(3)

 気付けば見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上居た。

 ――自分は死んだはずだ。

 ただ、今いる場所は天国というにはあまりに俗で、地獄というにはあまりに生温い。

 どこか現実じみていて、けれど太一が知っている現実とも大分異なる。

 ぼんやりと見上げる天井は、どこか古びてくすんでいた。メッキの剥がれた真鍮の黒ずみ、うっすらと色あせて黒ずんだ壁紙。炎でも電気でも異なる、ゆらゆらと揺れる灯り。それらすべてが不気味だ。

 ――幽霊が出るとネットで評判のホテル。そんなフレーズが頭を過る。

 何故そんなところに自分はいるのか?

 自分は――真っ白な病室で、己の運命を、この世のすべてを呪いながら最期を迎えたはずだった。

 半死人だったはずの体には多少の気怠さはあるが、かつてのような苦痛はない。眠っていた間に服も着替えさせられていた。裾の短い筒状の衣服だった。真っ白な絹の手触りは服飾に疎い太一でも上質と分かるものであるが、男に似合うものであるとは思えないし、何より下着がないのが落ち着かない。自らが置かれた状況を不審に思いつつも、太一は体を起こす。柔らかなベッドの感触が、背筋を押し上げた。呆然と呟く。

「俺は、死んだんじゃなかったのか」

「はい。貴方は確かに死にました。一度」

 独り言だったはずの言葉に、答えるものがいた。欠片の感情も篭らない、無機質な少女の声だった。メイド服を着た少女だった。整った容姿も相まって人形のような印象を見る者に与える。

「メイドさん……?」

「本日より太一様のお世話をさせていただくことになりました、フローレンスと申します。どうぞお見知りおき下さいませ」

 フローレンスは機械的に一礼する。アンドロイドだと言われても納得するような、正確すぎる動きだった。

 いや、実際、彼女はアンドロイドそのものだ。

 身動ぎ一つせずに立っていれば、まったく気配がしない。呼吸もしていない。恐らく、心臓も動いていない。肉の質感を持つ、アンドロイド。起き抜けでぼんやりしていたとは言え、太一は彼女がいることに、全く気付かなかった。

 だが、アンドロイドだろうとロボットだろうとそれ以外の何かだろうと、話相手など他にいない。少し不気味に思いながらも太一は口を開く。

「じゃあ……フローレンスさん。ここはどこ?」

「お嬢様――この城の主、マリア・ヴァン・シルヴァニア様がお割り当てになった貴方の私室です」

「いや、そういうことじゃなくて……ええと」

 なんだか音声認識ソフトと会話しているような気分になる。

「もっと、なんというか、地理とか地名的なことで――ここはどこなんだ?」

「残念ながら、私には分かりかねます……が」

 無機質な返答に、太一が何か言う前にフローレンスは続けた。

「どこでもあり、どこでもない、どこか」

「は?」

「そのように、お嬢様は表現なさいます」

「わかるように言ってくれよ」

「地理的意味合いで『ここがどこか』というご質問に対しては、お答えする手段を私は持ちません。私自身、この空間がどこに存在しているのか、把握できておりません」

「……」

「ですが、地名ということであれば――ここを創られたお嬢様自身がそうおっしゃるのですから、『どこでもあり、どこでもない、どこか』が正答と判断されます」

「長い呼び名だ」

 太一はドドドランドとかに略したらどうだろうか、などとどうでもいいことを思いついたが、あえて口には出さなかった。

 それからふと、気付く。

「――?」

「はい」

「言ってることが、やっぱりよく分からないんだけど」

「そうですか」

「うん」

「……」

「ええと」

 彼女はやはり、アンドロイドだ。プログラム外のことには、対応できないに違いない。太一はなんとか言葉を探した。

「まず、ここ――『どこでもあり、どこでもない、どこか』っていうのは、どういう場所なの?」

「ご説明いたします。詳しい経緯は私も存じ上げませんが、ここはお嬢様が自ら、魔力と呼ばれる超自然的エネルギーを利用して創造した世界です。私も詳細は把握しておりませんが――ここにいる限り、私達は死ぬことはありません」

 それは、太一も含めて、ということである。

「魔力――魔法で作り出した世界ってことか」

 オカルトめいたバカバカしい話だが、そう解釈しなければ説明できない部分が数多くある。太一はとりあえず納得してみせると、次の質問に移った。

「それで、俺達が死なないっていうのは、やっぱり――」

 そこまで言って、太一はごくり、と唾を飲み込んだ。口の中がひどく乾いている。

「吸血鬼になったから?」

「イエスとも言えますし、ノーとも言えます」

 フローレンスは淡々と答える。

「確かに貴方は吸血鬼になりました。吸血鬼だから死なない。年を取らない。これは確かに間違いではありませんが、多くの文化圏において、吸血鬼なる者には致命的弱点があるでしょう?」

