第45話
「ここは――」
『竜の本屋さん』の中に招き入れられたザイーレンは絶句した。
そして、一瞬にして悟った。
ここは、倉庫ではない。いや、もしかしたらどこかほかの一角に、倉庫のようなものがあるのかもしれないが、少なくともこの部屋は、そんなものではありはしない。
「これは――これでいったい、ちゃんと採算は取れるのか?」
ザイーレンが思わずそうつぶやいたのもむべなるかな。
そこは――驚くほど広い、驚くほど快適な部屋だった。床一面に、ふかふかとした絨毯が敷かれ、そこに上がる時にはどうやら靴を脱がなくてはならないらしい。部屋の壁には一面に、背の低い本棚が並び、その本棚の上には、様々な絵本が開かれた状態で飾ってある。部屋に置かれたテーブルもまた、床に座ったまま使うことを想定された、ごく背の低いものだ。
そして。
そこには、たくさんの子供と、何人かの母親達がいた。子供も、母親も、様々な階層からやってきたのが一目で見てとれる。言ってはなんだが、みすぼらしいとさえいえる格好の者達も、ザイーレンも面識のある、ある名士の妻子達も、それぞれわけへだてなく、屈託なく床に座りこみ、それぞれ思い思いに絵本を読みふけったり、自分の子供や弟妹達に、小さな声で読み聞かせてやっていたりした。年齢もまた様々だ。赤ん坊から、孫を連れて来たらしいおばあさんまでいる。
「とーたん」
レオノーラが、真面目くさった顔で言った。
「あかたん、いるねー」
「ああ、そうだね」
ザイーレンはクスリと笑った。ザイーレンの目から見れば、レオノーラ自身もまだまだ『赤ちゃん』なのだが、そんなことを言っておねえさんぶりたい年頃のレオノーラの心を傷つけるほど、ザイーレンは無粋ではない。
「あかたん、かあいいねえ」
「そうだね。赤ちゃんは、かわいいね」
「いらっしゃい」
部屋の奥から現れた人影を見て、ザイーレンは、その部屋には、二つの出入り口がある事に気がついた。
「あら」
その人影――どっしりとした体格の黒髪の女性――は、エリシアを見てにっこりと笑った。
「ようこそおいで下さいました。あの絵本は、お嬢さんのお気に召したかしら?」
「ええ」
エリシアもまた、にっこりと笑った。
「レオノーラったらすっかり、『竜とネズミがお茶したら』がお気に入りになっちゃって。毎日一度は読んでくれってせがまれるんですよ」
「あら、それはうれしいわ」
黒髪の女性はにっこりと笑った。
「ここは、見るだけならただですけど、気に入ったものはお買い上げくださることも出来ますからね。どうかゆっくり見ていってくださいな。ええと――」
黒髪の女性は、小首を傾げてザイーレンを見た。
「そちらのかたは――」
「夫のザイーレンです」
ザイーレンは、黒髪の女性に軽く頭を下げた。姓を名乗る必要はない。一度屋敷を訪れたからには、その屋敷の主がどんな人物かは百も承知だろう。
「ようこそおいで下さいました」
黒髪の女性は優雅に一礼した。
「店主の、クレアノン・ソピアーです」
「――」
どこかで聞いたことのある名前だ。
一瞬考えこみ、ザイーレンは思いあたる。そういえば、ディルス島に、そんな名前の黒竜が住んでいると聞いたことがある。なるほど、その黒竜と同じ名前だから、この店――店なんだか倉庫なんだかそれ以外なんだか、ザイーレンにはいまだに判別がつかないのだが――に、『竜の本屋さん』などという名をつけたのか。
「――ここには、あの目録に乗っていた稀覯書はないようですね」
とりあえずザイーレンは、当たり障りのないことを口にした。
「ここは、絵本の部屋ですから」
クレアノンはにっこりと笑った。
「稀覯書は、別の場所に保管してあります」
「なるほど」
それはそうだろう。もしあの目録に乗っていたものが、本物ではない、よく出来た写本だったとしても、それでもそれを、こんな子供の手の届くようなところに置いておくなど、古書好きからすればそれこそ身の毛のよだつ所業だ。
「――ディルスからいらっしゃったんですか?」
再びザイーレンは、当たり障りのないことを口にする。
「ええ」
クレアノンはにっこりと笑った。
「この本も――ディルスから?」
「ええ、まあ、だいたいはそうですね。まあ、ディルス以外のいろんなところからも、チョコチョコと」
「――」
ザイーレンの胸中に、大きな疑問が膨れ上がる。
ディルスからこれだけの本を運んでくるとしたら、運送料だけでひと財産吹っ飛ぶだろう。しかも、ここにある本は、クレアノンの口ぶりからして『竜の本屋さん』にあるもののほんの一部でしかないらしい。
「――失礼な話ですが、運搬料がかなりかかったんじゃないですか?」
「いいえ、全然」
クレアノンはクスリと笑った。
「だって、全部自分で運びましたもの」
「…………」
ザイーレンの胸中の疑問がますます膨れ上がる。自分で運んだ、ということは、このクレアノンという女性は、自分の、もしくは自家用の、貿易用帆船を持っているとしか思えないのだが、いかにディルス島が海の向こうとはいえ、それほどの力を持つ貴族、または豪商の名が、ハイネリア四貴族筆頭、イェントン家当主たる、ザイーレンの耳に届いていないはずがないのだ。
「自分で――?」
「ええ、自分で」
クレアノンはにこにこと笑った。その屈託のない笑顔を見ても、ザイーレンの疑念は一向に晴れない。
これは、もしかしたら、容易ならざる相手なのではないだろうか。
ザイーレンはひそかに身構える。今のところ、クレアノンに害意は見受けられないが、どのような種類の力にせよ、かなり強力な力を持っているであろうことは明白だ。
「自分で――ですか。――なるほど」
「とーたん」
不意に、レオノーラがザイーレンのズボンをぐいぐいとひっぱった。
「レオニー、えほんみたい!」
「え? ああ、そうか。レオニーは、絵本が見たいのか」
ザイーレンはレオノーラを抱きあげ、愛娘をまっすぐ見つめてにっこりと微笑んだ。
「ええと――クレアノンさん、話の途中で申しわけありませんが――」
「かまいませんよ。レオノーラちゃんはご本が見たいのね」
クレアノンはレオノーラににっこりと微笑みかけた。
「どうぞ、たくさん見ていってちょうだい」
「あいがとー」
レオノーラがにこにことクレアノンにお礼を言う。
「どうぞ、よかったら見ていってください」
クレアノンは、その顔に微笑みを残したままザイーレンに言った。
「そうそう、これから、紙芝居をやるんですよ。ご覧になっていかれませんか?」
「紙芝居――」
そんなものは、子供のころに見たきりだ。
正直ザイーレンは、子供の紙芝居に特に興味があったわけではないのだが。
まあ、せっかく勧めてくれるのを断るのも角が立つだろう。
「それでは、せっかくですので」
「ありがとうございます」
クレアノンは大きく笑った。部屋の奥の出入り口から、ほっそりと小柄な、黒髪の少女が出てきて、いそいそと紙芝居の準備をはじめる。
「どうか楽しんでいってください」
クレアノンはまっすぐにザイーレンを見つめた。
「――ええ」
ザイーレンは、思わず目をしばたたいた。
きっと目の錯覚だろう。だが――。
だが、一瞬。
クレアノンの茶色の瞳が、銀色に鋭く光ったのが見えた、ような気がした。
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