第52話

「あかたんだー!」

 レオノーラははしゃいだ声をあげた。

「あかたん、いるねえ。かあいいねえ!」

「あかたん、ないよ。リーン、だよ」

 1歳のリーンのすぐ上の兄、3歳のロンが、真面目くさった顔で訂正する。

「あかたん、ない? リーンたん?」

「そうだよ。リーン、だよ」

「リーンたん、かあいいねえ!」

「そう? あいがとー」

 この一連の、レオノーラトロンのやりとりの間中、周囲の大人は懸命に、「いや、君達も十分『赤ちゃん』だろう、まだ!」というひとことを、のどの奥に押し戻していた。

「おまえらだって、赤んぼじゃん!」

 大人達の懸命な努力を、リーンとロンの兄、8歳のヤンが、一言の下に切って捨てる。

 とたん。

 ヤンの頭に、ゴン、と、10歳の姉、ミオからの鉄拳制裁がお見舞いされる。

「いってー! なにすんだよねーちゃん!」

「そういうこと言わないの! せっかくロンが、お兄ちゃんとして頑張ってるとこなんだから!」

「だってあいつら、赤んぼじゃん!」

「それはそうでも、そういうことは言わないの!」

「リーンたん、かあいいかあいいねえ!」

「うん! リーン、かあいいよ!」

「あーぷ!」

「うああ」

 ヤンとミオとのやりとりを無視し、レオノーラは、危なっかしい手つきで、自分とさして変わらぬ大きさのリーンの胴体に腕をまわし、よっこらしょ、とばかりに抱え上げた。

「うああ、おもいー」

「こら、レオノーラ!」

 レオノーラの母、エリシアが、あわてた声をあげる。

「危ないでしょ! いけません!」

「ああ、大丈夫ですよ」

 ダーニャが――ソールディン家当主、リロイ・ソールディンの愛妻ダーニャが、おっとりとした声で言う。

「それっくらい、ヤンだってよくやってることですから。リーンはもう、慣れてますよ」

「そ、そうですか?」

「ええ」

「おーもーいー!」

 レオノーラは、リーンを抱えたままがんばって歩こうとしていたが、どうにもうまくいかずに、とうとうリーンをぺチョンと床におろした。

「リーンたん、おもたいよぅ!」

「うん、リーンね、おもたいよ」

 ロンが実感を込めてうなずく。リーンは、ロンにしょっちゅうそうやって連れ回されるので慣れているのだろう。機嫌良くキャッキャッと笑っている。

「――ああ」

 ザイーレンは、しみじみとした吐息をもらした。

「レオノーラには――友達が、必要だったんだな」

「友達は、誰にだって必要だろう?」

 真面目くさった顔でリロイがいう。ザイーレンは、一瞬ムッとしかけ、次の瞬間、クスリと笑った。

「ああ、そうだな。友達は、誰にだって必要だ」

「そうね」

 クレアノンもまた、大きくうなずいた。

「友達は――それとも、心を通わせあうことのできる、『自分』ではない『他者』は、きっと誰にだって必要なのよ。そう、それこそ――竜にだって、悪魔にだって」

「そうですね」

 エリシアは、大きくうなずいた。

「竜にだって、悪魔にだって――わ、わたしにだって。それに」

 エリシアは、優しい瞳で、ハイネリア四貴族のうち、筆頭と次席という、主力二家の当主夫妻と、黒竜のクレアノンという、なんというか、ちょっと洒落にならない面子にかこまれて、緊張で固くなっている、ユミルとアレンを見やった。

「アレンさんにだって、ユミルさんにだって、友達は、必要です」

「――ありがとう、ございます」

 アレンが目を潤ませ、ユミルがうやうやしく、エリシアに向かって一礼する。

「まあ、そのことに異論はないんだが」

 ザイーレンが腕を組んで首をひねる。

「問題は、どうやって周りの連中を説得していくか、だな」

「私は、そういうのは苦手だ」

 リロイが、まことにきっぱりと断言する。それは、確かに事実で、リロイの場合、他人を説得するより先に、自分自身と世間一般とをどううまく折りあいをつけていけばいいのかということが、人生最大の課題になってしまっている。

