3. いえで

 数日後。

 屋敷の窓から見上げる空は水色。庭園の緑も色濃くなってきた。

 春の訪れを感じさせるそんな雰囲気とはうらはらに。

「…………」

 アプリコーゼは不機嫌だった。

「まったく……いつになったら帰ってくるのかしら……」

 もう何十回は言っただろう言葉を呟きながら、アプリコーゼは大きくアクビをする。

 この屋敷に見知らぬ女性が訪ねてきたのが、昨日の昼。

 赤子だったモニカが捨てられていたという孤児院、その院長だった。

 彼女は、この屋敷でのモニカの働きぶりを聞いた後、詳しい理由は言わず、とにかく一緒に来て欲しいと、モニカに告げた。

 モニカは首を傾げながらも、衛兵のひとりを護衛として、馬車に乗って行ってしまった。

 そして一夜が過ぎ、昼食が終わる時間になっても、モニカは帰ってこない。

 昨晩は外で宿泊をしたという伝令は届いていたのだが――

「ふわあ……」

 再度の大アクビ。その姿を見た侍女長が苦笑する。

「私の部屋の硬いベッドでは、寝付けませんでしたか? お嬢様」

 少しばかり意地悪な、それでも年を重ねた母親のような口調の言葉に。

「むうう……」

 アプリコーゼはうなり声をあげ、頬を染めると、部屋を飛び出してしまった。

 行くあてもなく、そのまま庭に出る。

 日は暖かく、散歩にはもってこいの空気。

 新たな芽生えで満ちるこの時期の庭園。見慣れたはずの草花も、アプリコーゼの憂いを好奇心で置き換えるのに十分な役割を果たしていた。

「……あれ?」

 ふと気が付く。

 屋敷の外へと続く、閉ざされた大きな鉄の門。

 その前にいつも立っている、こわい顔つきの衛兵が、今日はいなかった。

「そっか、ひとりはモニカのおまもりで……もうひとりはお休み……?」

 普段は二人交代で勤めている衛兵たち。その一人がモニカの護衛として外出したままであり、もう一人は、アプリコーゼの思った通り、休憩中だった。

「ふふふ、これは……ができるかも……」

 この屋敷での暮らし自体を、心から辛いと思ったことはない。

 それでも、自由に外出できないことへの不満は、常に抱えていた。

 時折、馬車に乗って、教会やピクニックに行く程度で、アプリコーゼがどんなに望んでも、人の多い場所には連れて行ってもらえなかった。

 実際、多くの人が住む栄えた街が、この屋敷から少し離れた場所にあるのだけれど、アプリコーゼは一度も訪れたことがない。

 一方、モニカは侍女長と一緒に買い物へ出かけることがあり、その度に自分も街に行きたいという想いは強くなっていった。

 まだ見ぬ街の華やかな情景を浮かべながら、アプリコーゼは門の前に立つ。

「むう、これは……」

 普段は衛兵に阻まれるため、ここまで近づいたのは初めて。

 門には大きなかんぬきが掛けられていた。アプリコーゼにはその仕組みがよくわからなかったけれど、とりあえず背伸びをしてそれを動かそうとする。

 しかし少女の細腕では何をしたところで、まったく動く様子はなかった。

「それなら……」

 と、かんぬきを足場に扉をよじ登ろうとするも、上手くいかない。

 何度も挑戦し、疲れてきた頃、ふと振り返ると。

「あ……」

 少し離れた場所で、休憩から戻ってきたらしい衛兵が、アプリコーゼを見つめていた。

「ご、ご、ごめんなさいっ!」

 泣き声のアプリコーゼは、全力で走り出す。

 残された衛兵は、遠くへ逃げていく少女を見守りながら、無器用な微笑みを浮かべていた。


 裏庭。アンズの木。

 息を切らせるアプリコーゼ。

「なんで……わたしが、あやまらないと、いけないの……よ」

 悪いことなんて何もしてないのに、と。

 疲労と恐れと不満が混じり合った表情で、はぁーと、大きく息を吐いて、空を見上げた。

 そして気が付く。

「……あっ!」

 あのつぼみが、開きかけていた。

 赤紫の硬い部分がほころび、薄い色の花片が放射状に広がろうとしている。空の色に負けないほど鮮やかに、情景の華になろうとするそれは、まさに春の訪れを表していた。

 高い位置にあるそのつぼみを見ながら、何度も目を瞬かせるアプリコーゼ。


 近くで見たい――


 少女の内に想いが湧きあがる。

 気が付くとアプリコーゼは木登りを始めていた。ふわりとしたスカートの裾が邪魔だったけれど、木の表面のでこぼこは、アプリコーゼの小さな手足に吸い付くようで、少なくとも鉄の門よりはだいぶ楽に登れていた。

