(2)

 遥か北欧の神話。トール神の妻たる女神シヴが誇った金の髪というのは、恐らくこのようなものであろう。

 輪郭を持たないシャンデリアの光を浴びて、風になびく小麦のように揺れる蜂蜜色が艶やかに煌めく。ドヴェルグの作り出した黄金の鬘だと言われても疑う余地がない。美しい髪は地面に触れそうなほど長く、その持ち主がまだ少女であることを差し引いても、どこか現実味がなかった。

 少女は年季の入った椅子にゆったりと背中を預け、手にしたワイングラスをシャンデリアの光をかざして見せる。そこには深い紫の葡萄酒が湛えられている。上質な葡萄酒は、味や香りのみならずその色合い一つとっても美しいものだが、グラスの曲面に映り込む少女の瞳は、比較にならないほど鮮やかな菫色だった。

 グラスを口元に近づけ、白磁のごとき肌には場違いなほど赤い唇でそっと接吻をする。繊細なガラスの杯が傾けられ、ゆっくりと葡萄酒がその口腔に流し込まれて行く。

 葡萄酒を、一口、じっくり時間をかけて嚥下すると、彼女は深いため息を吐く。

「――人類は偉大ね」

 人外の美貌が、感嘆に緩む。

「こんな美味しいものを発明したのに、その手柄を神に譲るだなんて。わたしにはとても真似ができないわ」

 少女は薄く笑うとサイドテーブルにワイングラスを置いた。

 薄い灯りに照らされ、部屋には二つの影が並んでいる。一つは少女自身の、もう一つは傍らに控える侍女メイドの。ワイングラスの伸びた影が、ちょうど侍女のそれに重なる。『侍女を飲み干す悪魔憑きの姫君』。そんな表題がつきそうな、偶然の影絵。

 少女は漆黒のドレスの裾を揺らして立ち上がると、傍らに立つメイドに問いかける。

「フローレンス、今度はどんな『世界』から来ると思う?」

 フローレンスと呼ばれたのは、華奢な、薄墨色の髪の少女だった。金髪の少女とは対照的に髪は短く揃え、直立不動でその場に控えている。その容姿も仕草も表情も、人形のように整っている。そして人形のように、ぴくりとも動かない。

「残念ながら、私には分かりかねます」

 フローレンスの無機質なその答えに、少女は嬉しそうに笑った。

「あなたはいつもそれね。まあ、分かってて聞いたわたしもどうかと思うけれど」

「恐れ入ります」

 プログラムされた動作をなぞるロボットの如く一礼するフローレンスの言葉を聞いているのかいないのか――まあいずれにしてもその機械的な言葉に意味なんてない。少女はふたたびグラスを手に取り、葡萄酒を飲み干すと上品な仕草で立ち上がる。

 マリア・ヴァン・シルヴァニア――マリーにとって、大体の飲食物は嗜好品に過ぎない。食べれば味は分かるし、それを楽しむこともできるが、それが彼女の滋養になることはないのだ。

 無論彼女とてものを食べる必要はあるが、それは特定一種のものに限られる。

 人間の血。

 マリア・ヴァン・シルヴァニアは吸血鬼である。もっとも、彼女はそのような無粋な呼び名を好まない。

 彼女は自らをこう称する。


 吸血聖母ブラディ・マリー


 吸血聖母ブラディ・マリーは、万を超える悠久の時を過ごしている。かつては、どこかの世界で人間に紛れて暮らしていたらしいが、その当時を知る者は彼女の他にいないし、彼女自身その当時のことを語ることはないし、何より彼女自身が己の過去についてまるで無関心である。

 そんな彼女が何千年前だかに、ほんの戯れで、本人曰く、この『どこでもあり、どこでもない、どこか』を作り出した。

 気取った名前のついたこの箱庭は、彼女がその膨大な魔力を用いることで創造し維持されている。世界と世界の狭間にある、いわば『小世界』だ。

 この世界においては彼女が神であり、彼女がルールである。この世界にいる限り吸血鬼は不死不滅であり、いわばここは吸血鬼にとっては楽園とも言える世界なのだ。

 吸血聖母ブラディ・マリーとて万能の存在ではない。その名のしろしめすように、人血を得なければその存在を維持することができない。だから彼女は、時折『お客様』を招待する。誰彼構わずということはない。彼女が好むのは、『死の絶望に瀕し、それでもなお生を渇望する者』の血である。