「だから、ザイーレンが手伝ってくれると大変にありがたい」

「もとよりそのつもりだ」

 ザイーレンは大きくうなずいた。

「私だって、可愛い娘に、争いごとの絶えない国と、敵意と復讐心に満ち満ちた隣国なんていうものは、絶対に残したくないんだからな」

「――ほんとにそうです」

 アレンが細い声で、ポツリと言った。

「私は――私は、絶対に――絶対に、おなかのこの子に、私と同じ思いはさせたくない――!!」

「――大丈夫」

 アレンの細い肩を、ユミルがそっと抱いた。

「私達の子供には――そんな思いは、絶対にさせませんから」

「――人間に、『絶対』はないぞ、ユミル」

 ザイーレンは、ただ事実のみを指摘する声で言った。

「だが、まあ、その志は、かってやろう。そう――今、国土防衛のために使っている予算と人員を、他のことにまわせるとしたら、いったいどれだけのことが出来るか――」

「――」

「――ごめんなさいね」

 複雑な顔をしているアレンに――昔々に、ハイネリア、その当時は、神聖ハイエルヴィンディア皇国から大量流入した武装難民だったハイネリアの人々に国土を奪い取られ、力ずくでそこに『ハイネリア』という国を建国され、今に至るまでその時の衝撃のせいで、ひどいよそ者嫌い、亜人嫌い、そして、ハイネリア嫌いのファーティスから亡命してきたアレンに、エリシアはそっと声をかけた。

「ザイーレンに、悪気はないんです。でも――ファーティス人のあなたからしたら『国土防衛』なんて言われたら、やっぱり、ムッとしちゃいますよね。だってあなた達は、私達の国を侵略しているんじゃなくて――『国土回復』がしたいだけなんでしょうから」

「――あら」

 クレアノンが目を見張った。

「今のエリシアさんのそれって、人間には珍しい反応じゃないかしら? それとも、私が竜だからそういうふうに思うだけかしら?」

「人間には、珍しい反応ですよ」

 ユミルがきっぱりと言った。

「エリシア様は本当に、類まれなる御方です」

「――そ、そんなこと言われたら、照れちゃいますよ、わたし」

 エリシアは、パッと頬を染めた。

「――なるほど」

 ザイーレンは、たいそう機嫌のよい笑みを浮かべた。

「よもや私の他にも、エリシアの素晴らしさに気がつくイェントンがいるとはな!」

「気がつかずにいられるでしょうか?」

 ユミルは、大真面目な顔で言った。

「それに気がつくな、というのは、太陽が昇り、夜が明けた事に気がつくな、と言っているのと同じことです」

「なかなか言うな! お世辞にしても、そこまで言えれば上等だ」

 ザイーレンは、大きくニヤリと笑った。

「さて、それでは、クレアノンさん」

「なにかしら?」

「イェントンの面々のほうは、私がなんとかして説得します」

「ソールディン家派の連中の説得は、メリサンドラとカルディンに任せておけばいい。ミーシェンは、僧侶達や王宮の面々の中から、信頼できそうな者達を味方につける努力をすると言っている」

 ザイーレンとリロイが、口々に言った。

「――と、いうことは」

 クレアノンは目を輝かせた。

「私は、キャストルクとセティカの人達を説得すればいいのね?」

「実際に、自分の目で見て、言葉を交さないと、心から納得することは出来ないでしょう」

 ザイーレンは、すました顔で言った。

「人間に――たかが人間なんかに、こんなにも肩入れしてくれる竜がいる、なんてことは」

「――『たかが』じゃないわ」

 クレアノンは、ゆっくりとかぶりをふった。

「『たかが』じゃ、ない。どんな竜も、どんな悪魔も、私をこんなふうに――こんなふうに、幸せにしてくれたことはなかったわ――」

「――」

 しばらくの間。

 大人達を無視してはしゃぎまわる、子供達の甲高い声だけが響いていた。

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