9. 最後の日
――時は過ぎ、その日がやって来た。
朝の陽光を浴びる城内の庭園。
かつて王であった者と、王妃であった者。
ふたりは少女の手をとり、覚悟を決めたようにゆっくりと、門に向かって歩いた。
白いドレスを着させられた少女に表情はない。
ふと、庭の一角を見つめ、足を止める。
少女の視線の先、咲き乱れるのはアンズの花。
薄紅色の花びらが風に乗り、少女の頬をかすめ、舞い落ちていった。
音を立て、門が開く。
城の前。
用意された馬車へと続く石造りの道の両脇に、多くの人が列をなしていた。
悲哀の表情を浮かべる者。宿願叶うと悦に入る者。
さまざまな想いが入り乱れる中、少女はその一切を感受せず、歩を進める。
自らの心を殺した少女。それでも、ひとつだけ、願っていた。
あの願い事が、決して、叶うことがないように――と。
やがて石造りの道は終わり、馬車の前。
少女はためらうこと無く、踏み台に足をかけ、乗り込もうとした。
そのとき。
「――待ってくださいっ!」
聞き覚えのある声に、少女は足を止めた。
少女を除くすべての者が、声の方に顔を向ける。
アプリコーゼ、と。
小声でつぶやいたのは――この国の王妃であった女性。
しかしその声は、馬車に乗り込もうとしている少女に向けられたものではなく。
声を上げて皆を呼び止めた、その少女に向けられたものだった。
質素な服を着たその小柄な少女は、再び声を張り上げる。
「違うんですっ! その子は……お姫様じゃないんです!」
しん――と。
空気が緊張し、辺りが静寂に包まれた。
「……どういうことですかな、お嬢さん」
王権派のひとりらしい老人が、尋ねる。
緊張した様子で息を呑む少女。
その近くでは、壮齢の女性と大柄な男が、複雑な表情で彼女を見守っている。
それはあの屋敷にいた者たち――侍女長と、傭兵の男だった。
少女は呼吸を整えると、背筋を伸ばす。
そして。
一切の迷いを感じさせない透き通った声で、端的に言い放った。
「私なんです。この国の――いいえ、今は亡き王国の王女として生を受けたのは」
再度の静寂。
わずかな時間が経った後、皆一斉に、ある者たちへと視線を向ける。
――かつて王であった男は、絶望の表情を浮かべ、膝から崩れ落ちた。
――かつて王妃であった女は、顔を伏せ、嗚咽をあげ始めた。
少女の言葉が紛れもない真実であることは、ふたりの様子から明らかだった。
平静が破られるのに時間はかからなかった。
疑問の声や雑言が飛びかい、辺りが一気に騒々しくなる。
そんな中、馬車の前。
白いドレスを着た少女は虚ろな目で、ひとり呆然と立ちすくんでいた。
近くにいた者が呟く。
「あの子が本物のお姫様なら……じゃあ……この子は……?」
少女は言った。ささやくような声で。
わたしは
そう。
それは少女が知ってしまった、残酷な真実。
かつて、この国が王によって支配されていたとき。
王は王妃との間にひとりの子供を授かった。
城の庭園に美しい花を咲かす樹木から名づけられた女児。
彼女が生まれた直後、国に異変が起きる。
革命派による無血革命が成功し、王は支配者の座から降ろされることになった。
その時点で王と王妃は気付いていた。
今は王権派の助けもあり、我々は生き延びているが。
近いうちに、王族の血を絶やさんとする、そんな未来が待ち受けていることを。
彼らは生まれたばかりの娘を、国から離れた地に住まわせることにした。
革命後の動乱から、娘の身を守るという理由で。
革命派は「娘を屋敷から出さない」という条件付きで、それを許した。
ならば、姉妹のような――友人のような、そんな相手が必要だろうと。
孤児院から親無き赤子をひとり貰い受け、一緒に育てることにした。
しかし――
彼らは、入れ替えた。
自分たちの娘と、貰い受けたその赤子を。
誰も知らなかった。
