第232話 若い娘

 その日の午前中、茂吉は慌てた様子で前田美海店に駆け込んできた。


「……あら、茂吉さん。どうかしましたか? まだお店は準備中ですよ」


 彼は、お里――数え年で19歳、満年齢で18歳――が開店準備をしているのを見て、幾分、冷静さを取り戻した。

 あるいは、自分が慌てている様子を見られたくないと思っただけなのかもしれない。


「きょ、今日は飯を食いに来たんじゃなくて……いや、あとで食うつもりだけど、それよりも、えらいもんを見ちまったので、前田の旦那に知らせに来たんだ」


「拓也さんに? でも、最近あの方は忙しいから、滅多にお店に来ませんよ?」


 お里は、困惑した表情でそう応えた。

 その表情もまた可愛らしく、彼の目には映った。


 茂吉が彼女と出会ったのは、もう二、三年も前の事だ。

 この店で見かけたときに一目惚れしてしまったことを、その時の料理と共に鮮烈に覚えている。

 この地方の漁師の娘は、ガサツで大雑把で乱暴な性格の者が多いが、お里はいかにも清楚で、真面目そうに、彼の目には映ったのだ。


 実際には、その見た目以上に『芯の強さ』のようなものも備えており、たまに口論で押されることもあるのだが、それも魅力の一つだと彼は考えていた。


「ま、まあ、そうだろうな、旦那は大商人だしな……俺と同じぐらいの歳だというのに、大したもんだ……いや、そんな事を言いに来たんじゃねえ。一大事だ。幽霊船が出た」


 彼は、お里に、自分が怯えていることを悟られないように、冷静に話した……つもりだった。


「……幽霊船?」


 お里が、いぶかしげな顔を向ける。


「……ま、まあ、信じられねえのは無理ねえな。でも、見ちまったものはしょうがねえ。黒くて、大きな船だ。帆はみすぼらしいが、屋形まで付いていやがった。それに、なぜが女が乗っていた。あれも多分、幽霊だ。まあ、俺だから取り憑かれたり、海に引きずりこまれたりせずに済んだが、他の奴だったらやばかったかもしれねえな」


 自分だったから何とか正気を保てた……そんなことを自慢げに話したのがおかしかったのか、お里はクスクスと笑い出した。


「な、なんでぇ……笑うことはないだろう!」


 茂吉は、確かに自慢することではなかった、と恥ずかしがったことと、お里の笑顔があまりにも可愛らしかったことで、自分の顔が熱くなるのを感じた。


「……二人とも、相変わらず仲がいいな。けど、今はまだ開店準備中なんだ。そういうのは後にしてもらっていいか?」


 そう注意しながら出てきたのは、前田美海店の店主にして料理長のナツだった。

 数え年で二十歳、満年齢なら一九歳。前田拓也の、正式な嫁の一人だ。

 相変わらず、凛とした美しさが映える、お里とはまた違った美人だと、茂吉も一瞬だけ目を奪われた。そして我に返ってお里の方を見て、彼女がそれに気付いていないことに安堵した。


「す、すみません。茂吉さんが、あまりにおかしなことを言い出したので……」


 お里は赤くなっていた。そして、「そういうの」という言葉は否定しなかった。

 そのことに、茂吉もさらに赤くなった。


「い、いや、その……べ、べつにおかしなことじゃなくて、本当にあった話で……そうだ、お夏さん、聞いてくれ。今朝の話だが……」


「聞こえたよ。幽霊船、だろう? まあ、鵜呑みにはできないけど……話半分だとしても、普段肝っ玉の据わったあんたがそんな話しをするんだ。なにかよっぽど変わった船がいたことは確かだろう。拓也殿に言っておくよ」


 多少呆れながらも、ナツは茂吉にそう返した。


「さすがお夏さんだ。前田の旦那なら、仙術で退治してくれるだろう。まったく、とんでもない目にあった。若い娘の怨念に取り殺されるところだった」


「若い娘、だと?」

「若い娘、ですって?」


 ナツと里が、同時に反応した。

 二人とも、明らかに機嫌が悪くなっている。


「あ……っと、さっきも言っただろう? 女の幽霊を見たって」


「女とは聞きましたけど、若い娘、とは言っていませんでしたよね? 普通、女性の幽霊っていえば、お婆さんか、顔のはっきり見えない、足のない、両手をだらんと下げた白っぽい幻みたいなやつですよね?」


 お里が妙に滑舌よく聞いてくる。その様子にたじろく茂吉。


「そ、それはおまえの思い込みだろう? 俺が見たのは、十代半ばぐらいの、襦袢姿の……」


「……十代半ばで、襦袢姿……? それって、茂吉さんの思い込みって言うか、願望じゃないですか?」


 お里が、ますます機嫌を悪くしていた。


「ちがうって。はっきり見たんだ。それで、もっとしっかり見ようと身を乗り出したら海に落ちて……」


「海に落ちた? それって、幽霊……幻に見とれたっていうことですよね!?」


 お里の追求は、ますますきつくなっていく。


「……い、いや、だからそういう噂、聞いた事あるだろう? 男を海に引きずり込む、女の幽霊の話」


「……知りません」


 お里は拗ねていた。


「俺達漁師しか知らねぇのか? ともかく、幽霊に嫉妬しているならそれは違う。現におまえのことを思い出して、俺は我に返ったんだ。だから幽霊に取り憑かれることも、取り殺されることもなかった」


「……そ、そうですか? だったら……その、良かったです」


 たったそれだけで、お里は機嫌を直し、顔を赤らめて笑顔に戻った。

 その様子に、茂吉は安堵すると同時に、彼女がヤキモチを焼いていたらしいことに喜びを感じていた。

 しかし、ナツの表情は硬いままだった。


「……ナツさん、どうしたんですか?」


 今度は、お里がナツの様子を気にする番だった。


「……いや……十代の若い娘、と聞いて、嫌な予感がしたんだ……これをそのまま拓也殿に話すと……」


「ああ、そういうことですか……確かに拓也さん、『そういうことなら、放っておけない』とか言って、その幽霊のこと、調べ出しそうですね……」


「ああ……そしてその手の話は、なぜか拓也殿が厄介ごとに巻き込まれていく事が多いんだ……まあ、遅かれ早かれ、そういう宿命(さだめ)なのかもしれないけどな。まあ、あれだ、茂吉さん、良く知らせてくれた。ちょっと早いけど、知らせてくれた礼で、飯を一食タダにさせてもらうよ。お里、彼の分、注文聞いて作ってくれ。他の準備は、桜にまかせるよ」


「えっ……私が作っていいんですか?」


「ああ。もう大分料理の腕も上がっているしな。茂吉さんもその方がいいんだろう?」


「……ま、まあ……俺としては旨ければそれでいいけどな」


「あ、はい、じゃあ、茂吉さんの好物、『あじふらい定食』作りますね!」


 彼女はそう言って、上機嫌で料理を始めた。

 茂吉は、自分が注文しようと思っていた料理を彼女に先に当てられ、そして嬉しげに調理し始めてくれていることに、嬉しさと照れを感じていた。


 それとは対照的に、ナツは、なぜか『嫌な予感』が強まっていく思いがして、眉をひそめていたのだった。

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