第43話

「とーたん、とーたん!」

 トテトテとかけよってくる愛娘の姿に、ザイーレンの顔は大きくほころぶ。

「ただいまレオニー。いい子にしてたかな?」

「レオニー、いいこ!」

 胸を張って、レオノーラが答える。

「そうか。よしよし」

「とーたん!」

 レオノーラが、父、ザイーレンを見あげて満面の笑みを浮かべる。

「ケーキ、おっきおっき、ねー!」

「え?」

 ザイーレンはちょっときょとんとする。レオノーラは最近、すさまじい速さで言葉を覚えつつあるのだが、やはりそこはそれ、まだよちよち歩きの幼子だ。いくら懸命に伝えようとしても、言葉の拙さから伝えきれないことがよくある。

「ケーキ? ああ、おやつにケーキを食べたのかな?」

「ない!」

 レオノーラはブンブンとかぶりをふる。「ない!」というのは、彼女の否定の意の表明である。

「ちがうのか。じゃあ――ああ、明日お母さんが大きなケーキをつくってくれるのかな?」

「ない、ない!」

 レオノーラはもどかしげに首をふり。

「こえ! こーえ!」

 えっちらおっちらと、小さなレオノーラには運ぶのがやっとの、大きな絵本を運んでくる。

「ああ――この本の中に、ケーキが出てくるのかな?」

「あいっ!」

 ようやく自分の言いたいことが伝わったレオノーラが、満足げにうなずく。

「あの――ごめんなさいね」

 ザイーレンの最愛の妻、エリシアが、幾分おどおどと言う。

「勝手に買っちゃって。今日、本の行商の人が来て、それであの、この絵本、レオニーがきっと喜ぶと思って――」

「どうして謝るんだエリシア」

 ザイーレンは、エリシアのかたに手をおき、少し悲しげな顔をした。

「私は、それくらいのことも許さないほど、狭量な男に見えているのかな? レオニーがこんなに喜んでくれているんだ。君をほめたたえこそすれ、とがめたりなどするものか」

「――はい。変なこと言っちゃってごめんなさい」

「――いや。私のほうにも原因があるんだろう」

 小さくため息をついたザイーレンは、再び大きな笑みを浮かべてレオノーラに向きなおった。

「お母さんに、そのご本を読んでもらったのかな?」

「あいっ」

 レオノーラが大きくうなずく。

「かーたん、よんで!」

「私も聞かせてもらいたいな」

 ザイーレンはエリシアに微笑みかけた。

「それじゃあ、読みますね」

 エリシアも、ザイーレンに微笑み返した。

「この本、すごいんですよ。仕掛け絵本で――ほら!」

「ほう」

 ザイーレンは感心した。その本は、いわゆる仕掛け絵本で、本をめくると、中の絵が立体的に飛び出してくるようにつくられている。

「昔々あるところに、一頭の竜がおりました――」

 エリシアはゆっくりと語りはじめた。話そのものは、ごくわかりやすい、他愛もないものだ。昔々あるところに、一頭の竜がいた。心の優しい、穏やかな竜なのだが、ただ竜であるというそれだけのことで、森の動物達は怖がって近寄ろうとしない。寂しい日々を過ごしていたある時、あんまり一所懸命なぞなぞを考えすぎたネズミが、道を間違えて竜の目の前に迷い込んでしまう。はじめは逃げようとしたネズミだが、竜に、お茶とケーキをごちそうしてあげると言われておっかなびっくりお客さんになる。おもてなしを受けているうちに、ネズミは自分がいくら考えても答えのわからないなぞなぞのことを竜に話す。竜はそのなぞなぞをサラリと解いてしまう。すっかり感心したネズミと、お客さまを迎えて浮かれる竜は、次から次へとなぞなぞを出し合って楽しく遊ぶ。最後にはネズミは、たくさんおみやげをもらい、今度はもっと友達を連れてくると約束して家路につく――。

 まあ、ごく他愛ない話だ。だが、丁寧に描きこまれた竜が立体的に飛び出してくるページは、ザイーレンでも感心するほどの迫力があり、竜がネズミにごちそうする、ネズミにとっては自分の家ほどもある巨大なケーキも、本からこぼれおちてしまうのではないかと思うくらい、目一杯こちらへ向かって飛び出して来て、まるで竜から巨大なケーキを出された時のネズミのような気分になることが出来た。