 吸血鬼に血を吸われたものは、自らもまた吸血鬼として蘇る。その伝承は、概ね正しい。彼女に招待された『お客様』は、吸血鬼として第二の生を得ることになるのだ。

 ただ、これははそう頻繁に行われている行為ではない。多くて月に一回、少ない時は10年に一回程度のこともある。この小世界の存在を維持するために必要な儀式ではあるが、そもそも吸血聖母の持つ魔力自体があまりに膨大であるので、数十年寝過ごしたとしてもどういうことはないのだ。吸血聖母ブラディ・マリーは気まぐれで、ものぐさだ。興味のないことはしないし、必要のないこともしない。

 それでも数千年の間繰り返されてきた営みである。彼女のような存在が他に在るのかは、吸血聖母ブラディ・マリー自身も知り得ないし知る気もないが、数多の世界に存在する数多の吸血鬼の多くが、彼女の手によって『生まれなおした』存在であることは紛れもない事実である。

 立ち上がったマリーは、薄暗い部屋の中央に刻まれた赤い幾何学模様の前に進み出る。その美しくも小さな手足は、母という肩書に似つかわしいものではない。フローレンスは何も言わずに、差し出された空のグラスを恭しい仕草で受け取った。

 マリーは白く小さな手を広げ、陶器のように滑らかな手の平を幾何学模様――魔方陣に向けた。六芒星をベースにした魔方陣には、無数の神秘文字(ルーン)が奇妙な秩序をもって刻まれている。マリーが手の平をかざせば、それだけで魔方陣がほのかな真紅の光を帯び始める。

「ユル・マンナズ・ラド・ギューフ――生と死の狭間に立つ者よ、霊験なる血の導きに答えよ――我が名はマリア・ヴァン・シルヴァニア――神聖にして深淵なる魔の文字よ――今ここに盟約は果たされる――」

 可憐な声で紡がれる、荘厳たる詠唱。

 その声に答えるように、魔方陣の紅い光が、爆発的な奔流となって膨れ上がった。物理的気流を伴う真紅の烈光に、マリーは優雅な笑みを讃えたまま、フローレンスは相変わらずの無表情のままで、ただそれぞれの髪と服だけが渦巻く光に従ってはためく。

 その光景は数十秒続いた。その光は消え、先ほどまでの静かな光景が戻る――いや、一つだけ異なる箇所があった。

 それは少年だった。顔色は土気色で、唇はひび割れ、目は落ち窪んでいて、髪はすっかり抜け落ちたみすぼらしい姿だ。薄いグリーンの、筒のような衣服だけが清潔なのが余計にその姿の惨めさを引き立たせる。

「病人か。何の病気かしら」

 特に同情する様子もなく、少年に歩みよりながらマリーが振り返りもせず問うた。少し間をおいて、フローレンスが答える。

「悪性の腫瘍か――あるいは血の病かと推測されます」

 ふうん、と、マリーが鼻歌でも歌うような調子で声を返す。

「血の病か。それはそれで珍味ね」

 比較的珍しい『客人』に、彼女はいたって上機嫌だった。個人差はあるが、死に瀕したものは概ねほとんど意識などなく、ただ本能で生に縋る。病元より尋常の命を持たないマリーには、彼らのそうした本能を何ら斟酌するつもりはなかったし、出来るはずもなかった。

 いずれにせよ、若ければ若いほど、血は美味なものとなる。性交渉の経験のないものならなおよい。吸血鬼は穢れなきものを好むものだ。

 マリーはゆったりとした足取りで少年に近寄るとその傍らに跪き、その上半身を抱き上げる。

 すると少年は思わぬ反応を見せた。もはや力の入らない腕で、マリーを振り払おうとしたのだ。口元が動いているが、ひゅーひゅーと息が漏れるだけで、ちっとも言葉になっていない。