 間もなく、背丈よりだいぶ高い位置、幹が枝分かれした部分に、少女は足をおく。

 さっきよりも近くで見る、そのつぼみは一段と力強く、色鮮やかで――

「わあ……」

 アプリコーゼは幹を抱えるようにしながら、感嘆の声をあげていた。

 もっと近くで――と、つい足を踏み出してしまったのが、よくなかった。


 ぱきっ。


 足元の太い枝は、ひとりの少女を支えられるほど、頑強ではなかったらしい。

「え」

 その枝は音を立てただけで、完全に折れてしまうことはなかったけれど、ぼんやりと幻想を見ていたような少女の気持ちを、現実に引き戻した。

 ふと見れば、自分の足元。

 茶色い地面はずっとずっと下にある。

「あ……」

 ここから落ちたら――

 背筋が冷え、慌てふためき、さらにバランスを崩す。

「わ、わっ……」

 思わず両手を振り回し、その小さな手で何かをつかんだ――

 

 その後、数刻の間に起きたことは、よく覚えてない。

「いた、いたたた……」

 少女は柔らかい土の上、強くぶつけたらしいお尻を右手でさする。

「……あれ?」

 すぐに異変に気付く。

 雲ひとつない空の下。

 遠くまで広がるのは低い草におおわれた大地。

 そこに冬枯れの木がまばらに立つ――知らない光景だった。

 慌てて立ち上がり見回すと、背後には見慣れた壁がある。

 屋敷を取り囲み、いつもアプリコーゼをうんざりさせていた、あの壁だった。

「ひょっとして、私……外に……出られたの?」

 困惑するアプリコーゼ。

 今更ながら、左手に何かを握りしめていたことに気が付く。

「あ」

 木の枝だった。

 さっき落ちそうになったときに、つかんだものだろう。

 とっさに無理な力をかけたせいで、折ってしまったのは間違いない。

 少女の腕ほどの長さのそれは、ふしぶしで小枝が伸びているものの、大きな枝分かれはなく、まっすぐな棒状をしていて――その先端には、小さなつぼみが付いていた。

 咲きかけていたあのつぼみとは違い、弱々しい感じだったけれど、それでも花咲こうと、けなげに春を待っていたのは、少女の目にも明らかだった。

「……ごめんなさい」

 小さく呟いてから。

「でも……ひょっとして?」

 水色の空、屋敷の壁に向かって、アプリコーゼはその枝を高く掲げる。

 日を浴びて輝くその枝は妙に神々しく、先端にあるつぼみは水晶のようにも見えた。

 さっきまでこの壁の内側にいた自分は、不思議なことに、外に出ている。

 そう。

 をすること。

 それはさっき、自分自身が願っていたことだった。だから――

 

「これは、きっと、願いを叶えてくれる――魔法の杖?」


 実際、アプリコーゼは壁を乗り越え、屋敷の敷地から外に出ていた。

 さて、いったい彼女の身に何が起きたのだろうか?

 アンズの木に登ったアプリコーゼは足をすべらせた。そのとき、とっさにつかんだ枝を折ってしまい、彼女は落ちる。しかし直後、木の幹から彼女の真下に向かって生えていた太く大きな枝が、まるで少女を助けるかのように、彼女の小さな身体をすくい上げた。

 彼女の重さで枝は強くしなり、やがてバネのように、上に乗った少女を遠くへ弾き飛ばす。

 アンズの木は、壁際に植えられていて、木の高さは壁と同じくらいだった。

 だから、飛び上がった勢いで。

 偶然にも、少女は壁を飛び越えることができたのである。


 ――などと、そんなことは今宵の月が青くなる確率ほどに、起こりえないことで。

 まさに奇跡のようなこと。

 それこそアプリコーゼが思ったように、そのアンズの枝が本当に魔法の杖だったという方が、まだ信憑性があるというものだろう。しかし現実として彼女は壁を乗り越えており、その様子を誰ひとりとして見ていないのだから、奇跡でも、魔法でも、どちらでも大差ない。

 そして、屋敷の中で育った少女も、その真偽を深く考えられるほど、この世界の常識に通じてはいなかった。

 

