(2)

 フローレンスが吸血聖母ブラディ・マリーに『招待』されて百年は経つが、二百年はまだ経っていない。それがフローレンスの吸血鬼としての年齢である。

 それでもこの城では比較的『新顔』と言って良いのだが、フローレンスほどこの城のことを熟知している者はいないだろう。

 暇を持て余していたフローレンスは吸血鬼になってからこれまでの時間の半分ほどを故郷の科学技術を再現するために、もう半分ほどを城を美しく快適に保つために費やした。

 彼女の考える『快適』の中には主であるマリーの世話も含まれている。故郷で人間が行うことのなかった家事という作業には無駄も多かったが、余りある時間をやり過ごすにはそれくらいがちょうどいい。

 今フローレンスがいる部屋も、この城に存在する無数の部屋の一つを、彼女が暇潰しの一環として整えたものである。内装はバロック期西欧貴族の屋敷、その食堂をイメージしている。壁紙、家具、美術品から食器に至るまで、わざわざ当該地域に足を運んで手に入れた。

 失った感情を埋めるかのように、彼女はこの種のものを蒐集している。

 フローレンスはぼんやりと揺れるシャンデリアの光を浴びて、食事を摂るマリーの隣に控えていた。

 ここ最近のフローレンスは、太一の世話をしていることが多く、マリーの身の回りの世話はあまりしていない。

 そのことについてマリーは一つの叱責もしない。マリーが自分からフローレンスに何かをするように命じたことはない。マリーは大体のことは魔法でなんとかしてしまうので、そもそもフローレンスの手助けなど何一つ必要としていないのだ。マリーにとっては自分のことを自分でするのも暇潰しだし、自分でできることを他の誰かにまかせるのも、それはそれで暇潰しだった。

 フローレンスにしても常にマリーに張り付いていたりはしない。思い出したように特に必要もない食事を持ってきて、こうして『おままごと』をしているだけなのだ。そしてフローレンスからするといつも悠然と微笑んでいるマリーより、太一の方が世話の焼き甲斐がある。

 こうしてマリーの元を訪れたのは、その太一に促されたからにすぎない。

 マリーが意味のない食事――吸血鬼にとって人血以外の食物は何のエネルギーにもならない――をしているのを見守りながら、太一のことを思い出したフローレンスは、ふと、気になっていたことを尋ねてみる。

「お嬢様は、太一様をお呼びつけにならないのですね」

 マリーは、フローレンスの声を聞いて食事の手を止める。フローレンスが自分から発言するのが珍しい――というより初めてだったからだ。

 カチャ――銀のナイフとフォークを置く小さな金属音が、やけに大きく響く。

「――ああ、失敗! 無音で食べるのがマナーだったわよね。人間ごっこって、難しいわ」

「残念なことです」

「ええ、とても残念――で、どうしてそんなことを聞くのかしら?」

「いえ――少し、不可解に思ったのです」

「貴方がそんなことに関心を抱くなんて珍しいわね」

 時間潰しの人間ごっこより、太一の存在より、そのことの方がよほど興味深い、と吸血聖母ブラディ・マリーは笑う。

 人間の令嬢がそうするように、真っ白なナプキンで深紅の唇を拭うと、一瞬だけフローレンスの顔を見て、言葉を続けた。

「吸血鬼は何者にも縛られないし、何一つ強制はされない。それがここにある唯一のルールよ」

 マリーはワイングラスを軽く掲げる。グラスは空だった。フローレンスは無言でビンテージのワインを注ぐ。

「私は貴方達従僕サーヴァントを服従させるつもりはないし、命令もしないわ――ただ見守るだけ。太一が私の元に来たい、というのならそうすればいいけど、あの子は私を好ましく思っていないでしょうしね」

 マリーはそれが楽しくて仕方ない、という風に笑う。陶器の人形を思わせる白い手でワイングラスをくぐゆらせ、香りを存分に楽しむとその中身を口腔に流し込んだ。

 白い喉が鳴る。可憐な少女の姿には似つかわしくない、豪快な飲みっぷりだ。

「この世界に来てしばらく経つけれど、あの子の精神は今も人間のまま。篭絡するのは簡単だけれど、そのまま見ているのが一番面白いわ」

 マリーは満足げに酒気混じりの息を吐いた。この銘柄はここ最近、マリーが特に気に入っているものだ。吸血鬼にも、酒の好き嫌いはある。

「ねえフローレンス? あの子からは随分と、甘い匂いがするでしょう。美味しそうな匂いがね」

 少女はフローレンスの顔を見て歌うように言った。

「貴方もよく我慢が効いているものだと、実は感心しているのよ。貴方の脳が異常な進化を遂げたのと同じように、あの子も固有の能力を得ている。そうね、言うなれば――吸血鬼を魅了する能力ちから。現に貴方も、彼に魅了されている。感情のないはずの貴方が、彼に興味と執着を抱いている。こんなに愉快なことはないわ」

 吸血聖母(ブラディ・マリー)の興味は、実のところ太一よりもフローレンスの変化に移っている。

「そういうのを、人間達は恋と呼ぶのよ。気になって仕方ない男の子がいる。手放したくない男の子がいる」

「……」

 流行りの歌の詞を読み上げるようなマリーの言葉に、フローレンスは何も答えない。マリーも何も言わない。ただ微笑みながらフローレンスの顔を眺めている。

「お注ぎいたしましょうか」

「――今、誤魔化そうとしたでしょう?」

 申し出たフローレンスに、マリーはにやりと笑って「いただくわ」と言った。フローレンスは眉一つ動かさず、新しいワインをマリーのグラスに注ぐ。

「貴方がいらないというなら、私がもらおうかしら。たまには籠の鳥を飼うのも、悪くはないかもしれないわ」

 マリーがその気になれば、太一を虜にするなんて簡単なことだろう。フローレンスがそれに対抗することなんてできるはずもない。マリーにいいようにされる太一の姿を想像する――胸やけのような不快な感触が、フローレンスをちりりと焼いた。

「いいわね。とてもいい」

 マリーはそれをすら楽しんでいるかのように微笑む。

 ワインを口に含むと、マリーは立ち上がりフローレンスの唇に、自分のそれを重ねた。顎を掴んでフローレンスの唇を押し開くと口に含んでいた葡萄色の甘美な滴をフローレンスの口に流し込む。白い手でフローレンスの髪を撫で、その口腔を杯に見立て、じっくりと上物のワインを味わった。重ねた唇の隙間からワインが滴る。

 ピチャ、ピチャ。

 猫の舌が水面を撫でるかのような音が部屋に響く。

 接吻はしばしの間続き、フローレンスがワインを呑み下したと同時に終わった。

 マリーは何事もなかったかのように席に着く。

 吸血聖母ブラディ・マリーの全身には、甘美なる麻薬が満ちている。吸血鬼になったとしても、その快楽にあらがうことは出来ないのだ。マリーの唾液を経口摂取したフローレンスはそれでも変わらない姿勢と表情で主の隣に佇んでいる。

「恋に憧れて死を拒んだ貴方が、感情を失った今になって恋に出会うのだとしたら、それはとっても素敵なお話よね」

 わずかに上気したフローレンスの顔を見てマリーは楽しそうに笑う。細い指先が、ピン、とグラスの縁を弾いた。それから「おかわりをもらっていいかしら」と彼女は言った。

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