「触るな、と彼は言ってるようです」

 フローレンスが唇の動きから想定される発音をなぞった。

「まあ、元気のある『死人』ね。ますます美味しそう」

 力ない少年の抵抗を無視して、マリーはゆっくりと少年の服を猫のように尖った爪でなぞる。鮮血よりも赤い真紅の爪は、切るというより、溶かすように、少年の服を切り裂いた。あばらの浮き上がった胸板を、小さな桜色の舌で舐め上げる。彼女の唾液には特別な力がある。それは細胞を活性化し、痛みを和らげ、得も言われぬ快楽をもたらす、究極の麻薬なのだ。

 獲物を嬲るのは、吸血鬼としての本能か。

 病に侵されてかさついた肌をじっくりと味わったマリーの舌は、やがて少年の首筋に辿り着いた。

 マリーの形のよい唇が、大きく開かれる――そこには、鋭い牙が覗いていた。

 皮膚から浸透した麻薬に意識を浸食され、もはや完全に意識を失った少年の首筋に、マリーは深々と牙を突き立てる。大きな動脈のあるそこに食いつかれ、しかし少年には反射的に体を跳ね上げる力さえ残っていない。

 血の病に侵された少年の血液は、今までのどの贄とも違う味わいだった。熟成されたブランデーを味わうように、マリーは陶然とした表情で血を啜り、喉を鳴らす。全身の血液を余さず吸い上げるのではないか、それほどの勢いだった。

 たっぷり数分間、マリーはそうしていて、ようやく少年の首筋から口を離した。静かに少年の体を横たえる。少年もまたは陶然とした眼差しでゆらゆらと揺れるシャンデリアの灯りを眺めている。

「いやだわ、わたしとしたことが、すっかり夢中になっちゃった。はしたないところを見せたわね」

 マリーがそう言うと、フローレンスは何も言わず、跪いてナプキンを差し出す。

 あら、ありがとう、と言って、それを受け取ると、マリーは立ち上がり、上品な仕草で口元を拭う。

 そのまま少年を見下ろし、「今日のお客様はどうなるかしら」となんでもないことのように言った。

「残念ながら、私には分かりかねます」

「あなたはいつもそれね」

 フローレンスの言葉に、しかりマリーは満足しているようだ。マリーの唾液には、特別な力がある。それは死者を蘇らせる妙薬であり、快楽を催し痛みを和らげる麻薬であり、人を魔物へと変える劇薬でもある。

 そんなものを体内に注がれて、それまで通りでいられるものなど、いない。

 マリーの元へ『招待』される贄は、あらゆる世界、あらゆる人種、あらゆる年代の人々だ。マリーに血を吸われ、唾液を体内に注がれた時、どのような反応を見せるかは人それぞれだ。例えばフローレンスは感情を消失し、人形のようになった。この場にはいないがフリッツという青年は半人半獣の怪物に変わった。カーミラと言う女は快楽の虜となり、魔女から娼婦に成り果てた。

 もっとも、そんなのでもマリーに言わせれば、『大成功』の部類である。

 マリーの魔力は、人の身には強大過ぎるのだ。魔力を受け止めきれない体は崩壊し、ほとんどのものは人の姿すら保てず、ぶよぶよしたゲル状の血の塊になってしまう。マリーはそれを『ヴァンパイア』と呼んで、この城の中で放し飼いにしている。

 マリーはかつて人だったそれを哀れだとは思わない。ヴァンパイア達にもはやかつての人間性など欠片もなく、ただ生への執着だけが残っているだけだ。もっとも、仮に人間性が残っていたとして、マリーは同情するような女ではない。

 血の病を持つ彼は、果たしてどんな変貌を遂げるのか。

 マリーが興味深げにその姿を見守っていると、突如、少年の体がびくりと跳ねた。

 獣のように口を開き、目を見開き、ボロボロになった爪で全身を掻きむしり始める――ただひゅうひゅうと空気が漏れていただけの喉から、苦悶の叫びが絞り出される。ボロボロだったはずの爪はいつのまにか艶やかに代わり、かきむしられた皮膚は傷ついたそばから癒えて行く。