「私は……街に行きたいっ!」


 アンズの枝を掲げ、アプリコーゼはずっと想っていた願いのひとつを告げる。

 そして、魔法の杖の反応を待たずに、茶色い土の上を壁沿いに、たたたたっと走り始めた。 

 この枝が本当に魔法の杖だろうがそうでなかろうが、私は屋敷の外にいるのだから――自分自身の足で頑張れば、この願いごとは叶えることができる、と。

 そんな風に冷静に、ある意味で現実的な思考ができたのは、侍女長の教育の賜物だろう。

 夢中で走るアプリコーゼ。

 彼女なりに全力で、他人から見ればゆっくり跳ねるように。

 あの咲きかけていたつぼみを思い浮かべながら。

 

 ――そう、もうひとつの願いごとは、きっともうすぐ叶うはず。

 魔法の杖なんかに、願わなくても。


 ぐるりと壁に沿って、屋敷の正面にたどりついた。

 周囲に誰もいないことを確認し、遠くからあの鉄の門を眺め、にんまりと笑う。

 そして、門から伸びる小道を外に向かって、少女は再び走り始めた。

 枯草に囲まれたその小道をしばらく行くと、広い道が左右に伸びている。

 アプリコーゼは足を止めた。

 正面は農園。芽が出始めたばかりの畑が広がっている。

 この辺りまでは、モニカや侍女長と一緒に、散歩に来たことがあった。

 しかし……

「街は……どっちなのかしら……」

 アプリコーゼはトコトコと道の真ん中まで歩を進める。

 そして迷うことなくアンズの枝をその場に立てた。

 ぱたりと、アンズの枝は右に倒れる。

「こっちね」

 少女は枝を拾い上げると、右の道に向かって歩き始めた。

 運よくと言うべきなのか、それとも魔法のおかげなのか。

 その道は正しく街へと通じる道だった。

 天気は良く、空気もほんのり暖かかった。

 遠くまでまっすぐに伸びる広い道。人通りはまったくない。

 道の左右には薄緑の冬草と、芽を出したばかりの若草が色相をなしていて、遠くの空の下には、冬の色が残る山々が連なっていた。

 少女は期待を胸に、わくわくと、疲れない程度に歩みを早める。

 やがて風の音に混ざり、少女が聞いたことのないざわめきが聞こえ始めた。

「あっ……!」

 道の先、遠くに石造りの大きなアーチが見えた。

 それは街への出入り口。

 いくつかの道が外から集まっていて、まばらではあったけれど人の往来も見て取れた。

 アプリコーゼは勢いよく走り始める。

 やがて、そのアーチのある場所にたどり着いた。

「ここが……街?」

 アーチから先に伸びる道。

 そこには灰色の石壁と赤い屋根で造られた家が、所せましと建ち並んでいた。

 一見、殺風景なその場所は、街の外で働く者が住む住居区で、昼間は人も少なかった。

 その光景をぼーっと眺めるアプリコーゼ。

 時折、通り過ぎる人が、不思議そうな目で彼女を見おろしながら、去っていく。

 本当にここが街なのかしら――と、拍子抜けしたような気分に襲われる。

 手にしたアンズの枝を空に掲げ、はあ、と息を吐いた。そのとき。

「――こんにちは、お嬢ちゃん」

 後ろから呼びかける声。

「え、え……?」

 慌てて振り返ると、アーチの脇。

 ひとりの老婆が、ひなたぼっこでもするかのように、低い石囲いに腰をかけていた。

「あ……こ、こんにちは! おばあさん!」

 とっさに返事をした少女に、老婆はしわくちゃな顔を、嬉しそうに緩める。

「お嬢ちゃんは、ひとりでここに来たのかねえ……」

 ゆったりと話すその老婆は、その少女に興味があると言うよりは、ただ自身の悠久の時間を埋めるために声をかけたようだった。それでも、アプリコーゼは妙にほっとした気持ちになり、不安に思っていたことを、つい尋ねていた。

「ね、ねえ、おばあさん……ここは街……なの? その……もっと華やかな……」

 他人と話をした経験がほとんどないアプリコーゼは、たどたどしく言葉を重ねる。

 老婆は穏やかな表情のまま、街の内側に向かって伸びる道を指差した。

 望むものはあっちだと、言わんばかりに。

「あ、ありがとう! おばあさん!」

 アプリコーゼは駆けだした。アンズの枝をぎゅっと握りしめたまま。

 道はゆるやかな上り坂。灰色の景色が続き、息が切れ始めた頃。

 反射したような太陽の光が目に飛び込む。

 わずかに瞬きをした直後、そこには。

「わあっ――!」

 少女がずっと思い浮かべていた以上の光景が広がっていた。

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