなければ救われない。妹にもそろそろ彼氏の一人くらいできているだろうか。太一のことを、覚えていてくれるだろうか。墓参りにはできるだけお洒落をしてきてほしい。彼氏ができたらそいつも連れて来い。あの子はどんな恋をするのだろう。後悔せぬように生きればいい。いつ、来るべき時が来ても――。
***
「太一様」
心地よいまどろみを断ち切ったのはもう随分耳に馴染んだ機械的な声だった。彼女はじっと、屈みこむような姿勢で太一の寝顔を観察していたらしい。最初の内は面食らったけれども、もう慣れた。
「んん……」
太一はゆっくりと目を開く。視界がかすんでいる。手の平で揉むように右目をこする。
「眠っておられましたか」
屈めていた上半身を起こし、フローレンスが聞くまでもないことを尋ねる。
「いや、ゲームをしてたよ」
両足を振り、勢いを付けて体を起こすと。太一は手にしたままだった端末をフローレンスに手渡して、体を起こすと、大きな欠伸をする。そのままごろん、とうつ伏せになって猫のようなかっこうで大きく伸びをする。
「この間、きみがくれたやつ」
「――楽しいですか?」
「いや、全然」
「そうですか」
「でも他にすることもないしさ」
太一はベッドに腰掛ける。右、左、右、左。それぞれのかかとで絨毯に覆われた床を叩いた。静かなこの空間には、そんな些細な音がどこまでも広がっていくような気がする。これも太一の暇潰しの一環なのだろう。そのどこか子供じみた行動が、フローレンスには好ましく思えた。
それは例えば、ただ静寂だけが広がっていたフローレンスの世界に、命が吹き込まれたような感触だった。寝返りにベッドの軋む男、衣擦れ、脈拍、息遣い。強化されたフローレンスの聴覚は、そんな音まで拾い上げる。
「フローレンス、手を握ってよ」
太一はベッドに腰掛けたまま、フローレンスを見上げて言った。
太一はパーソナルスペースが広い。他者に触れられることを好まない。
それでもいつの間にか太一はフローレンスのことを呼び捨てするようになり、触れられることを自然と許していた。それでも自分から好んで触れるようなことはしないが、時折こうして手を握ってくれとだけ求めることがある。吸血鬼とはいえ、男と女だ。接吻でも、あるいはそのもっと先でも、フローレンスは求められれば諾と答えるであろう。貞操観念が強いのか、吸血鬼になったことでそうした欲求を失ったのかはわからない。
それを物足りないと感じることがあるのは何故であろうか。恋仲になったわけでもないのに。
フローレンスは太一の隣に座ると、男にしては華奢で柔らかな左手にそっと触れ、両手で包み込んだ。一千年前の陶磁器を扱うような、慎重な手付きで。太一の体は、普通の吸血鬼よりずっと脆い。乱暴に扱えば壊れてしまいそうだった。
太一は少しの間目を閉じると、フローレンスの右手に、自分の右手をそっと重ねる。 この世界は静寂に満ちている。花も咲かず、四季も昼夜もなく、風の巡りもない。太一の故郷はざわめきに満ちていた。だからそれを、少し寂しく思う。
「フローレンスの手は冷たいね」
「体温に差はありません」
フローレンスは、そんな風に色気も素気もないことを言った。
触れた相手の手が暖かく感じられるのは、互いの体温に差があるからだ。少なくともフローレンスはそのように理解していた。統計的には、女性の方が手の平の温度は高いとされる。けれど、今はフローレンスも太一も生き物ではない。常温の肉の塊に過ぎないのだ。
「じゃあ、気のせいかな」
太一はあっさりとそういうと、天井の照明を見上げた。
「――眠るのが怖いんだ」
ぽつり、と、太一はそんな言葉を零す。言葉と裏腹に、ひどく穏やかな声だった。
「眠ったら、もう、このまま目が覚めないんじゃないかっていつも思ってた。今でも。もう死んでるのに、変なの」
太一はフローレンスのいつも通り変化しない表情を確かめると、にこり、と笑った。
太一の不安は、あながち杞憂でもないのだ。この城には、永劫の暇に飽いて、眠ったまま目覚めるのをやめた吸血鬼が数多いる。眠りから目覚めない彼らが今後、意思を以て目覚め得るかどうか、フローレンスには分からない。永遠に目覚めないなら、それはもう死と代わりあるまいと、彼女は考える。だからといって、何か思うことはなかった。これまでは。
だが、太一がその中の一人になったら、フローレンスはどうするだろう。
人間だった頃も、フローレンスはそのような気持ちを体感したことがない。フローレンスの故郷では、不慮の事故も、不治の病も対岸の火事だった。同輩たる吸血鬼にも、さしたる愛着を抱いたことはない。だからそれが”怖い”という感情であることがフローレンスには分からなかった。
「眠るのが、お嫌ですか」
「ううん。幸せな夢が見れるから嫌いじゃないよ。怖いんだ」
フローレンスの問いに、太一は小さく首を振った。
「――残念ながら、私には分かりかねます」
嫌いではないけれど、怖い。矛盾している。嫌いと、怖いとの違いが、フローレンスには分からない。
「そっか」
フローレンスの答えを特に気に留めることもなく太一は笑った。神経質で繊細なところもあるが、こういうところは大らかだった。フローレンスが味気ない反応を返しても、苛立ったりせず微笑んでいる。
感情を持たない、微笑みを浮かべもしない自分などと話して、何が楽しいのだろう。
フローレンスには分からない。
胸がざわつく。これからもこの世界には、新たな吸血鬼が来るだろう。それがもっと表情豊かで、お喋りで――魅力的な者だったとして、それでも太一はフローレンスにこの他愛もないお喋りを求めてくれるのだろうか。
小さなさざめきのベクトルをどこに向ければ良いか、フローレンスには分からない。この少年をこの世界に繋ぎとめておくにはどうしたら良いのか。
フローレンスには、わからない。 分からないなりに、それでも彼が眠るのを好ましく思っていないことは理解した。それ以外の暇潰しを、ということであれば、太一の故郷のそれの方が見合っているだろう。太一の世界は、科学技術の発達はいまひとつだが、娯楽の分野については抜きんでている。
「よろしければ――太一様の世界の娯楽を、お持ちして参りましょうか」
「え、あるの?」
太一は意外そうに目を瞬かせた。
「太一様の世界に赴けば手に入るでしょう」
「俺の世界?」
フローレンスの言葉に太一は眉をひそめた。
「俺の世界の吸血鬼、弱点多いよ? 日光に弱い、流れる水を渡れない、招かれない家には入れない、にんにくがダメ、十字架がダメ、聖書がダメ」
太一は指を折って自分の世界における吸血鬼の『弱点』を挙げる。吸血聖母(ブラディマリー)の元では不死不滅であっても、この世界から一度外に出れば、吸血鬼はその世界の認識に縛られる。滅び得る存在になるのだ。それはフローレンス自身が太一に教えたことである。
「御心配には及びません。外の世界に出るのはこれが初めてではありませんし――いずれにせよ、血を確保する必要はあります」
日光については日没後に行けばよいし、そもそも吸血鬼がフィクションの産物としか考えられていない太一の世界では、弱点を突かれるような状況に陥ること自体がない。それでも太一はまだ不安なようで、眉をハの字に下げて、フローレンス目をじっと見つめる。
「そのまま帰って来ないとか、そんなことないよね?」
(残念ながら、私には分かりかねます)
「――ええ。もちろんです」
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