「ああ、あがっ、うあああ」

 のたうち回る少年の姿を、フローレンスは冷ややかに、マリーは実に楽しそうに見下ろしている。

 指一本触れることもなく、労りの声をかけることもなく、ただ観察を続ける。

 急速に変化していく体が、少年の神経を苛み続ける。少年は耳を覆いたくなるようなうめき声をあげながら、その苦痛を与えた張本人を睨み付ける。

「何を……した……俺に、何を……」

 ざらついた少年の声に、しかしマリーは動じることもなく、むしろ嬉しそうに身を屈め、柔らかく微笑みかけた。

「助けてあげたのよ。あなたに新しい命をあげたの。知ってるでしょう」


 ――吸血鬼に血を吸われたものは、自身もまた吸血鬼になる。


 少年は目を見開き、歯を食いしばりながら怨嗟の声を上げた。

「頼んでない――俺はそんなこと、頼んでない――」

 少年の言葉に、マリーは軽く目を瞠った。フローレンスは、人形のように微動だにしていない。

「やっと、終わったのに――やっと解放されたのに」

 少年の言葉を、マリーは笑顔で聞いている。

「お前は――まだ苦しめっていうのか……!」

 その言葉に、マリーはいよいよ破顔した。今までの『お客様』の中には、一度として見られなかった反応だ。マリーの『招待』に応じるということは、生への執着があるということだ。しかし少年の言動は、明らかに矛盾している。

 かつてないイレギュラーだ。これほど愉快なことはない。

「あなた、とても素敵ね」

 マリーは少年の顎をぐい、と持ち上げると、かつての艶を取り戻したその唇に、自分の唇を深く重ねる。躊躇なく舌を差し入れ、無遠慮に口腔を舐めまわす。たっぷりと自らの唾液を注ぎ込む。

 少年は異性との接吻など――それもこんな濃厚な接吻など、経験がなかった。神に誓って清童である。性について彼の価値観は潔癖で、好き合ってもいない男女が手を繋ぐことすら忌避する、そんな少年であった。

 そんな初心な少年が、途方もない時を生きた吸血聖母の口づけを受け止め切れるはずがない。口腔と舌を思うさま嬲られて、息継ぎも出来ず、少年は我知らず子犬の甘えるような声を漏らしていた。しかもマリーの唾液には、強烈な媚薬としての効果もある。それをたっぷりと嚥下させられ、苦痛に喘いでいたはずの体は、正気を失うほどの快楽に苛まれた。

 ようやく唇を解放された時には、少年の頬はすっかり上気し、体は弛緩し、口はだらしなく開いて、涎と涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃになっていた。

「貴方、素敵だわ。たっぷり可愛がってあげる……」

 マリーが屈んで、犬の子にでもするように、再び生え揃ったばかりの少年の髪を撫でつけると――ぴしゃりと、冷えた液体の感触が、マリーの頬に触れた。

 自らの頬に触れて、マリーはまた目を見開いた。唾液だ。少年が、マリーに唾を吐きかけたのだ。

「この淫、売――殺せ、俺を殺せ……お前なんかに、飼い殺されるなら、死んだ方が、マシだ」

 マリーにそう吐き捨てると、少年はいよいよ意識を失った。マリーはしばらく唖然としていたが、勢いよく息を吐き出すと、気品の皮を破り捨て、腹を抱えて笑い始めた。

「最高だわ! 見た!? わたしに唾を吐きかけたわ! 聞いた!? わたしが淫売ですって! わたしに飼い殺しにされるなら、死んだ方がマシだって言ったわ!」

 けたけたとしばらく笑い続ける。フローレンスは相変わらず能面のような無表情でその様を眺め続けている。ひとしきり笑った後、マリーは頬に吐きかけられた唾液を指で掬いとると、生クリームでも味見するかのように指先を舌で舐る。どこにでもいる少女のような可憐な笑みを浮かべて、彼女はフローレンスに再び問うた。

「これまでで最高のお客様だわ。この極上の悦びが、貴方に分かって?」

 マリーの言葉に、フローレンスは眉ひとつ動かさずに答えた。


「残念ながら、私には分かりかねます」

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