1. アンズの木
「きらいっ! みんな、大っ嫌いなんだからっ!」
美しい庭園の中をひとり駆け抜けて、少女は幼い声を張る。
広い敷地内にいる者すべてに、その言葉を響かせるかのように。
空は曇り、薄い灰色。
高貴な服装をしたその少女がたどり着いたのは、外へ続くはずの、大きな鉄の門。
閉ざされた門前には、筋骨隆々の衛兵が、いつものように睨みを利かせていた。
威圧されないよう気を張って、目一杯の怖い顔で衛兵を見上げながら。
「私は、いえでをするの。だから……門をあけなさい!」
そう叫んだ。
衛兵は無言のまま、軽く息を吐き、呆れたように首を横に振る。
少女が足を踏み出すと、衛兵は身構え、狼のような鋭い目付きで少女を見下ろした。
こわい、と。
それでもしばらく頑張っていたが、やがてくるりと背を向け、逃げるように歩き出した。
庭園の中をぼんやりと戻っていく少女。目の前には大きな屋敷が見える。
立派な造りではあるけれど、「お姫様」が住むほどの豪華さは備えていなかった。
少女はため息をつく。
屋敷の中には戻らず、脇道を通って、裏庭へ向かった。
敷地の周囲は、ぐるりと高い壁で囲まれていて、監獄のようでもある。
たどり着いた裏庭は、季節が季節なら色とりどりの花が咲き乱れる場所。
しかし今は殺風景で、空気に残る冬の匂いを際立たせるようだった。
裏庭の隅、壁際の一角に少女は足を運ぶ。
そこには背丈の倍以上はある一本の木が、こじんまりと植えられている。
葉も花もついていないその木を、少女はぼんやりと見上げ続けた。
「――アプリコーゼ!」
遠くから自分の名前を呼ばれるも、少女は振り返らない。
やって来たのは、彼女より少しだけ背の高い少女。
一見して真面目な性格だとわかるその整った顔は、アプリコーゼと呼ばれた少女の幼い顔とは対照的だったけれど、姉妹と言われれば納得してしまう程には、顔立ちが似ていた。
大人しい濃紺色のワンピースに白いエプロン。それが彼女の普段着。
「探したわよ。アプリコーゼ」
息を切らして、声をかける少女に向かって。
「私はべつに、あなたに用はないわ。モニカ」
アプリコーゼはぷいと顔をそらせた。
しかし彼女の表情には、さも待ちわびていたような安堵感と、口には出さずとも「遅かったじゃない」と、そんな不満の色が浮かびあがっている。
「侍女長も、調理師さんも、すっごい怒ってるわよ。まったくもう」
モニカと呼ばれた少女は、アプリコーゼの前に立つと、呆れ顔でそう言った。
「あら、どうして?」
「どうしてって……ダイニングに飾ってあった彫像は壊れていて、キッチンのお皿が何枚も割れている。挙句の果てに、夕食のスープが入っていたお鍋が床にひっくり返っていて……」
「それ全部、私がやったとでも言うの?」
「違うとでも?」
「……ふん」
アプリコーゼは頬を膨らませると。
「いいじゃない、べつに! 彫像も、お皿も、夕食のスープも、このお屋敷にあるものすべて、私のものなのよ! 私がどうしようと、私の勝手でしょ!」
ヒステリックに言って、モニカを押しのけると、再び木を眺め始める。
モニカは深くため息をついてから。
「皆ね、『また姫様のイタズラ好きが再発したか』って呆れてたわよ。けど……」
その小さな背中に向かって言う。
「アプリコーゼ、あなた、ひょっとして、お手伝いをしてみたかったんじゃないの?」
「……え」
「部屋のお掃除をしたり、お皿を洗ったり、お夕飯を作ったりと。普通の女の子がするようなことを一度やってみたかった。それを人知れずこっそりやってみたら失敗した。そういうことじゃないの?」
沈黙。
風が軽く音を立て、アンズの木を揺らす。
「そんなわけ、ないじゃない……」
アプリコーゼは背を向けたまま、弱々しい声で呟く。
穏やかな口調でモニカは続ける。
「もしそうなら、きちんとそう言えば良かったじゃない。皆、怒らずに許してくれたはずよ。なのにどうして変な意地を張っちゃうのよ、あなたは」
アプリコーゼは振り返る。その頬は赤く染まっていた。
モニカの方へと勢いよく足を踏み出すと、彼女の眼前にびしっと指を突き出した。
「みすかしたようなことを言わないでちょうだい、モニカ。確かにあなたは私より1つだけ年が上だし、背も少しだけ大きい。顔も私よりちょっとだけ可愛いかもしれない。けどね」
目一杯息を吸い込んでから。
「私はお姫様なのよ! あなたはその世話係で、普通の人! 私よりぜんぜんえらくないの! 他のみんなだってそう。このお屋敷の中では、私が一番えらいの! わかった?」
