アンズの花とお姫様
こばとさん
プロローグ
乗合馬車は野道を進み、華やかな街の喧騒がゆっくりと遠ざかる。
一面に広がる草原の向こうには、緑に染まる山脈。
馬車には客が一人。素朴な服に身を包んだ、ブロンドの女性だった。
やがて農園が広がる場所にたどり着く。女性は年老いた御者に礼を言うと、馬車を降りた。
降りた先、若草に囲まれた小道を少し行ったところに、彼女の家がある。
穏やかな表情で馬車を見送ってから、彼女は自分の家に足を向けた。
透き通るような青い空。優しい春風には土の匂いと甘い香りが交じり合う。
不意に視界の片隅、遠くにそびえ立つ大樹の足元に、小柄な少女が見て取れた。
「……プリメール?」
自分の娘の名前を呟く。つい最近、学校に通い始めたばかりの幼い娘。
今日は休日。お友達の家に遊びに行くと元気よく飛び出していったはずの彼女が、今はひとり、木の下でうずくまっているようだった。
女性は慌てて駆け寄る。
その姿がはっきりと見えるところまで近づくと、少女もまた女性に気付いたようだった。
「ママ……」
「プリメール、こんなところで何をしているの?」
大樹のかげ、こじんまりと座る自分の娘に、普段通りの優しい声をかける。
少女は目を潤ませながら、助けを求めるような表情で自分の母親を見上げた。
しかし直後、何かを思い出したかのように、慌てて目を逸らす。
「プリメール、あなた、それ……」
少女の手に握られているものに気付き、女性は唖然とする。
それは、たくさんの可愛らしい花がついた木の枝だった。
枝肌の茶色が見えないほどに、集って咲くのは薄紅色。
それはアンズの花。
我が家の庭にあるアンズの木に咲くそれと相違なかった。
腕の長さほどもあるその大きな枝は、根先が鋭利に裂けてしまっている。
自然に落ちたものでは決してない。娘の様子から察するに、幹から伸びていたその枝を、彼女が無理やりに、もぎ取ったのだろう。
いたずら好きの我が子とはいえ、そんな乱暴なことを……と、軽い動揺を覚える中。
「だって……きれいだって言うから……」
少女はうつむいたまま、涙声で。
「少しだけあげるつもりで……そしたらケンカしちゃって……」
そんな断片的な言葉を絞りだした。
「ふむ……」
落ち着くように一息ついてから、考える。
なるほど。この子はお友達を自分の家に誘った。
お友達は庭にあるアンズの花を見て「きれい」と言った。
それなら「少しだけあげる」と、この子は木に登り、花の付いた小さな枝を取ろうとする。
が、足を滑らせ、とっさにつかんだ大きな枝を、つい折ってしまう。
この子はそれを恥ずかしく思い、これはわざとやったこと。たくさん花がついたこの枝をあなたにあげるつもりだったのよと、そんな意地を張る。
結果、こんな大きなものはもらえない。それに植物だって生きているんだから、ひどいことをしちゃダメだと、そんなことを言われ、娘はお友達とつい「ケンカ」をしてしまう……
「――そんなところかしら、ね」
言って女性は、娘の横に腰を下ろした。
暖かい風と草木の匂いを感じながら、娘の金色の髪をそっと撫でる。
「結局、お友達は帰ってしまって、あなたはトボトボと家の中に戻った」
女性は話を続ける。
「家にいたパパは、あなたが手にしたアンズの枝を見て、当然、あなたを叱る。むっとしたあなたは『わざとじゃないもん! パパのばか!』とか言って『こんな家、出てってやるんだから!』と意気込んで家を飛び出したものの……どこに行ったら良いかわからず、ここでぼんやりとしていた、と」
「……ママ、よくわかるね」
少女は顔を上げ、母親を見上げた。
「ふふ。伊達にずっと、あなたの母親をやっているわけじゃないのよ」
微笑みながらハンカチを取り出し、娘の涙をぬぐう。
「でも、本当に家出をしたのは初めてね。パパに叱られたのが、そんなに嫌だったの?」
「ううん、それはべつに良いの。パパ、怒っても怖くないし」
「ちっとも良くないでしょう」
コツンと、娘の頭を叩く。
彼は優しい人。他人に対して怒っているところを見たことがない。
その彼が、わがまま放題の娘を思って、慣れない説教をしている姿は何度も見ている。
もし娘がそんな風に思っていることを知ったら……
彼の困った表情を想像し、それでも思わず苦笑してしまう。
「でも、パパのせいじゃないとすると――」
娘がどうしてこんなに落ち込んでいるのか。その理由も十分に推測できる。
でも――それは後回し。
もっと大事な問題を解決してあげないといけない。
「プリメール。とにかくお友達とは仲直りしないと。ちゃんと謝りにいきなさい、ね」
「…………」
ぷうと頬を膨らませる。
どうして自分が謝らないといけないのかと、そんな無言の抗議。
そもそも、花をプレゼントしたいという、この子の善意から起きてしまったケンカだ。
だからこそ、単にたしなめるのも良いことではないだろうし、また、論理的な道筋を立てて説教をしたところで、この娘が素直に受け入れるはずもなく、何より大人げない。
どうしたものか、と、娘のしかめ面を見ながら、眉をしかめる。
ふと。
彼女は、娘が握りしめたままだった、アンズの枝が視界に入った。
ちょっと貸して、と、それを受け取り、花びらを太陽に透かすように掲げてみる。
午後の陽光は暖かく、夕暮れまで十分に時間がある。
たまにはこんな場所で、娘に物語を聞かせてあげるのもいいだろう。
例えば、そう。
アンズの花と、亡国のお姫様にまつわる物語、とか――
「アンズの枝は――魔法の杖」
「え?」
「そんな話を聞いたことはない? プリメール」
少女は首を横に振る。
「知らない。それ、おとぎ話?」
「そうよ、昔の話。ある国のお姫様と、彼女の大切なお友達の話」
「へー」
「聞きたい?」
「うん、おもしろそう! そのお話、ききたい!」
落ち込んでいたことを忘れてしまったかのように、目をキラキラと輝かせる娘。
思わず頬が緩む。
そして鮮やかな空の下、ふたりを見守るような大樹のふところで、彼女は語り始めた――
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