(4)

 フローレンスが部屋を去ってから、随分長い間眠っていたように思う。

 与えられた部屋には外からがっちりと鍵がかけられていた。部屋には窓もない。逃げ出すことは出来ないようだ。

 この城の主であるというマリア・ヴァン・シルヴァニア嬢から呼び出されることはなかった。吸血聖母は、本当に太一に何も要求するつもりはないらしい。

 時間の感覚はひどく曖昧だし、結構な時間が経過しているはずだ。しかし腹も好かなければ尿意も便意も催さない。自分が人間でない、生き物とすら呼べるか怪しい存在に成り果てたことは明らかだった。そういう存在を長く続けていると、時間の感覚も違って来るのかも知れない。

 自分の体液や体臭には吸血鬼を惹きつける作用があるのだという。それを考えれば理性あるいは人間としての形態さえ失った吸血鬼がうろついているというこの城を歩き回るのは確かに危険だと思う。だからってこの仕打ちはどうだろう。せめて本とかトランプとかあれば暇つぶしにはなったろうに。あのフローレンスというメイドは感情も主体性もないと言っていたが、やはりそういう人物にはそういうことが思い至らないのだろう。気が利かない。

 とにかく、この部屋は退屈だ。一度扉に耳を押し当てて外の様子を探ってみたが、なんの音もしなかった。皆吸血鬼らしく棺桶の中で眠っているのだろうか?

 退屈である、という風に思うのはそれだけ余裕があるということだろう。試しに屈伸運動をして見る。以前と違い、体が随分軽かった。

 だが別の意味で違和感がある。太一は膝の辺りまですっぽりと覆うようなネグリジェのようなものを着ていた。元着ていた服はただの病院着なので特に執着はないが、せめて下着くらいは履かせておいて欲しい。股の間がすうすうして落ち着かない。体を動かせば男というものの特質上なおのこと落ち着かなかった。

 はあ、と息を吐いて太一はベッドに寝転がった。ふかふかとした感触だけは及第点を上げてもいい。いまならいくらでも眠れる気がしたが、それも吸血鬼になったからだろうか。分からない。

 今にして思えばかつての自分の生活がどれだけ恵まれていたかわかる。テレビ、ゲーム、書籍、スマートフォン、暇つぶしのためのツールがいつでも手の届く範囲にあった。

 筋トレでもするか。太一はベッドを降りる。

 体重を量ったわけではないが、少なくとも外見上、太一の体は健康だった頃のそれに戻っているはずだ。

 太一はうつ伏せになって、腕立て伏せを始める。負荷は、普通の人間だった頃と変わらないように思う。フローレンスに言われた通り、吸血鬼になったからと言って、特段身体能力が上がっているということはないらしい。少しばかり残念に思うが、仮にそうなっていたとしても使い道がどこにも存在しない。

 そうは言っても他にすることが思いつかない。太一は無心になって百回二百回と同じ動作を繰り返す。疲労も感じないし、汗一つ流れていなかった。

 成長も老化もしない、とフローレンスは言っていた。なるほど、もう自分はまっとうな人間の体ではないらしい。

「吸血鬼かぁ」

 太一はごろりと転がって仰向けになると、天井にて電気ともろうそくとも違う冷たい光をゆらゆらと放つ照明を眺める。

 確かに苦しみからは解放された。死んだ命をもう一度拾いなおすことができた。その点ではあの吸血聖母に感謝すべきなのかも知れない。ただ、死なないということはこの退屈な暮らしが千年でも二千年でも続くということだ。

 考えただけで気が狂いそうだった。心の中で「淫乱ロリババア」と吸血聖母に悪態をつく。このままずっと眠っているしかないか。実際フローレンスもそういう連中がいるといっていた。そう思って目を閉じようとすると、天井から届く緩い光が遮られる。

「わっ」

 人の顔だ。綺麗に整った女性の顔。要はフローレンスが太一の顔を覗きこんでいただけなのだが、まったく気配を感じなかった。驚くのも無理はない。

 フローレンスは太一の様子にまるで頓着せず、口を開く。

「お加減はいかがでしょうか」

「ノックくらいしてよ」

 多感な年頃の少年の部屋だ。異性にこんな形で忍び込まれては、太一だって文句の一つも言いたくなる。

「次からそのように致します」

「……お願いします」

 相変わらずロボットのような無表情と平坦な口調。太一は戸惑いつつも体を起こした。

「あのさ」

 フローレンスは自発的に口を開かないので、太一が喋るしかない。

「前会った時の記憶が曖昧なんだけど、どれくらい経ったの」

「以前参りました時からですと、三日程経過しております」

「三日!?」

 太一はギョッとして目を見開いた。入院中も薬の影響で眠っている時間は長かったが、それと比較しても信じがたい。この場所が昼も夜もないからか、あるいは太一の体が変質した結果時間の感覚も狂っているのか。いずれにしても現実を受け入れるしかあるまい。

