第290話 一夜の報酬
突然、俺が泊まる部屋を訪れてきた弥生に、ドギマギしてしまう。
「お客さん、川上村は初めてっておっしゃってましたよね……」
「あ、ああ……えっと、これってどういうことなのかな……」
ひょっとして、という思いが、俺を動揺させる。
この時代、地方の
「えっと、あの……失礼ですが、お客様はお役人様ではないですよね?」
「ああ、ただの商人だよ」
「でしたら、その……あの、別料金にはなるのですが……一晩……」
赤くなりながら、俺のことをじっと見つめる弥生。
二十歳ぐらいの、愛想のいい、素朴な女性だと思っていた。
夕方見たときとは違って少し化粧をしているみたいで、もともと整った顔立ちということもあって、魅惑的に見える。
直接的な言葉は避けているが、予想通り、今夜一晩、俺に対して身を委ね、対価を得ようとしていることが分かる。
言葉を濁している理由は、表向き、それが松丸藩によって禁止されている事項だからだろう。
思えば、今まで何度か旅籠を利用したことはあったが、直接勧誘されることはなかった。
ひょっとしたら、それはこちらから持ちかけなければ紹介されなかっただけで、実際はどこででも行われていた行為だったのかもしれない。
「そ、そういうのは、俺、考えてもいなかったので……それに、嫁も子供もいる身だし、彼女たちを裏切るわけにはいかないから……」
俺が慌ててそう口にすると、
「……そうですか……それは大変、失礼しました……」
と、頭を下げた。
そしてもう一度顔を上げた弥生の表情は、悲壮なものに変わっていた。
ここで俺は、はっと冷静になり、襖を閉めようとしていた弥生を止めた。
「ちょ、ちょっと待った! その……もう少しだけ、話を聞かせてもらってもいい?」
俺のその言葉に、弥生は少しだけ顔を明るくした。
「はい、なんなりと」
「その……俺が、その誘いに乗らなかったら……君は、何か罰を受けたりするのかい?」
「……いえ、罰を受けるということはないのですが……」
そう言う彼女の表情が、また曇る。
単純にお金に困っているということなのだろう。
「ちなみに、料金っていくら?」
「一晩で、五百文となっています」
「五百文か……」
現在の価値で言えば、一万二千五百円ほどだ。
こういうのの相場がわからない俺には、それが高いのかどうかよく分からないのだが、宿に泊まるだけだとその三分の一で済むのだから、決して安くはないのだろう。
とはいえ、相手は若い、魅惑的な娘。それぐらい出す人だっていてもおかしくはない。
俺だって、そのぐらいのお金は持っている。
しかし、弥生に言ったように、自分の嫁を裏切るわけにはいかない。
でも、さっきの彼女の落胆した様子を思うと、断るのも後味が悪い。
と、ここでふと、以前も似たようなシチュエーションがあったことを思い出した。
そのときも、手を出してはいなかったような……。
そう、あれは、吉原に潜入調査に入ったときだった。
成り行きで女の子を指名して店に入ってしまい、断るわけにも行かず、結局その子とは話だけして帰ったのだった。
今回も、それでいいのではないか?
「……えっと、さっきも言ったように、俺には嫁も子供もいるから、他の女性に手を出すことは、裏切りになるから、それはできない」
「……そうですか……」
また彼女が、落ち込んだ表情を見せる。
「けど、今夜一晩、君と一緒に居たいと思う。だから、お金は払う。それでどうかな?」
「……えっと、それって、どういうことでしょうか?」
弥生は、明らかに困惑していた。
「夕方にも言ったように、俺は奥宇奈谷を目指しているんだ。けれど、その村のことをあんまり知らない。文化や風習も、又聞きでしか知識を得ていないし。だから、今夜一晩、それらについて、じっくりと教えて欲しいんだ。もちろんその分、お金はきちんと支払うよ」
「……あの、そんなことでお代を頂けるのであれば、もちろん私としては構いませんけど……本当にそれでいいんですか?」
「ああ、それで俺の嫁さんを裏切らなくて済むし、奥宇奈谷のこともよく分かるし、君にはお金も入る。いいことづくめだよ」
「……そうですね、それでいいのでしたら、一晩お話のお相手、務めさせていただきますね!」
弥生はぱっと明るい表情を見せた。
それがまた魅力的で……ちょっとだけ鼓動が早くなるのを感じた。
いやいや、手は出すまい……。
そして俺は、先払いで五百文を渡した。
形式上、「こうしなければならない」ということで……同じ床に入って、添い寝してもらいながら、いろいろ話し始めた。
やはり、彼女は……というか、この旅籠、そして川上村自体が、最近お金に困っていると言うことだった。
この村の旅籠を訪れれば、それなりのお金を出すことで、若い娘と一夜を共にできる……それは、松丸藩では知る人ぞ知る、公然の秘密だったのだ。
ところが、この村のさらに奥のこととはいえ、山賊が出没するという噂が流れ、さらに川上の奥宇奈谷への道も閉ざされてしまった。
そんなことが重なり、この村を訪れる者自体が減ってしまっているのだという。
典型的な農村である川上村にとって、貴重な収入源が減少してしまった。
何部屋かあるこの旅籠も、今日泊まっているのは俺だけみたいだし。
そして弥生自身は、最初はこの仕事に抵抗があったが、今ではもう慣れてしまっているし、奥宇奈谷を飛び出した自分にとって、受け入れてくれているだけでもありがたい、というようなことを話していた。
「……奥宇奈谷に戻りたいとは思わないのかい?」
今、この仕事をしている弥生に、聞いてはいけないかもしれないと思いつつ、ついそう尋ねてしまった。
「そうですね……やっぱり故郷ですから、いつかは戻ってみたいと思います。でも、そこでずっと住むかと言えば、それは無理です。やっぱりいろいろ不便ですし、それに、結局は今と同じ……いえ、それどころか無報酬で、見ず知らずの男性の、夜のお相手をしないといけませんし……」
そんな彼女の一言に、俺は思わず、えっと声を上げてしまった。
「……ひょっとして、それもご存じありませんでしたか?」
弥生は、意外そうな表情で、そう口にした。
そして彼女から語られたのは、奥宇奈谷の深刻な問題だった――。
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