6. 現実

「――起きて、アプリコーゼ。お願い、起きてちょうだい……」

「……ん」

 真夜中。部屋の中は暗く、外の音も聞こえない。

 小声で呼びかけられながら、身体を揺すられるアプリコーゼ。

 ぼんやりと目をひらいた。

「えっと……」

 目の前にはモニカの顔。

 寝起きで頭が働かず、何も理解できない。

「アプリコーゼ、ここから……逃げましょう……」

「……え?」

 慌てて身体を起こす。モニカがベッドの横に立っていた。

 わずかに月の光が射す部屋の中、不安そうな表情でアプリコーゼを見つめている。

「廊下を見たら衛兵さんは眠っていたから……今ならこっそり、ここから出られるわ……」

「な……何を言っているの……?」

 混乱するアプリコーゼを見ながら、モニカは大きく呼吸をする。

 そして唾を飲みこみ、覚悟を決めたような表情で言った。

「アプリコーゼ、あなたはね……あの屋敷に戻ってはいけないの……」

「ど、どうして? どうして……?」

 アプリコーゼは助けを求めるような、かすれた声を出す。

 しかしモニカは、辛そうな表情を見せたまま、返事をしない。

「ねえ、モニカ……あなた、昨日から変よ。いったい何があったの……?」

 心配する少女の言葉に、モニカは固く目を閉じ、自分の手を強く握りしめる。

 苦しそうに呼吸をしながら、まるで伝えるべき言葉を必死で探しているような。

 そんな素振りを見せてから。

「聞いて、アプリコーゼ……」

 嘆くような声で。


「あなたの両親が、あなたを迎えに来ることは、もう、ないの――」


 そう告げた。

「え」

 音のない時間が続く。

「それって……どういう意味? ま、まさか……」

 とっさに思いついた答えに、アプリコーゼは震えあがる。

 全身から血が抜けてしまったかのように、頭の奥底が冷たくなった。

「お父様も、お母様も――死んじゃったの?」

 おびえる子兎の鳴き声ように細く、悲哀を含んだ声で言う。

 しかし。

「ううん、違うの。ふたりとも生きているわ、けど……」

 モニカは再び言葉をにごし、目をふせてしまった。

 アプリコーゼはますます混乱する。

 真実を隠し、ひとりで何かを抱え込んでいるかのようなモニカ。

 その様子に苛立ちすら覚えていた。

 屋敷の中で育ってきた少女の心に、様々な感情がうねりを作る。

 今までに経験したことのない情動に襲われながらも。

 アプリコーゼは――ひとつの答えを導き出してしまっていた。


「それは……わたしが、お父様とお母様に……見捨てられてしまったって、こと?」


 モニカは、何も、答えない。

 アプリコーゼは冷静ではいられなかった。

「モニカのばかっ!」

 思わず声を上げる。

「そんなわけないじゃないっ! 迎えに来ないだなんて、どうしてそんな嘘をつくのよっ!」

 モニカはうつむいたまま、ただ首を横に振る。

「それにっ! ここから逃げなきゃいけない理由なんて、どこにもないじゃないっ! だいたい、ふたりでどこに行くっていうのよ! 私、あのお屋敷から出たら……」

 アプリコーゼの中、思わず湧き上がるのは。

 夕方の広場でひとり、屋敷に戻れなかったらと怯えていたときの、あの感情。

「私は……私は、お姫様なのっ! あなたはその世話係っ! だから黙ってないで、答えなさいっ! モニカっ!」

 暗い部屋、アプリコーゼは泣きそうな声で叫んだ。

 モニカは自分の口元に手を当てる。目をふせたまま、震えた声で。

「場所はどこでもいいの、アプリコーゼ……大丈夫、私がちゃんと守ってあげるから……どこか遠い場所で、ふたりで一緒に暮らしましょう、ね?」

 そう言った。

「いやよっ! あなたがひとりで行けばいいじゃないっ!」

 泣きじゃくりながら。

「私にはお父様もお母様もいるんだから! お屋敷で待っていれば、きっと迎えに来てくれるものっ! あなたみたいに生まれたときから、ずっとひとりぼっちなんかじゃ――」

「……アプリコーゼ」

 モニカが顔を上げた。

 涙で、ぐしゃぐしゃだった。

「モニカ……」

 少女は急に冷静になる。

 モニカは。

 自分より少しだけ背が高く。

 少しだけ可愛くて。

 その性格は、自分とは比べものにならないほど、しっかりしている。

 

 それでも、年は自分とひとつしか変わらない。


 モニカは、私が知らない何かを知っている。

 その何かは恐らく、私の心をひどく傷つけること。

 そして、それを冷静に説明できるほど、モニカは大人ではなく。

 自分と同じ、子供なんだと――

 

 そんなことに、今さらながら、気が付いた。


「モ、モニカ……わ、わ、わたし……」

 喉がひきつり、声が出ない。

 とにかく話をきちんと聞いてあげないといけない。

 いや違う。その前に、私が思わず口走ってしまった、ひどいこと。

 そのことをきちんと――そう思った刹那。


 バンッ――!


