第44話

『竜の本屋さん

 見るだけならただです

 どなたでも歓迎いたします

 どうかお気軽にお入りください』



「――これは」

 ザイーレンは馬車の中で少しあきれた声をあげた。

「倉庫、というより、館、だな。よくまあ本を売るためだけに街の真ん中にこんなものをつくったものだ」

 言いながらザイーレンは、かすかな不安を感じる。

 仮にも、ハイネリア四貴族筆頭、イェントン家の当主たるこの自分が、ここにやってくるまで、こんな建物が街に出来たということをまるで知らなかった。

 いったい――なんなんだ、これは?

「ねえ、おにいちゃん」

 妻エリシア、娘のレオノーラとともに馬車からおりたザイーレンの耳に、幼い少女の声が飛びこんできた。

「これ、なんてかいてあるの? おにいちゃん、よんでちょうだい」

「――」

 不意に。

 その言葉が、ザイーレン自身思いもよらない事に、幼かりし日の記憶をよみがえらせた。

(これ、なんてかいてあるの? おにいちゃん、よんでちょうだい)

 ああ――そうだ。

 幼かりし日、何度も聞いたその言葉。

 リロイの幼い妹、メリサンドラは、文字を見るたびに兄のリロイにそうせがんでいた。

 これ、なんてかいてあるの? おにいちゃん、よんでちょうだい。

 そうせがまれるたびにリロイは、生真面目な顔で、妹に文字を読み聞かせてやっていた。

「――」

 ザイーレンの胸を痛みがよぎる。

 ザイーレンは、わかっている。

 憎むのも、嫌うのも、みんな自分がはじめたこと。リロイは――ソールディンの他の兄弟達はともかくとして、リロイだけは絶対に――自分に、ザイーレンに、悪意すら抱いたことがないであろうことを。

 ザイーレンは知っている。

 ザイーレンは――覚えている。

 昔はリロイが好きだった。

 それくらいは――覚えている。

 そして。

 他のことも、覚えている。

 リロイは、奇妙な子供だった。

 頭はとてもいいのに、『うそ』というものを、理解することが出来なかった。リロイは、他人の言ったことを、何でもかんでも全て真に受けた。

 そのせいで、他の子供によくからかわれたり、いじめられたりしていた。リロイとて、ハイネリア四貴族の次席、ソールディン家の次期当主候補だったのだ。普通だったら、いじめられるどころか、逆に媚びへつらわれることのほうを心配したほうがよかったかもしれない。

 ――ただ。

 リロイは――異質、だったのだ。

 リロイはいつも、本当のことしか言わなかった。――いや。

 リロイはいつも、本当のことしか『言うことが出来なかった』。

 つまり。

 他の子供にとっては、大人には知られたくない、自分達だけで大切に隠しておきたい秘密も、リロイにとっては、知っているからには、たずねられたら必ずこたえなければならない知識の一つでしかなかったのだ。

 そう、そもそも。

 リロイには、秘密という概念がなかったのだ。

 だからリロイは、他の子供達によくこう責められた。

 この、チクリ屋――と。

 もちろん、リロイは自分がなぜ責められているのか、まったく理解することが出来なかった。

(だからさ、ロイちゃん)

 ああ――なぜだろう。

 ザイーレンの耳の奥に、幼かりし日の自分の声がよみがえる。

(知ってることや、思ったことを、全部口に出したりしちゃいけないんだよ)

(どうしてだ?)

 ああ、そうだ。リロイはひどく、困惑した顔をしていた。

(だって、お父さんもお母さんも、いつも私に言っているぞ。親や大人に隠し事しちゃいけない、って)

 そうだ、もちろんリロイは、両親や目上の大人に言われたことも、全て全て、残らず真に受けていたのだ。

(でも――みんな、秘密にしておきたいことや、言われたくないことだってあるんだよ)

(――レンちゃんは、どうしてそんなことがわかるんだ?)

 あ。

 ――ああ。

 あの時、幼いリロイの目には。

 困惑とともに、自分にはどうしても理解することが出来ない難解きわまることを、たやすく理解してのけるザイーレンに対する混じりけのない尊敬の念があった。それはすでに、崇拝ですらあったのかもしれない。

(私には全然わからないのに。すごいな。レンちゃんは、ほんとにすごいな)

 そうだ、あの目を、あの純粋な崇拝をたたえた瞳を、自分は何度も見たことがあるのだ。

 リロイは、出来ることも出来ないことも、ひどく極端な子供だった。誰もが投げだした、複雑きわまりない寄木細工のからくり箱を、いともたやすく開けて見せるかと思えば、あきれてしまうくらいに単純な、ごく他愛もない言葉遊びのなぞなぞを、どうしても解くことができなかったりした。

 そんななぞなぞの答えを教えてやるたびに、リロイは尊敬しきったまなざしで自分の事を見つめたのだ。

「――」

 ザイーレンは、思い出す。

 そして、思い知る。

 エリシアと出会い、二人が共に恋におちるまで、自分にあんなまなざしを向けてくれたのは、ただリロイ一人だけだった。

 リロイだけが、胸が痛くなるほど純粋に、自分の事を尊敬してくれた。

 なぜ、こんなことを思い出すのか。

 不意に。

 ザイーレンの胸に、エリシアの言葉がよみがえる。

(レン、わたし――お――お友達が、欲しいの――)

 エリシアが求めるものを、自分はかつて、持っていた。

 自分には、友がいたのだ。

 なぜ――リロイを憎むようになってしまったのか。

 自分でも、ひどく矛盾していると思うのだが、ザイーレンは本当は『リロイ』を憎んでいるのではないのだ。

 そうでは、ないのだ。

 でも。

 でも――。

「――レン?」

 エリシアのいぶかしげな声に、ザイーレンはハッと我に返る。

「どうかしたの? なんだかボーっとしちゃって」

「――いや、なんでもない」

 どうしてこんなことを思い出したのか。

 ザイーレンは、自分で自分を不思議に思う。

 そして。

 ザイーレンは、ひそやかにため息をつく。

 もう、失ってしまったものだ。今になって、どんなにそのことを悔やんでも、もう失ってしまったものなのだ。

 ――悔んでいるのか、私は。

 ザイーレンは、わずかに驚く。

 そうだ、もしかしたら。

 悔んでいるからこそ、逆に執拗に憎み続けたのかもしれない。

 自分が失ってしまったものの事を悔やみ続けるより、自分には手に届かないところにいるものを、憎み続けるほうが楽だったから。

 だが、エリシアのあの言葉は。

 ザイーレンの胸に、後悔を呼び覚ましてしまった。

(レン、わたし――お――お友達が、欲しいの――)

 エリシアが、涙ぐむほどに求めているものを、自分はかつて、持っていた。

 それなのに。

 自分からそれを、手の届かないところに追いやってしまった。

 ああ、そうだ。

 それを悔やみ続けるのはあまりにつらいから。

 だからきっと、自分はこれからも。

 リロイとソールディン家とを、憎み続けていくのだろう。

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