4. 思い出

 晴天の下、多くの人が集まり、反対側が見えないほどの大きな広場。

 中央には立派な噴水。

 そこを中心としてたくさんの屋台が開かれていた。

 色鮮やかな装飾がなされた屋台は、行き交う人々の目を楽しませる。

 さらにその外側、広場の周囲にはレンガ造りの建物が円状に立ち並ぶ。

 そのすべての建物が商いを行う店。

 衣服、食べ物、お菓子、花、おもちゃ……などなど。

 それぞれの店が様々な商品を扱っていた。

 広場全体が活気に満ちていて、本当にたくさんの人で賑わっていた。


 その広場の片隅。

 小さな少女はあんぐりと口を開け、ぼんやりと立ちすくんでいる。

 やがて目元と頬が同時にゆるみ、嬉しさをこらえきれないような表情を見せた。

 が、すぐにきりりとした表情を作る。人の多さに怖気づかないように深呼吸をしてから、アンズの枝を片手でぎゅっと握り、胸を張って足を踏み出した。

 たくさんの店。知らないものが星の数ほどある。

 人であふれる広場の中、はしゃぎ回りたい気持ちを必死に抑える。

 そしてお姫様ぶった優雅な仕草で、アプリコーゼは足を進めた。

 しかし残念なことに、店に近づく勇気はなかったようで、少し離れた場所から観察するように、それでも目をきらきらと輝かせながら、色々なものを見て歩いた。

 何となく人込みにも慣れてきた頃、少女は広場から出る道を見つける。

 新しい世界を発見した冒険者のような気分で、そちらに向かって駆けだしていた。

 そこは、住居や小さな店が立ち並ぶ街路。

 人の数は減り、広場と比べるとだいぶ落ち着いた雰囲気に包まれていた。

 道はやがて、街に張り巡らされている水路と交差する。

 ここに住む人にとっては見慣れた光景でも、少女の目には新鮮に映り。

 足を止め、荷を載せて往来する小舟をじっと眺め続ける。

 そして何かに納得するかのように、うんうんと頷いてから、散策を続けた。

 日の当たる場所に集まっていた猫たちを発見して、おそるおそるたわむれる。

 小さな公園にいたピエロの大道芸に驚きながらも、最後は拍手をするまで満喫する。

 ただ道に沿って歩くだけでも、彼女の好奇心を刺激するものが、次から次へとやってくる。

 屋敷の中で育った少女にとってそれは、クリスマスプレゼントを毎日もらうが如く、心躍る幸せな瞬間の連続で――

 アプリコーゼはすっかり熱に浮かされたようになってしまっていた。

 だから、街角の小さなパン屋の前、焼きたての香ばしい匂いに誘惑され。

「ふふん、私にだってお買いものくらい、できるんだから」

 などと調子にのって、とことこと店に入ってしまったのも、仕方のないことだろう。

 

「――いらっしゃい」


 木製のカウンターの向こう。

 白いコック服に身をつつんだ中年の男性が立っていた。

 無愛想なその男は、恐らくはこの店の主人。

「あ、え……そ、その……」

 美味しそうなパンが並ぶ店内。我に返る少女。

 どうしたら良いかわからなくなり、思わずアンズの枝を強く握りしめる。

 普通にお買いものがしたい――と、そう願った。

 大きく息を吐き、なんとか落ち着いたアプリコーゼ。

 お買い物の仕方は「けいさん」の勉強をしているときに聞いた覚えがある。

 お金を渡して、品物を受け取る。それだけのこと。

 少女は自分の服のポケットに手をさしこむ。

 ポケットの中、小さな指でつまんだのは1枚のコイン。

 いつ家出をしても大丈夫なように、アプリコーゼ自身がこっそり忍ばせておいたものだった。

 これをこのおじさんに渡せばいい……はずなのだけど……どうやって?

