8. 想い
馬車の外には見知らぬ風景が広がっていた。
屋敷から遠く離れた場所に来るのは、初めてだったけれど。
それを目に焼き付けようという気持ちは起きなかった。
手にはあのアンズの枝。
少女はただ呆然と、くすんだ空を見上げていた。
三日三晩、途中の街で宿泊しながら、たどり着いたのは少女が生まれた国。
広い領土からなる大きな国らしいけれど。
その雄大さは少女の目には映らず、懐かしさを感じることもなかった。
深緑であふれる小高い丘の道をゆき、やがて馬車は止まる。
歴史を感じさせる、白い石造りの大きなお城。
背後に広がる透き通った湖には、森の緑が映る。
なるほど、お姫様が住まうにふさわしい、そんな場所だった。
誘導され、馬車を降り、大きな門をくぐる。
門はすぐに閉じられ、見張りが立つ。
城の中から、誰ひとり外に出すまいと、そんな様子で。
庭園で待つように指示され、アプリコーゼはぼんやりと歩く。
手入れがされていないのか。
雑草は茂り、小道沿いの樹木もその枝があちこちに向かって伸びていた。
その一角、高い城壁の近くに、見覚えのある形の木が並んでいた。
枝の先、あちらこちらにつぼみが見える。
空気も暖かい。きっともうすぐ、無数の花を咲かせることだろう――
ひとり見上げるアプリコーゼに、ふたりの男女が近づいてきた。
穏やかな表情で、ともすれば遠慮がちに。
久しぶり、だね。アプリコーゼ、と。
父を名乗る者が言う。力強く軽々と少女を抱え上げながら。
少しやつれているけれど、髭をたくわえた、立派な人だった。
貴女は覚えていないでしょうけれど、と。
母を名乗る者が言う。柔らかく密やかな仕草で少女をなでながら。
物静かな感じを受ける、美しい人だった。
少女はふたりをじっと見つめる。
初めて見る顔だけれど、鏡で見る自分にその面影があると。
納得することができた。
今まで一緒にいてあげられなくて、すまなかった。
短い時間だけれど、家族で一緒に過ごしましょう。
膝をつき、小さなアプリコーゼを抱き寄せながら、ふたりは言う。
微笑みながらも、はかなさを見せるふたりに。
「はい、お父様、お母様」
アプリコーゼは、ぎこちない笑顔を作って、そう答えた。
その日が来るまで、城の外には出られないと告げられた。
アプリコーゼは城の中を見て回る。
既に王城としての役割を果たしていないその建築物は、がらんとしていたけれど。
それでも歴史を知ることができた。
飽きることはなく、悲しい気持ちをわずかに忘れさせてくれる。
ふたりがずっと手を繋いでいてくれていたのも、嬉しかった。
豪勢な食堂は使わず、小さな部屋で夕食をとる。
アプリコーゼは笑顔を絶やさなかった。
家族と一緒に過ごすのに、辛い顔のままではダメよ、と。
別れ際、侍女長に言われた言葉だった。
そんなことは無理だと、ここに来るまではそう思っていたけれど。
お父様とお母様と会うことができた――
形はどうあれ、それはやはり、少女にとって幸せなことではあったらしい。
アプリコーゼはゆっくりと話をする。
屋敷での生活を。特にずっと一緒にいてくれた少女のことを。
ふたりは目を細めながら、じっと聞き入ってくれた。
わずかに悲哀とは違った、少女にはわからない、不思議な表情を浮かべながら――
寝室はひとりだった。
灯りは点けたまま、ぽすんと、ベッドに倒れ込む。
屋敷にあったものよりも、さらにふわふわのベッド。
目をつぶるも、眠りに落ちる様子はない。
隣には、誰も、いない。
「モニカ……」
屋敷を出てからずっとぼんやりとしていた頭が、ようやく鮮明さを取り戻した気がした。
はっと身体を起こし、涙をぬぐう。
思い出していた。
あの夜、モニカに言ってしまった、ひどいことを。
お姫様だとか、世話係だとか、そんなことは今さらどうでも良いけれど。
私には両親がいて、モニカは――孤児。
そんなことで相手を見下してはいけなかった。
私の言葉はモニカの心をどれだけ傷つけてしまったのか……
お父様とお母様のふたりと、一緒に過ごした今日の時間。
そのとき心に湧いていた気持ちを思い出すと、ますます心の奥が痛くなった。
次いでアプリコーゼの心に湧き起こったのは。
真っ黒な場所に何度も落とされるような感覚。
それは数日後――その日が来たとき、自分の身に起こることを想像したから。
恐ろしさで全身が冷え、ゆらゆらと視界が揺れ始める。
そんな気持ちの中、はっきりと見えたのは――
枕元に置いたアンズの枝。
とっさに手に取ると、わずかに気持ちが落ち着いた。
鼻をすすりあげ、再び涙をぬぐう。
部屋の灯りに向かって、何の気なしに枝を掲げると。
あの日の出来事を思い出し、少しだけ勇気が湧いてきた。
壁を乗り越えて外に出たこと。
道を間違えず、街にたどり着いたこと。
入口で迷っていたとき、道を教えてくれた老婆がいたこと。
色々なものを見て、最後には買い物ができたこと。
どれもこれも些細なことで、魔法なんて使わずとも叶えられることだけれど。
それでも、このアンズの枝は、少女にとって間違いなく魔法の杖だった。
それに。
帰れなかったらどうしようと、ひとり怯えていたときに、モニカと出会えたこと。
それだけは、まさに魔法のような出来事だった。だから……
ベッドの上、少女はひとり、アンズの枝を胸に抱えた。
そして、そっと目を閉じて。
「私、もう一度だけモニカと……」
願いの言葉を、そこまで口にしたとき。
あることに気が付いて ――
「あ……」
アプリコーゼはアンズの枝を抱えたまま、ベッドから飛び降りる。
机に置かれたランタンを手にして、寝室から廊下へ出た。
あの晩のことで、はっきりとしていないことがあった。
どうしてモニカは「一緒に逃げよう」と言ったのか。
モニカは一体何を知って、どこでそれを知ったのか。
そのことについてアプリコーゼの中で、なんとなく、ひとつの答えはあった。
しかし――
広大な廊下、音は無い。月には雲がかかり、周囲は闇。
ランタンの火を頼りに、少女は庭に向かって駆け出していた。
「嘘よ……そんなこと……」
言葉で必死に否定しようとするも、無理だった。
自分が思っていた答えは間違っていて。
もっと残酷な答えが、正解だった。
今までそんなこと、考えたことすらなかった。
でも一度、考え始めたら、すべてのことが綺麗につながった。
そう、今ならわかる。
あのとき私が見たのは、確かに
――少女の思考は、そこで、止まった。
暗がりの中、少女はたどり着いた。
広い庭の片隅、草木も生えない、茶色い土が広がる場所。
何もないその場所に、アンズの枝を置く。
少女は表情なく。
手を広げ。
火の点いたランタンを、上から落とした。
パリンと、ガラスが割れ、オイルが染み出す。
地に赤い火が広がった。
すぐさま火が移り、アンズの枝はパチパチと音を立てて燃え始める。
白煙があがり、焦げた匂いが充満する。
少女の心は、アンズの枝が尽きていくにつれ、徐々に崩れていく。
やがて火は消える。
魔法の杖は、小片も残さず黒い炭となり、夜風に散った。
闇の中、ひとりたたずむ少女。
その心は、ほとんど、壊れていた。
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