 部屋の戸が勢いよく開かれた。

 少女たちは、とっさにそちらを向く。

「やれやれ、夜中なのに騒がしいですね。暗い場所で喧嘩ですか……?」

 知らない男の声。

 部屋の灯りが点けられた。

 眩しさに目の前が白くなり、しばらく何も見えなくなる。

 その間、ふたりの少女は、誰が来たのかわからず、唾を呑み込み、怯えていた。

 やがて明るさに目が慣れる。

「!」

 見知らぬ男たちが立っていた。

 中央に立つ男は、焦げ茶色の洒落た服を着込み、少女たちを見下ろしている。

 その左右にいる2人の男は、大柄で、護衛のような装いをしていた。

「……誰なの、あなたたち」

 モニカは怪訝な表情で男たちを見据えながら、アプリコーゼを守るように、その前に立つ。

 アプリコーゼはベッドの上、怯えながらも枕元に置いておいたアンズの枝を、とっさに握りしめていた。

「まったく、探しましたよ、お姫様――いえ、元お姫様」

 焦げ茶色の服を着た男が、小馬鹿にするような口調で、そう言った。

 モニカの全身が、びくっと反応する。男の言葉で何かに気付いたように。

 わずかに怯えたような表情を見せた後、鋭い目で男を睨みつけた。

 男は独り言のように。

「お姫様を屋敷から外に出すな、というのが決まりだったはずなのですが……まったく」

 そう言ってから。

「ふむ、貴女がアプリコーゼ様ですかね」

 ふたりの少女を見比べた後、ベッドの上に座っている少女に目を向けた。

 ひっ、と、アプリコーゼは小さく悲鳴をあげる。

 男はニヤリと笑うと、ベッドの方に早足で踏み込んだ。とっさのことに反応できなかったモニカを横に押しやってから、アプリコーゼの小さな腕をつかみ上げる。

「あっ……!」

 恐ろしくて、声がでない。

「! その子に触らないでっ!」

 モニカは大声で叫ぶと、必死で男の腕をつかみ、アプリコーゼから引きはがそうとする。

「やれやれ」

 男は冷静に、手を高く掲げると。


 パァン――!


 躊躇なく大人の力をもって、モニカの頬へと平手を振りぬいた。

 悲鳴をあげる間もなく、少女の全身が横にはじき飛ばされる。

 床の上に崩れ落ちるモニカ。

 急な衝撃で意識を失ったのか、そのまま動かなくなってしまった。

「モニカっ!」

 ベッドから降りようとしたアプリコーゼの前に、男が立ちふさがる。

「な……何なのよっ! あなたはっ!」

 アプリコーゼは怒りを込めて叫ぶ。

 不敵な笑みを浮かべる男を睨みつけ、手にしたアンズの枝を剣のように構えた。

「おっと、お姫様。我々は別に乱暴なことをしにきたわけではありませんよ」

 男は白々しく鼻で笑うも、急にかしこまって。

「――我々は迎えに来たのです。アプリコーゼ様。貴女をね」

 そう言った。

「え……」

「馬車は用意してあります。今すぐ我々と一緒に、貴女の住む屋敷に戻って頂きたい。夜分に失礼なのは謝罪します。しかし我々にも都合というものがある」

「で、でも……」

 倒れたモニカの姿が目に入り、アプリコーゼは再び怒りを覚える。

 モニカに暴力を振るったこの男の言うことなど、素直に聞けるわけが……

 その視線に気が付いたのか、男は不満げな表情を浮かべ、モニカの顔の近くで足を踏み鳴らす。

「モニカっ!」

「一緒に来て頂けますね。アプリコーゼ様」

「…………」

 アプリコーゼは無言で男を睨みつけながら、ベッドから降りた。

「まったく、手間を取らせないで頂きたいものだ」

 男は乱暴にアプリコーゼの手を取ると、そのまま部屋の外に向かって歩き出す。

「モ、モニカはっ!」

 倒れた少女の姿を心配そうに見て、慌てて声を上げるアプリコーゼ。

 しかし男は何も答えず、アプリコーゼを引きずるように早足で部屋を出た。

「あ……」

 部屋の前、薄暗い廊下の壁を背に、男が倒れていた。

 それは、少女たちを守ってくれていた、あの衛兵。

 腹の辺りをおさえ、苦しそうにうめき声をあげていた。

「う……うう……」

 乱暴に手を引かれながら、アプリコーゼは涙を流す。

 何もできない悔しさと、恐怖と――計り知れない不安に取りつかれたまま。

 

 夜の街、馬車に乗って、少女はひとり屋敷へと戻っていく。

 アンズの枝を胸に抱えながら。

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