 混乱して目を泳がせる少女。

 店の主人は威圧的に見おろしている。

 アプリコーゼは、ごくりと唾を飲みこみ、相手の目を見つめると、覚悟を決めた。

「こ、こ、こんにちは……わ、わたしは……あぷりこーぜ……」

 初対面の相手に対して、とっさに自分の名前を名乗ったのは、侍女長のしつけの賜物か。

 しかし残念なことに、次の言葉が続かず、しばらく沈黙が続いた。

 店の主人は首を傾げながらも、茶色い紙袋を手に取ってカウンターから出る。

 そして店内にあったコッペパンをひとつ、袋に詰めた。

 その様子をただただ見つめるアプリコーゼ。

 ふん、と鼻息荒く、店の主人は少女に紙袋を渡そうとするも。

 しかし何かに気付いた様子で、その手を引っ込めた。

「嬢ちゃん、金は? ちゃんと持ってるのか?」

「え……あ、は、はい……」

 アプリコーゼはコインを取り出し、おそるおそる手渡した。

 受け取った主人は、それを不審そうに眺めたあと、目を丸くする。

「お、おい……こ、こりゃ、金貨じゃないか……」

「え……ダ、ダメなの?」

「いや、駄目じゃないんだが……これじゃ釣り銭が出せんよ、まいったな……」

 意味がわからずオロオロする少女を、主人は観察するかのように、じっと見つめた。

「ふむ、良い生地の服を着ている。なるほど、金持ちの娘か……」

 呟くと、コインを少女に返す。そして。

「まあいい。今日はサービスだ」

 ぶっきらぼうに言って、紙袋を少女の前に差し出した。

「え?」

「タダでいいさ――ま、今後もひいきにな」

 戸惑う少女に、主人は半ば無理やり袋を手渡し、カウンターの中へと戻った。

 パンの入った袋とアンズの枝を抱えるアプリコーゼ。

 なんだか妙に恥ずかしくなり、くるりと背を向けた。そのまま店を出ようとした間際に。

「あの」

 振り返って。

「……ありがとう」

 ちょこんと頭を下げた。

「おう、またおいで」

 にいっと目を細める主人。少女は自然な笑顔でそれに答えていた――


 空がオレンジ色に染まりかけていた。

 時が過ぎるのがこんなにも早いのは、初めてで。

 まだ見てない場所はたくさんあったけれど。

 とりあえず、人の少ない広場の片隅、ベンチの上に腰をかけた。

 ふう、と、息を吐く。

 少女自身が気付いていなかっただけで、相当疲れていたらしい。

 アンズの枝を脇に置き、がさごそと、紙袋からパンを取り出した。

 黄金色のコッペパン。

 くう、と腹が音を立て、ぱくり、とかじりついて、気が付いた。


アンズアプリコーゼのジャムだ……」

 

 あのおじさんがどうしてこのパンを袋に詰めたのか、不思議だったけれど。

 なるほど、アプリコーゼと名乗ったのを、アンズジャムのパンが欲しいのだと。

 そう勘違いされたらしい。

 くすくすと笑う少女。これはモニカに話さなきゃ、と――


 急に、不安が押し寄せてきた。


「あれ……?」

 大事なことを思い出した。

「私……どうやって帰ればいいの……?」

 それは夢中で過ごしている間には、完全に忘れていたこと。

 少女にとっては、ひとつの国のように果てしなく広い街。

 街の入り口、あの老婆がいた場所がどこにあるのか、すでにわからない。

 道を訊こうにも、どう訊いたらいいのだろう。

 なんとかそこに戻れたとしても、その先、屋敷への道は覚えているだろうか?

 それに……

 私はをしてしまった。

 皆、怒っているに違いない。

 流石に今度ばかりは、いたずらでは済まされない。

 屋敷にたどり着いても、きっとあの鉄の門は閉じられているだろう。

 私はお姫様なんだから! などと、門の前で偉ぶってみたところで。

 誰もその門を開けてくれなければ、私は……

「わたし……どうしよう……」 

 ひっひ、と喉が震えはじめる。

 涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。

 鼻をすすりながら、パンを紙袋の上に置き、代わりにアンズの枝を手に取る。

 その枝を空に掲げ、助けを求めるように、細い声で呟いた。

「モニカ……」

 直後、遠くで馬車の音が聞こえた。

 アプリコーゼのいる広場から道を挟んだ向こう側、立派な建物の前に馬車は止まる。

 建物の前で待っていたらしい女性が、密やかな仕草で馬車に乗りこむ。

 やがて動き出した馬車を、ひとりの少女が見送っていた。

 アプリコーゼは思わず自分の目をこする。

 遠くにいるその少女の顔を、はっきりと見て取れたわけではないけれど。

「モニカっ!」

 アプリコーゼは駆けだしていた。

 少女も気が付く。

「アプリコーゼ!? あ、あなたっ、どうしてここに!」

「モニカっ、モニカぁー!」

 広場を全力で走り抜け、道を横断すると、アプリコーゼは勢いよくモニカに抱きついた。

 うわあああんっ――! と、大きな泣き声がどこまでも響き渡る。

 モニカは慌てた様子で、胸の中の少女に尋ねる。

「あなた、一体……どうやって、こんなところまで……」

 泣きやみそうもない少女。

 不可解なできごとに首を傾げながら、モニカは優しく彼女の髪をなでる。

「アプリコーゼ……」

 思わず呼んだその名前は、苦しいほどに、モニカの心を締めつけた。

 耐えきれず見上げた空は、天の朱色と紺色の夜が混ざり始めている。

 遠くの山の端、今日の終わりを表す夕日の色もまた、妙な闇を抱えているようで。

 少女の胸に宿った暗鬱たる不安と悲哀を、激しく揺り動かしていた――

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