5. 希望
「なるほど、魔法の杖……ねえ」
モニカはアンズの枝を手にして、隅々まで眺めた後、怪訝な声でそう言った。
部屋の片隅、灯りの下で椅子に座り、気まずそうにパンをかじるアプリコーゼ。
ふたりはまだ街にいた。
ここは宿泊所、広場の近くにあったあの立派な建物の一室。
昨晩、モニカはここに泊まり、昨日屋敷に来た孤児院の院長と、色々な話をして過ごしたのだと言う。さっき馬車で去っていった女性は、その人だったのだろう。
ただ、何となく昨日とは雰囲気が違ったような気もしたのだけれど……
「あのアンズの木――」
モニカは窓の外、暗くなってきた街を見ながら言う。
「だいぶ立派に育って、思った以上に背も高くなってきた。木の一番上から勢いよく飛び降りたら、壁を越えて外に出られるかもって、侍女長と話をしたことがあったの。でも、まさか――本当にそんなことをするなんて、ねえ……」
苦々しい口調で言うモニカ。
パンを食べ終えたアプリコーゼは、まさに怒られている子供のように、うつむいて縮こまる。
「怪我をしたら大変でしょう。まったく……無事だったからよかったものの……」
むくれたような、それでも思いやりを含む言葉に。
「そんなことしてないもん……」
頬を膨らませるアプリコーゼ。
「じゃあ、どうやって屋敷の外に出たっていうのよ?」
「だから……魔法で……」
「……はあ」
もういいわ、と、言わんばかりに、モニカは肩を落とす。
そのまま窓際から離れ、アンズの枝をテーブルの上にそっと置いた。
「方法はどうあれ……今頃、皆、心配してるはずよ。まったく、もう」
「だって……」
そうでもしないと――と、不満を口にするのは止めた。
はあ、と、再度のため息をついた後、モニカはうつむいたままの少女に訊く。
「それで……街は楽しかったの?」
「うんっ!」
全力で顔を上げ、目を輝かせたアプリコーゼが見たものは、不満げに眉をしかめた少女の顔。
慌てて目を逸らせ、しょんぼりとしながら。
「……ごめんなさい」
そう呟いた。
「なるほど。素直に謝れるようにはなったのね……」
三度の溜息。ちらりと見上げると、どうやら怒っているわけではなさそうで。
口元に両手を当て、何か深く考えているような――
「モニカ……?」
よく見れば、モニカの瞳の奥には、深い困惑の色が広がっている。
解決できない切実な悩みを抱え、戸惑っているような、そんな様子だった。
ノックの音。
ドアを開けて入って来たのは、護衛としてモニカに同行していた衛兵。
「早馬での伝令をお願いしてきました。皆、心配しているでしょうし」
「ありがとうございます」
屈強なその男に、小柄なモニカは丁寧に頭を下げた。
アプリコーゼにとって怖い存在だったはずの彼が、今日は頼もしく思える。
男は続ける。
「それと馬車の手配なんですが――」
「いえ、不要です」
モニカにしては珍しく強い口調で。
「今晩、私たちは屋敷に戻りません。ここで宿泊します」
宣言するかのように、そんなことを言った。
「え……? し、しかし……」
「そもそも、今までアプリコーゼを街に連れてこなかったのは――」
モニカは、妙な間をあけて。
「まがりなりにも王族の血を引く者を……むやみやたらと人前に出させないため。そしてやみくもなことをして危険にさらさないためです。少なくともヤンチャな性格を直さないことには、街中で勝手にどこかへ行ってしまい、迷子になるだろうことはわかっていましたし」
そこまで言って、アプリコーゼの方をそっと振り返る。
アプリコーゼはむっとしていたけれど、今日のことを思い出し、返す言葉がなかった模様。
恥ずかしそうに頬を染め、ぷいと横を向いてしまった。
モニカは思わず苦笑いを浮かべるも、すぐに真剣な表情に戻り、衛兵と話を続ける。
「でも、アプリコーゼはこうやって屋敷を出てしまっています。今更どうしようもないですし、外は暗い。帰り道で夜盗にあわないとは限りません。ここはきちんとした宿泊所です。明朝までここで過ごしたほうが安全だと思います」
モニカは淡々と、それでも心をこめた口調で話を終えた。
衛兵はしばらく悩むようにしてから。
「……わかりました」
なぜか少し、憐れみを込めたような目をふたりに向けて、言った。
「その旨、屋敷のほうに再度伝令を出しておきます。ただ、今晩はこの部屋を出ないでください。食事は私がお持ちしますので」
「わかりました。ありがとうございます」
「用がないとき、私は部屋の前で控えています。何かありましたらお呼びください」
言って、衛兵は部屋を出ていった。
その後、ふたりはその部屋で過ごした。
話すことといえば、当然、アプリコーゼが今日、この街で見て、知ったこと。
次から次へと途切れることなく、こと細かに。
そして本当に楽しそうに、アプリコーゼは話を続けた。
モニカは目を細め、同じように楽しげな様子で、その話を聴く。
家出のことは、もうすっかり許しているようだった。
けれど、その表情には、やはりどこか陰があるようにも感じられた。
食事も終え、いつもなら寝ている時間。
アプリコーゼが三度目の大あくびをしたのを機に、寝支度を始める。
もちろん寝巻きの準備はなく、着ていた服のまま、一つのベッドに潜りこんだ。
暗がりの中、アプリコーゼは不満げな口調で言う。
「こんな硬いベッドじゃ眠れないじゃない……ふわふわなのと取り換えられないの?」
「無茶言わないの……」
「むー」
アプリコーゼはうなり声をあげながら、ころりと寝返りをうって、モニカの傍に寄る。
ベッドが硬いからなのか、近くにいる少女のぬくもりが、いつもより伝わってくるようだった。
「ねえ、モニカ」
ささやくような声で訊く。
「明日の朝、目が覚めたら……私たち、すぐに街を出ないといけないの?」
「え?」
「だって、いつ帰っても同じことでしょ? 私、明日も街を見たいの」
「それは……」
困惑するモニカに、アプリコーゼは笑みを向ける。
「大丈夫。勝手にどこかに行ってしまうなんてこと、絶対にしないから。それに、もし心配なら――」
少し照れ臭そうに。
「モニカ、あなたがしっかり私の手を握っておいてくれれば良いでしょう? だから明日は、ふたりで、街を歩きましょ?」
それはきっと今日よりも楽しいから、と――心からの想いを告げた。
しばし静寂。
モニカは何も答えない。
やがてアプリコーゼを振り払うかのように、背を向けてしまった。
「……モニカ?」
鼻をすする音が聞こえる。
「モニカ……泣いているの……?」
「ううん、違うわよ……」
モニカはアプリコーゼの方に身体を向ける。
そしてぎゅっと、自分の顔を見せないように、アプリコーゼを抱き寄せた。
「そうね、アプリコーゼ……あなたと一緒に街を歩けたら、私も楽しいと思う……けど、明日のことは、明日考えましょう……今日は疲れたでしょうし、もう寝なさい、ね……?」
「うん……」
モニカの様子を不安に思いながらも、そっと目を閉じる。
やはり疲れていたのだろう。
硬いベッドを気にすることもなく、アプリコーゼの意識は、すうっと深く落ちていく――
街全体が静まり返り、少女は柔らかく寝息を立てながら、穏やかに眠る。
しかし。
その穏やかな眠りは、朝まで続かなかった。
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