第47話

 一瞬の静寂を破ったのは。

「とーたん、なかない!」

 レオノーラの、懸命な声だった。

「とーたん、なかない、なかない! とーたん、なくのだめ。とーたんなくと、レオニーもなくの。とーたん、なかない、なかない! とーたん、なくのだめ。とーたん、なくのだめよう!」

「ああ、レオニー」

 ザイーレンは、泣き笑いの表情でレオノーラを抱きあげた。

「違うんだよ。父さんはね、悲しくて泣いているんじゃないんだよ」

「とーたん、なかない」

 レオノーラは、小さな両手をザイーレンの顔にのばした。

「とーたん、にこして? ね?」

「――」

 ザイーレンはにっこりと笑った。レオノーラの小さな手が、ザイーレンの唇を、笑いの形にしようと懸命にひっぱっていた。

「――かわいい娘さんだな」

 静かな声で、リロイが言った。

「――ありがとう」

 ザイーレンもまた、静かにこたえた。

「――さて」

 エリシアの手にレオノーラを渡したザイーレンは、クレアノンをじっと見つめた。

「あなたはいったい、誰なんだ? いったいなんのためにこんなことをする?」

「あら?」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「もう、名乗ったわよ。私はクレアノン。ああ、でも、『ソピアー』っていう姓は、私が自分で勝手につけたんだけど」

「――」

 ザイーレンは一瞬眉をひそめ。

 ついで、大きく両目を見開いた。

 姓を持たぬ種族。

 姓を名乗る習慣を持たぬ種族。

 その、典型は――。

「あ――あなたは、まさか――ほ、本当に竜なのか!? ほ、本当に、ディルス島の黒竜、クレアノンだというのか――!?」

「最初から、そう名乗っているじゃない」

 クレアノンは、クスクスといたずらっぽく笑った。

「私は竜の、クレアノン。黒竜のクレアノン」

「――」

 ザイーレンは絶句した。

 そして、エリシアを見つめた。

「――驚いていないな」

 ザイーレンは小さく笑った。

「エリシア、君は知っていたんだな?」

「ごめんなさい、だますような真似をして」

 エリシアは、ほんの少しだけ心配そうな顔でザイーレンを見つめた。

「でも――みんな、ほんとのことなの。ザイーレンさん、みんな、ほんとのことなの。わたしがお友達が欲しいっていうのも、クレアノンさんがこの場所で、本屋をはじめようとしていることも、みんなみんな、ほんとのことなの。それに――それに――」

「私はずっと、レンちゃん――ザイーレンさんと、仲直りがしたかった」

 リロイは、まっすぐにザイーレンを見つめた。

「私、人とつきあうのがうまくないから、レンちゃ――ザイーレンさんの事、怒らせちゃって、でも、どうやって謝っていいのかわからなくて、それで――それで――」

「――レンちゃんでいいよ」

 ザイーレンは、かすかに笑った。

「――ごめんね、ロイちゃん。ロイちゃんが、どうやって謝っていいか、わかるわけがないんだよ。だって私は、ロイちゃんはなんにも悪くないのに、勝手に怒ってたんだから。だから――だからロイちゃんが、どうやって謝ればいいのか、わかるはずがないんだよ」

「でも――ごめんね」

 リロイは、子供の時のままの口調で、ザイーレンに深々と頭を下げた。

「ほんとは、私、レンちゃんとずっと仲良くしたかった。でも、レンちゃんが、私のこといやだって、くっついてくるなって、あっちいけって言ったから――」

「あ――」

 ザイーレンは絶句する。

 そして、思い出す。

 子供のころ――リロイと大きく差をつけられたと、いつもいつも比べられて、いつもいつも自分が嘲られると、誰とも知らぬ何者かに、ひどく腹を立てていたあの頃。

 無邪気なだけの子供ではいられず、分別のある大人にもなれなかったあの頃。

(ねえ、レンちゃん――)

(――うるさいんだよ)

(え?)