「ネズミしゃん、くるねー。りゅうしゃん、おいでおいでっていうねー。りゅうしゃん、ケーキくれるのねー」

 エリシアの朗読にあわせ、レオノーラが得意げに、絵本のあちこちを指さして解説する。愛娘の成長ぶりに、ザイーレンの顔はほころびっぱなしだ。

「――こうしてネズミさんは、たくさんおみやげをもらって、自分のおうちに帰っていくのでした。次に来る時はきっと、たくさんのお友達を連れて来てくれることでしょう。めでたしめでたし」

「ネズミしゃん、ばいばいねー。りゅうしゃんも、ばいばいねー」

 ちょっと名残惜しげにレオノーラが言う。

「――いい絵本じゃないか」

 ザイーレンはにっこりと笑った。

「誰が持って来てくれたのかな?」

「あ――初めての人なんですよ」

「ほう」

 ザイーレンはちょっと驚いた。ハイネリア四貴族筆頭、イェントンの屋敷に飛びこみで入ってくる行商人がいるとは、ある意味暴挙すれすれの、見あげた度胸というものだ。

「それはまた、なかなかの度胸だな」

「ディルス島からいらっしゃったんですって」

「ほう」

 ザイーレンはなんとなく納得する。資源がないハイネリアが技術と貿易に力を入れているように、島国のディルスもその地理的条件から、海洋貿易が非常に盛んで、たくましい商人達が多いことで有名だ。

「あ、それでね、レン」

 エリシアは、テーブルの上から一冊の本を取り上げた。

「その人、倉庫を持っていて、本当にいい本は倉庫に置いてあるんですって。あのね、それで、目録を持って来てくれたから、もし、あの、ええと、いい本があったら――」

「もちろんいくらでも買えばいいよ、エリシア」

「きっと、レンの気にいる本もあると思うんですけど」

「ほう? それほどの品ぞろえなのかな?」

「びっくりしますよ」

 少しいたずらっぽくエリシアは笑う。受け取った目録をパラパラとめくって、ザイーレンは目を見張った。

「なに、シュディーノの『等価論』が全巻そろっている!? こちらは――じょ、冗談だろう!? 神聖ハイエルヴィンディア皇国開祖、エディオン王の養父、ミティエールの日記の原本!? いや、さすがにそれは本物じゃないだろう!!」

「行商人さんは、本物だって言ってますけど」

 エリシアはクスクス笑った。

「それは」

 ザイーレンは大きく息をついた。

「その行商人がとんでもないペテン師か、さもなくばその行商人自身がとんでもないペテン師にだまされているか、さもなくば――」

「さもなくば?」

「――その行商人が、とんでもない凄腕の、古書蒐集家か、だ」

「わたしには、どれが正しいのかわかりません」

 エリシアはクスクス笑った。

「ねえ、レン、おひまが出来たら、でいいんです。その行商人さんが本をおいているって言う倉庫に、一緒に行っていただけますか? わたし、本は好きだけど、古書の真贋なんて、全然わからないんですもの」

「あ――ああ」

 ザイーレンは、半ば呆然と、大きくうなずいた。

「そうだな、そうしたほうがいいだろう。この目録に載っている本の、半分だけでも本物なら、まことにもって、たいしたものだ」

「その倉庫には――本の好きな人が、たくさんやって来るんですって」

 エリシアの瞳に、今までとは違う色が浮かんだ。

「だから、そこに行けば、本が好きな人達と、仲良くなれるかもしれないわ。レン、わたし――」

 エリシアは、すがるような目でザイーレンを見あげた。

「お――お友達が、欲しいの――」

「エリシア――」

 ザイーレンの胸は張り裂けそうになった。

 妻が、エリシアが、その母親のせいで、その若さのせいで、ザイーレン以外の後ろ盾を何一つ持たないことのせいで、イェントンの一族の中で孤立してしまっていることは、ザイーレンとて痛いほど承知していた。

「そうだね――お友達が、出来るといいね――」

 出来るだけ早く、その倉庫とやらに行く機会をつくろう。

 ザイーレンは、固く決意した。

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