屋敷で働いていた侍女も、傭兵も――もちろん、ふたりの少女たちも。
その行為は、王族の血を、この世に残すため――
いや、娘に生き延びて欲しいと、そんなありふれた親心だったのかも知れない。
しかし。
そのために育てられた少女は……
親も無く、本当のお姫様の代わりに死ぬためだけの、生贄として育てられた少女は。
それを知ってしまったとき、果たして、自分の心を保つことができるのだろうか……
より一層、騒がしくなる城の前。糾弾の声が上がり始めた頃。
ふわりと、力なく倒れる少女。
「アプリコーゼ!」
王女を名乗った少女が、とっさに駆け寄る。
白いドレスが地に着く間際に、その小さな身体を抱えあげた。
そのまま石造りの道の上、座り込んでしまった、生贄の少女。
膝をつき、その少女を強く抱きしめながら。
「ごめん……ごめんね、アプリコーゼ……」
――モニカは、大粒の涙を流し続けた。
実際、モニカは、その真実を誰かから聞いたわけではなかった。
あの日、孤児院の院長に連れられ、街に着いた後。
見知らぬ女性を紹介された。穏やかで優しそうな女性。
ただ彼女と一緒に過ごして欲しい、と。
そう頼まれた。
疑問に思いながらも、街を歩き、話をして、あの宿泊所に一泊した。
同じ年くらいの子を亡くしたから、と、そんな理由は付けていたけれど。
モニカは理解した。
彼女は――自分の母親なのだ、と。
もちろん嬉しかった。
自分には親などいないと、そう思って、ずっと生きてきたのだから。
女性は自分のことを話さなかった。
そのたたずまいから、高貴な家柄に生まれた人だとは推測できた。
また、似合わぬ眼鏡をかけていたり、街中で周囲の目を気にしていたりと。
何か事情があるのは明らかだったけれど、聞かなかった。
せっかく自分のことを心配して、会いに来てくれたのだから。
真実に気付いてしまったのは――翌日の夕方、別れの間際。
馬車に乗って去っていく女性を見送っていたとき。
モニカの護衛として屋敷から一緒に来てくれていた衛兵。
女性と会ったときから、少し落ち着きのなかった彼が。
――去っていく馬車に向かって、最敬礼の姿勢をとっていた。
その行為に疑問をもった直後、見知った少女が自分の元に飛び込んできた。
どうしてこんなところにいるのかと驚き、泣きじゃくる少女をあやし続けた。
アプリコーゼ、と。
その少女の名を呼んだそのとき、ふと……気が付いた。
刹那、モニカは、母親であるあの女性に怒りを覚えた。
いったい、この子に、なんて残酷なことをしてくれたのだと。
しかし迷った。それは私に対する家族愛というものなのだろうか、と。
そして恐れた。
その日がやってきたとき。
真実を告げれば、自分は処刑される。
真実を告げなければ――代わりに、大切なこの子が、処刑される。
モニカは混乱した。
その日、偶然にも革命派が屋敷に来ていたことは、本当に知らなかったけれど。
外出などそうそう許されないだろう立場の者が、遠出をして娘に会いに来たのだ。
その日が近いのだと、そう感じ取った。
皆に真実を告げるべきか、告げぬべきか。
幼き少女に決断などできるわけがない。
だったら、ふたりで逃げてしまおうと――悩んだ末、衝動的にとった行動だった。
しかし、モニカは言えなかった。
お姫様とか、世話係とか、そんなことはどうでも良かったけれど。
本当はあなたに親なんていないのよ、と――
それが、言えなかった。
モニカの目の前には、抜け殻のようなアプリコーゼ。
ぺたりと座り込んでしまった少女はうつむいて、ただ虚空を見つめている。
そのまま死神に魂を吸い取られてしまいそうな、そんな気がして――
「アプリコーゼ! アプリコーゼ!」
何度も名を呼び、肩を揺らし続ける。
「大丈夫よ! アプリコーゼ! あなたは助かるの! そもそもあなたが罰を受ける意味なんてないのだから!」