(うっとうしいんだよ! なんでいつもいつも、ぼくのあとをずっとくっついてくるんだよ! ロイが一緒にいると――ロイがずっとくっついてくると――ぼくまで変なやつだって思われるじゃないか!!)

「あ――」

 衝撃とともに、ザイーレンは思いだす。

 自分がどんなに、ひどいことを言ってしまったのか。

(あっちいけよ!)

 そう、そして――。

(あっちいけ! もうくっついてくるな! もううんざりだよ、ぼくがいるのに、ぼくだっていつも、ロイと一緒にいるのに、いつもいつもみんながロイの話ばっかりするのはもううんざりだよ!)

 そして、リロイは――。

(あっちいけよ! もうぼくに近づくな! ロイなんて大ッ嫌いだ!!)

 リロイは、人から言われたことをすべて、丸ごと真に受けてしまう子供だった――。

「だ――だか、だから? だからロイちゃん、私に近づかないようになったのか――!?」

 ザイーレンのほうからすれば、それは子供のかんしゃくだったのだ。言った当人が、二、三日もすれば忘れてしまうようなことだったのだ。現にザイーレンは、その時の言葉は辛うじて思い出す事が出来たが、いったい自分がなんでそんなにリロイに腹を立てていたのか、すでに思い出す事が出来ない。

「――」

 リロイの目は、怒りを浮かべてはいなかった。ザイーレンをとがめてもいなかった。リロイの目にあるのは、ただひたすら、悲しみと、そして――。

「レンちゃん――もう、怒ってない?」

 そしてひたすら、ザイーレンの許しだけを求めていた。

「――怒ってないよ」

 ザイーレンは呆然と言った。

「そんな――そうだったのか――わ、私は――私は、ロイちゃんのほうこそ、怒ってるんだと思って――で、でも、ロイちゃんはいっつも、平気な顔してたから、ロイちゃんは、もう、私のことなんてどうでもいいんだと思って――」

「『リロイ、おまえももう、子供じゃないんだ。もう、子供だからって、許してもらえる歳じゃないんだ』」

「え――?」

「『おまえは、自分の感情をあんまりあからさまに表に出しすぎる。いいか、そんなことが許されるのは、子供のうちだけだぞ。もうこれからは、そんなことは通用しないぞ』」

「――」

 ザイーレンは悟った。

 リロイは、そのずば抜けた記憶力で、少年の日にいわれた言いつけを、一字一句、残らず記憶していたのだ。

「『いいかリロイ、これからは、家族以外の人の前で、自分の感情を表に出すな。おまえは、それくらいでちょうどいいんだ』」

「――」

 ああ、そうだ、もちろんリロイは。

「――と、父に言われた。その言いつけを、出来るだけ守るように努力してきた。私は、そういうことがうまくないから、いつも上手にできるわけじゃないけど」

 その父の言いつけも、丸ごとすっかり、真に受けてしまったのだ。

「――ロイちゃん」

 ザイーレンの目から、静かに涙が流れた。

「ロイちゃんは、ずっと――ずっと、我慢してたのか――」

「――とーたん」

 エリシアに抱かれたレオノーラが、不安げに手足をパタパタさせた。

「ないちゃだめ。ないちゃ、だめよう! とーたんなくと、レオニーもなくのよう!」

「――ごめんね、レオニー」

 ザイーレンは、そっとレオノーラの頭をなでた。

「――ロイちゃん」

 ザイーレンは、瞳に涙を残したままリロイを見つめた。

「ごめん――ごめんね。ほんとに――ほんとに、ごめんね。ねえ、ロイちゃん――」

 その瞬間。

 ザイーレンの昔を知らぬ者達の目にさえ。

「また――また、私と仲良くしてくれる? 私のこと――許して、くれる――?」

 少年の日の、ザイーレンの姿が見えた。

「――私は怒ってないよ」

 リロイは。

 にっこりと笑った。

「レンちゃんがまた、私と仲良くしてくれるなら、私はとても――とっても、うれしいよ」

 そして。

 リロイのその笑みは。

 少年の日に忘れてきた、友とわかちあう笑みだった。

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