第233話 鉄砲
茂吉の話が一段落し、『あじふらい定食』を彼が食べているときだった。
一人の青年が『前田美海店』に入ってきた。
まだ昼より大分前で、『仕込み中』の札を出していたのに本日二人目の来客があったことに、店員一同一瞬驚いたが、その顔を見てすぐに安堵に変わった。
「拓也さん、おはようございます……ご無沙汰しています、の方が良かったですか?」
ニコニコと笑顔でお里がそう声をかけた。
「やあ、里、まだ半月ぐらいだろう? ご無沙汰っていうほどでもないと思うけどな……あれ? 茂吉さん、来てたんだ。お邪魔だったかな?」
「い、いえ、そんなことないです。ちょうど良かった! 今、もう一つ『あじふらい定食』が出来上がったところだったんですけど、拓也さん、食べませんか?」
彼女はそう言うと、自分が茂吉と一緒に食べようとしていたその料理を差し出した。
「えっ? ……確かに、まだ店が忙しくなる前に何か食べさせてもらおうと思ってたけど、なんかタイミング……都合が良すぎないか?」
拓也が驚いたようにそう呟いた。
「まったく……拓也殿はいっつも、厄介ごとがありそうなときに限って、都合良く現れるんだから……それも仙人の宿命って奴かな……」
奥から、ナツが呆れたようにそう言って出てきた。
拓也は、まったく状況が分からずに、ポカンとした表情を浮かべていた。
――四半刻(約三十分)後。
「……ふうん、真っ黒な幽霊船、か……阿東藩の沖合で、そんな船が……」
拓也は、アジフライ定食を食べながらそう呟いた。
まだ半分ほど残っている。
「そうか、旦那でも知らねぇか……けど、ウソじゃないぜ。若い女の幽霊が乗った、真っ黒でぼろぼろの大きな船。俺はたしかにこの両の眼で見たんだ!」
話をしながらにもかかわらず、ほとんど食べ終わっている茂吉が、興奮した様子でそう語った。
「まあまあ、茂吉さん。拓也さんは疑っている様子じゃ無いみたいですよ」
彼のすぐ隣で、なだめるようにそう話すのは、お里だった。
彼女は、自分が茂吉と一緒に食べるつもりで作った料理を拓也に渡して、茂吉の話を真剣に拓也に聞いてもらう場を作った。
それを見たナツが、笑いながら
「開店前に三つも注文が入った」
と、もう一つ『あじふらい定食』を作って、お里に、茂吉の隣で食べるように奨めたのが、ついさっきだ。
そのためお里は、まだ食べ始めたばかりだった。
後輩の桜が一生懸命頑張って、開店の準備を進めている。しかし、それで桜の機嫌が悪くなるわけではない。
久しぶりに憧れである拓也の顔を見られたし、茂吉とお里が仲が良いのも、桜にとっては微笑ましく映った。
そして、忙しいながらも、どこかのどかな『前田美海店』のその雰囲気が、大好きだった。
しかし、彼女の微笑みも、拓也の真剣な表情を見て、消えてしまった。
茂吉も、拓也が想像以上に深刻な顔つきをしているのを見て、自慢げに幽霊船の話をしていたことをまずいと思い、声のトーンを落とした。
「……旦那、本当は何か、心当たりがあるんじゃねえのか?」
「……ああ、いや……そうだな、漁師の茂吉さんには話しておいた方がいいな……まだ、あまり騒ぎにして欲しくはないんだけど……実は、近隣の松丸藩の沖合に、最近、海賊船団が出没するようになったっていう話を聞いているんだ」
「……かっ……海賊船!?」
茂吉の両目が、驚きで見開かれる。
お里も、両手を口元に持って行って、驚愕の表情を浮かべている。
うっかりその言葉を聞いてしまった桜が、手にしていた雑巾を取り落としてしまった。
「ああ。何件か商船が襲われたって話を聞いている。茂吉さんが言っていたのと同じかどうかわからないけど、黒っぽい船っていうのも、実は少しだけ耳にしていた。まあ、松丸藩とは少し離れているし、それが海賊船かどうかも分からないけど、関連はあるのかもしれない」
「……関連があるって、それじゃあ、この阿東藩に、海賊が来るってことじゃないか!」
茂吉は真っ青になって立ち上がった。
「茂吉さん、まあ、落ち着いて。さっきも言ったように、まだ松丸藩での話なんだ。それに、海賊が襲うのは商船だ。漁船を襲うようなことはない。海賊にとってはなんの得もないんだから。まあ、けど、もし得体の知れない船に出会ったら、相手にせずに逃げるのが一番だけど」
「逃げる、だと? 向こうが俺達の海に勝手にやってくるんだ。追い払うぐらいの覚悟でねぇといけないだろう!」
茂吉はなぜか、感情的にそう口にした。
「相手が、鉄砲を持っていたとしても?」
「てっ……鉄砲だと? そんな物騒なもん……持ってるのか?」
「噂ではそうらしい」
茂吉は、ゴクリと唾を飲み込んで、力なく座った。
「そ、そいつは物騒だな……確かに、それなら逃げるが勝ち、か……それで、その事は、藩主様は……」
「当然、知っている。それで、阿東藩はまだ被害の報告もないんだけど、対策には早めに乗り出すつもりらしいんだ。そういう意味では、茂吉さんの今日の話も、すごく大事な話なんだ。偶然とはいえ、聞けて良かった」
拓也が真剣な表情でそういうのを聞いて、茂吉は苦笑いを浮かべる。
「……こりゃあ、俺は大変なものを見ちまったのかもしれねえな。ホラ話で済まされるんじゃないかって思ってたけど、それ聞いちまったら、まだホラ話のほうがマシだったな……」
「茂吉さん、もう、そんな得体の知れない船を見かけても、絶対に近寄っちゃダメだからね!」
お里は、泣きそうになりながら、彼の右拳を、両手で握っていた。
「お、おう……」
彼は少し照れながらも、素直にそう返事をした。
茂吉の今回の食事代は、約束通りタダで(正確には、拓也のおごりと言うことで)話が付いた。
その代わりに、早急に漁師仲間達に、
「得体の知れない船には近づくな」
と話を広めてもらうように頼むと、彼は
「任せろ!」
と言い残し、飛ぶように帰って行った。
「……拓也殿、良かったのかい? 茂吉さん、あの様子じゃあ相当大げさに噂を広めてしまうよ?」
ナツが、心配半分、呆れ半分で拓也にそう話した。
「いや、いいんだ。相手は海賊なんだ、必要以上に怖がるぐらいでちょうどいい。幽霊船っていうのも、いいじゃないか。そんな噂が広まれば、だれも不審な船には近寄らないだろうし」
「……まあ、それもそうか。鉄砲持ってるなんて話ならば、面白半分で側に行ってみようなんて考える奴もいないだろうしな」
「ああ……ただ、ちょっと別のことも気になるな……」
「……若い娘の幽霊?」
「そうだ……よく分かったな」
「まあ、これでも嫁の一人、だからね」
「ははっ、そうだな……」
ごまかすように笑って見せた拓也だが、その目は真剣そのものだった。
ナツは、そんなお人好しの拓也のクセを、呆れと、あきらめと、そして畏敬の眼差しで見つめていたのだった。
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