「ここにいる人達ってみんなこうやって何もしないで過ごしてるの?」

「残念ながら、私には分かりかねます」

「あ、そう……」

 フローレンスの答えに鼻白んで、太一はベッドに腰かける。

「――あのさ、このネグリジェの出来損ないみたいの、なんとかならないのかな。落ち着かないんだよね」

 太一は寝間着の裾を摘まんで、ひらひら、パタパタと動かして見せる。

「せめてパンツくらい欲しいんだけど」

 こんな服、ちょっと足を開くと、丸見えになってしまう。女の子っていうのは、普段からこういう服を着て生活しているのだ。信じられない。特に太一のような思春期の少年は、異性からの目が気になるのだ。

 フローレンスの視線も、太一のちょうど股座の辺りに向かっているような気がする。さっき自分で裾をパタパタしていたが、丸見えだったのではないだろうか。太一は赤くなって、視線から庇うように腿の間に両腕を挟んだ。

「着替えが欲しい、という意思表示でよろしいのでしょうか」

 フローレンスは太一の反応など構わず、平坦な口調で聞き返してくる。

「あ、うん……」

 暖簾に腕押し? 馬の耳に念仏? 太一のボキャブラリィでは適切な表現が分からないが、どうやら彼女に対しては気にするだけ無駄なのかも知れない。それでも太一からすれば相当な美少女であることに変わりはないし、気になるのは気になってしまう。

「では、おいでください」

 フローレンスがくるりと踵を返す。

「え?」

「サイズを合わせる必要がありますので、衣裳部屋へお連れいたします」

「衣裳部屋とかあるんだ」

 ぼんやりとしか覚えていないが、ここの主である吸血聖母ことマリア・ヴァン・シルヴァニア嬢は相当な美少女であったし、何よりこんなお城の主なわけだから、大量の衣装を持っていてもおかしくはないが、太一が着られるようなものがあるのだろうか。

「俺が着れるものってあるの?」

 このロボットみたいな女の子のことだから、何も考えず女物をあてがってきそうだ、と不安になって口に出してみる。もちろん、まともな答えなんて期待はしていない。

 フローレンスはこれまでとは違い、太一の頭からつま先までを丁寧に観察してから答えた。

「残念ながら、私には分かりかねます」

 ――どういう意味だ。聞かなかったことにして、太一は質問を変える。

「衣装って、この城の持ち主のものなんじゃないの」

「お嬢様のために用意したものもありますが、基本的には、私が個人的に収集したものです」

 この気の利かないアンドロイドが、つまり趣味で服を集めているということか。意外だ。

「それは、この城の人達に着せるために?」

「いいえ」

「フローレンスさんが着るためのもの?」

「いいえ」

「え……じゃあ、なんのために服なんて集めてるの?」

 太一の問いフローレンスは迷いなく答える。

「残念ながら、私にはわかりかねます」

 わからないのにそんな手間のかかることをしているのか。太一はもう吸血鬼の考えを理解することを放棄し、小さく頭を振るとベッドから降りて立ち上がる。

「ちゃんと男物もあるんだよな?」

 念のため、確認する。

「はい、男性用の衣服もご用意があります」

 よかった。

「子ども服もございますので、ご安心ください」

 よくなかった。確かに太一は小柄な方だが、子ども服を着るほどではない。一言多いアンドロイドをじろりと睨み付けると、太一はドアに向かって歩き出す。

 太一がドアノブに触れるより早く、フローレンスがドアを開いた。そこはやはり、長年メイドをやっているだけのことはある。

「では、ご案内いたします。以前忠告しましたように、私から離れませんよう――」

 そのままフローレンスはドアの外へ歩き出した。そうだった。この城には魔物と化した吸血鬼が歩き回っているのだった。そんな場所に一人で放り出されたはたまらないと、太一は慌ててフローレンスの後を追った。

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