 太一でも知っている。日光に弱い、にんにくが嫌い、十字架や讃美歌を恐れる、流れる水を渡れない――。

「我々吸血鬼も、まったく不滅の存在というわけではないのです。それぞれの世界にはルールがあり、私達吸血鬼もまたルールに従わなければなりません。ですが、この世界は違います。この世界はお嬢様がルールです――そして」

 言葉の途中で、フローレンスが出し抜けに太一の両肩を押してベッドの上に押し倒した。

「ちょっ――何するんだよ!」

 太一の抗議を無視して、フローレンスは太一の男にしては華奢な鎖骨に顔を埋める。

「お嬢様――マリア・ヴァン・シルヴァニアは、ルールなどという面倒なことはお決めになりません。ですから、この世界にいる限り私達が滅ぶことはありません。その上で――貴方に一つ、ご忠告があります」

「なんだよ!」

「貴方は、普通の吸血鬼ではない――吸血鬼でありながら、同時に人でもあるのです。それも、吸血鬼が好む、極上の贄です。貴方からは――とても甘美な匂いがする……」

「ひっ」

 太一の首筋を舐め上げると、フローレンスはゆっくりと身を離し、先程までの人形のような佇まいに戻る。

 ぎこちない動きで体を起こし、いきなり無体なことをしてきたフローレンスを睨み付けるが、彼女は少しも動じた様子がない。

「この部屋から一人で出ようなどとは考えないことです。この城には理性を完全に失った化け物も多くいます。貴方の体臭に誘われて、彼らは必ず貴方の元にやってくるでしょう。貴方の身体能力は人間と大差ない。私の筋力は、吸血鬼の中では中の下と言ったところですが――そんな私にすらいいようにされているのですから、襲われれば為すすべはないでしょうね。もちろん、襲われたところで貴方が死ぬことはありませんが――」

「いや――うん、外には出ないよ……」

 退屈しのぎと身の安全とどちらをとるかなんて、あえて言うまでもあるまい。

「もういくつか聞いてもいい?」

「お伺いします」

「ここにいる人達ってみんな吸血鬼なの?」

「仰る通りです。お嬢様の持つ魔力も無限ではありませんから、人間の血液を定期的に摂取する必要があるのです。そのため、条件を満たす相手を適当にこの世界へ招いている、と伺っています。結果としてお客様は皆様吸血鬼になりますから、人間は一人もおりませんね」

 別の世界から無理矢理呼びつけられて、美味しく頂かれた上に吸血鬼にされてしまうのか。なんと迷惑な話である。

「じゃあ、今後ここでお世話になるとして、何かしなくていいの?」

「いいえ、何もする必要はありません。ずっと眠っている者も多いですし、悠久の時に飽いて、ここを後にする者も珍しくありません」

「え、でも、フローレンスさんは働いてるんじゃ」

「他にすることも特にありませんから」

 あっさりと言った。単なる暇つぶしらしい。フローレンスは続ける。

「私達は、お嬢様に対して忠誠を誓う必要すらないのです。貴方はお嬢様を憎んでもいいし、愛してもいい――あるいは無関心を通して、この世界を去っても、あの方はその決断を歓迎なさるでしょう」

 太一には理解し難い価値観だった。途方もなく永い時間を生き続けると、そのようになるのが、普通なのだろうか。

 太一が黙り込むと、フローレンスは話は終わりと判断したらしい。

「ご質問は以上でしょうか?」

 いや、一つ気になっていたことがある。太一は少し早口で質問を付け加えた。

「最後に一つ聞いても?」

「どうぞ」

「俺、名前、教えたっけ……?」

 さいほどずっと気になっていたことだ。このメイドには、太一の個人情報がどうも筒抜けらしい。ロクな持ち物もなかったはずなのに、どうやって。

「吸血鬼にも、色々と食の好みがありまして」

「は、はあ……」

「私は特に、脳を好んで食べるのです。そこから、相手の記憶を得ることもできます」

「……」

 聞くんじゃなかった。つまり彼女は太一の脳を――ということだろう。太一の頭をかち割って、脳みそをスプーンですくっているフローレンスの姿を想像して、太一はすっかり気分が悪くなった。

「少し、顔色がお悪いようですね。葡萄酒でもお持ちしましょうか」

「いや、いい……お酒飲めないし」

 お前のせいだろうが、と口に出す気にもなれずに、太一はフローレンスに背を向けてごろりと横たわった。この体勢が一番落ち着く。

「かしこまりました。どうぞごゆっくりお休み下さい」

 わずかな衣擦れの音。ドアが開き、再び閉じる音。ガチャン。

 あいつ、鍵かけやがった。

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