やがて。
「――そんなに大声で言わなくても、聞こえてるわよ。ばか……」
ふっと眠り姫が目覚めたように、少女は頬を膨らませて、言った。
「アプリコーゼ……」
「ばか……モニカのばか……どうして……どうして……」
喉を震えさせながら。
「どうして、来たのよ……ここに来てしまったら、モニカ、あなたが……」
「アプリコーゼ……まさか、あなた……知っていたの……?」
「魔法の杖も……燃やしたのに……どうして、どうして……」
アプリコーゼは嗚咽を上げ始めた。
家出をしたあの日。
帰れなかったらどうしようと、ひとり怯えていたときに――
アプリコーゼが遠くから見たのは。
宿泊所の前、馬車に乗って去っていった女性。
後にアプリコーゼは考えていた。
あの女性は王権派の人。
私の処刑が決まったということを、モニカに伝えたのだと。
だからこそ、あの晩、モニカは「一緒に逃げよう」と言ったのだと。
それが間違いだと気付いたのは、この国に来た日の夜。
よく思い返せば、その外見、その仕草。
その日、初めて会った女性に――自分の母親だと名乗った女性に、そっくりだった。
ではどうして自分ではなく、モニカのところへ行ったのか。
自分よりモニカの方が、大切な存在なのだろうか……と。
そこまで想いを巡らせたとき、少女は真実に気が付いてしまった。
真実に気付く間際、魔法の杖に願ったこと。
もう一度だけモニカと会いたい。
それは叶えられてはいけない願い事だった。
こうなってしまうことは、わかっていたから。
モニカが皆の前で真実を話してしまって ――私の代わりに、罰を受けると。
そんなことを言い出すのは、よくわかっていたから……
「でもね、モニカ……」
何度も鼻をすすりあげてから。
「私がもっと賢ければ……もっと早く気が付いていたと思うの……」
涙を流しながらも、笑っているかのような表情で。
「モニカ……あなたはいつも優しくて、しっかりしてて、おまけに可愛くて……そう。私なんかよりあなたの方がずっと……」
くすくすと笑いながら、声を震わせて言った。
「お姫様に……ふさわしかったじゃない……」
「アプリコーゼ……」
思わず抱き寄せた。
ふわふわのベッドを思い出し、アプリコーゼは目を閉じる。
恐れも、不安も、悲しみも忘れ。
もう一度会えたことを、ただ幸せに感じていた。
いつの間にか、周りが静かになっていた。
顔をあげると、たくさんの大人が、少女たちを見守っていたことに気が付く。
「あ……ち、ちがうの!」
アプリコーゼは慌てて立ち上がる。
「そう、わたしが……アプリコーゼ。わたしが……お姫様、だから、わたしが……」
モニカもゆっくりと立ち上がり、穏やかな表情で言う。
「いいのよ。アプリコーゼ、私が――」
「ばかっ!」
怒鳴りつけた。
「何がいいのよっ! 何度も言っているでしょう! 私はお姫様なのっ! あなたはその世話係っ! あなたは私の言うことを……きかないと……」
最後は声にならなかった。
そのまま顔を隠すように、モニカに抱きついた。
「やだ……私、やだ……モニカがいなくなっちゃうのは、やだ……」
「アプリコーゼ……」
モニカは目を赤くして、空を見上げる。
やがて我慢できなかったように嗚咽を漏らし、声を上げて泣きはじめてしまった。
泣きじゃくる少女たちの姿を見ながら、大人たちは困惑する。
対立しているはずの者たちが、お互いに顔を見合わせていた。
日が高く昇り始める。
緑の丘の上、歴史ある壮大な城に向かって、暖かい風が吹き上げた。
城内からは無数の花びらが、まるで少女たちの願いを叶える魔法のように。
甘い香りを乗せて、天高く舞い上がっていった。
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