偉ぶった、それでも変に裏返った声で、アプリコーゼは言い放った。
モニカは困ったように首を傾げ、苦笑いを浮かべた後。
「はいはい、わかりました。お姫様」
言って。
「まだ風は冷たいし、その恰好じゃ寒いでしょ。とりあえず一緒に屋敷に戻りましょう」
小さなお姫様の前に、うやうやしく、左手を差し出した。
アプリコーゼは再び頬を膨らませるも、差し出された手を反射的にぎゅっと握る。
そのままお姫様の手を引いて屋敷に戻ろうとしたモニカ。
しかしアプリコーゼは、その手を引っ張り、モニカの足を止めた。
「ん? どうしたの……って、あら」
モニカは、アプリコーゼが指差す先を見た。
敷地を囲う壁を背に、孤高にそびえる――アンズの木。
いまだに花も実もつけたことはなく、素朴に、しかし力強く育とうとするその木の先。
少女たちの背丈よりずっと高い位置にある枝先にひとつだけ。
赤ワインと同じ濃い色をした、小さなつぼみが、芽生えていた。
ふたりの少女は手を繋いだまま、そのつぼみを見上げる。
「つぼみがついたのは初めてね。今年こそ咲くかしら?」
モニカがぽつりと呟くように言う。
「花が咲けば、春が終わる頃に実がなるかも。甘い果実がなるといいわね。アプリコーゼ」
少女は首を横に振る。
「……果実はどうでも良いの」
「あら、そうなの? あなた、アンズの実、嫌いだったっけ?」
「ううん好き、甘酸っぱくて。でも、そういうことじゃないの、モニカ。私ね」
息を吐く。
そしてどこか遠くを見るような目をして、言った。
「――花が見たいの。
このアンズの木は、もとよりここに生えていたわけではない。
少女の生まれた国、この屋敷から遠く離れた地で育っていた品種。
生まれたばかりの彼女が両親と離れ、この屋敷に連れて来られたときに、その苗木が植えられたのだという。
彼女の父親は、その国の王。
だからこそアプリコーゼは、自身をお姫様だと主張しているのだが――
世間的に見れば、アプリコーゼはお姫様ではない。
彼女の祖国はもう無くなってしまっているから。
正確に言うと、彼女の父親が王として支配していたその国は、無血革命により、国民が主権をもつ共和国となってしまっているから。
それはアプリコーゼが、この世界に生を受けた直後の出来事。
革命後の動乱から幼い娘を守るため、王と王妃――いや、元王と元王妃は、国から離れた地にあるこの屋敷に、娘を住まわせることにしたのだという。
屋敷には、住み込みの侍女が三人、調理師が一人、出入りを見張る衛兵が二人。
侍女の一人は、姫と同じくらいの年の女児が人選された。
彼女は親の顔すら知らぬまま、孤児院の前に捨てられていた子。
赤子のときより、姫と一緒にこの屋敷で育てられ、仲睦まじく過ごしていた。
けれど、年が経つにつれ、立場が明確になる。
アプリコーゼは姫。
モニカはその従者で世話係。
ただモニカは、その立場を嫌がることは一切なかった。
孤児である私を拾ってくれたのだから、と。
アプリコーゼを立派な女性に育てるべく、日々、奮闘しているのだった。
「アンズの花、か……綺麗な花が咲くといいわね」
微笑みながらモニカは言った。
「うん……」
アプリコーゼが向けた目は、少し寂しげで。
つないだ手を強く握ると、モニカの方に身体を寄せた。
「……ほら、寒いんでしょ? 早く中に戻りましょう、ね」
そのまま肩を寄せ合いながら、二人は屋敷の方に向かう。
「戻ったら、理由はともかく、皆にちゃんと謝りなさいね?」
「……いやよ」
「まったく、もう」
呆れるモニカを尻目に、アプリコーゼはそっと振り返り、アンズの木を見つめた。
この屋敷で何の不自由もなく育ってきたアプリコーゼ。
しかし彼女は――両親の顔を知らなかった。
彼らは、今まで一度も、この屋敷を訪れたことがない。
時が来たら迎えにくると、そんな話だけを聞いて、ずっと過ごしてきた。
そのことについて抱えている孤独感を、少女は誰かに伝えたことはない。
けれど彼女は、ひとつだけ、ずっと心に秘めている想いがある。
あのアンズの木に花が咲いたら。
そのときには、きっとお父様とお母様が、私を迎えに来てくれる、と。
願い事のような、その想い。
それはこの後、アンズの木に花が咲いたとき、本当に叶うことになる。
ただしそれは、結果的にひどく痛ましく、とても憐れな形で。
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