第37話
それは、少し昔の物語。
――ざまあみろ。
ザイーレンは、心の中でそう吐き捨てた。
ざまあみろ。
最も彼自身、一体誰に向かって「ざまあみろ」と思っているのか、どうもさっぱりわからない。
ただ漠然と吐き捨てる。
ざまあみろ。
知っている。
知っている。
私は、知っているんだ。
私が傘を持たずに外出すると、雨が降る。
私が傘を持って外出すると、雨が降らない。
知っているんだ、そんなこと。
ほら――今日だって、私が傘を持たずに外出したから、見事にきっちり雨が降ったじゃないか。
でも。
私はいまさら、傘をほしがったりなんかしない。
いまさら、雨宿りできる場所を求めて右往左往したりなんかしない。
私はただ、悠然と。
雨の中を、傘もささずに歩き続けてやるんだ。
――ざまあみろ。
ザイーレンはぼんやりと、そんなことを考えていた。
ザイーレンは、あてもなく、とりとめもなく、街を歩くのが好きだった。
わずかな、自分の気には触らないような方法で身辺を護衛してくれている者達だけをつれ、ぶらぶらと街をほっつき歩いていると、ハイネリア四貴族筆頭、イェントン家当主、ザイーレン・イェントンであることを、ほんのひととき忘れることが出来た。
そう。
何をどうやってもかの異能の天才、ハイネリア四貴族次席、ソールディン家当主、リロイ・ソールディンに勝てない自分であることも。
結婚式のまさにその当日に、満場を埋めつくす招待客たちの面前で、花嫁から見捨てられた、みじめな男であることも。
ほんのひととき――完全に忘れることまでは出来ないまでも、頭の片隅に追いやっておくことが出来た。
ザイーレンは、街を歩くのが好きだった。
街の雑踏の中では、自分がただの群衆の一人であると思うことが出来た。
街を歩くのが好きだった。
気を紛らわすことが出来るから。忘れることが出来るから。
だから――少し注意力が散漫になっていたのかも知れない。
角を曲がった、そのとたん。
ザイーレンは、小さな人影と思い切り衝突した。
「あ! す、すまん。大丈夫かね?」
「あ、はい、こ、こちらこそごめんなさい、ぶ、ぶつかっちゃって」
と、言いながら、その人影――小さな少女は、あまり大丈夫そうには見えなかった。
ザイーレン自身、別に大柄なほうではないが、その少女は本当に小さかったのだ。ザイーレンは衝突しても少し驚いただけでびくともしなかったが、少女はまともにひっくり返り、ご丁寧にも手に持っていた紙包みを水溜りの中にぶちまけてしまっていた。
「すまない。服が汚れてしまったね」
「――別にいいんです。こんな服、どうでも」
少女は奇妙に硬い声で言った。少女が身にまとっている服は、奇妙に――奇妙に――。
奇妙にかわいらしすぎる。ザイーレンの脳裏に、そんな不思議な言葉が浮かんだ。奇妙にかわいらしすぎる。あちこちにリボンがつき、ビラビラとひだ飾りがつき、奇妙にかわいらしすぎる。その服は正直、その少女にあまり似あってはいなかった。
「――あ!」
自分の両手が空っぽであることに気がついた少女が悲鳴を上げ。
「――ああッ!?」
水溜りの中に落ちた紙包みを見て、さらに悲痛な声を上げる。
「す、すまない、大切なものだったのかな?」
「あ――ご、ごめんなさい、へんな声出して。い――いいんです。わたしが不注意だったのがいけないんです」
少女はけなげにも、ザイーレンに向かってにっこりと微笑んで見せた。
「そちらのほうこそ、あの、だ、大丈夫ですか? お、おけがとかありませんか?」
「君のようなかわいらしい子にぶつかられたくらいで、けがなんてしやしないよ」
ザイーレンもにっこりと笑った。花嫁に逃げられていらい、ひどい女嫌いになったザイーレンだが、この少女はザイーレンの目には『女』ではなく、『子供』に見えた。だからにっこり笑ってやることも出来た。
「本当にすまなかったね。これ、君のだろう?」
「は、はい」
ザイーレンの手から紙包みを受け取った少女は、あわてて中身をひっぱり出した。
その中身は、2冊の本だった。
そして。
泥水にぐっしょりと濡れてしまっていた。
「――あ――」
ザイーレンに気を使ったのだろう。少女は、悲しげな声を押し殺し、ぎゅっと唇を噛んだ。
しかし、こらえきれなかったのだろう。その両目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「あ――ほ、本当にすまない! べ、弁償するよ!」
「え――あ、い、いいんです。わ、わたしがもっと気をつけていればよかったんです」
少女はまっすぐにザイーレンを見てそう言った。
少女が、本当にそう思っているのだということが、ザイーレンにはよくわかった。
それを失ったことで、涙を流すほど悲しんでいながらも、その原因をつくったザイーレンのことを、少女は微塵も責めてはいなかった。
「――どんな本なのかな、それは?」
ザイーレンは、出来るだけ優しい声で問いかけた。
「もし私が手に入れることが出来るようなものなら、新品を買ってお返しするよ」
「え――あ、い、いいんです」
少女は、奇妙におびえたような顔で言った。
「まあ、ちょっと見せてごらん」
ザイーレンは半ば強引に、少女の手から本を受け取った。
そして、目を丸くした。
「――『白竜戦役がもたらした国家機構再編成と肥大化した組織の強制的削減』。こっちは――『血統から見た魔術の才の伝承についての考察――『同胞』は遺伝するのか?』。これは――」
「お――おかしいですか、わたしみたいなちっちゃな女の子がこんな本を読むのって?」
そう問いかけながら、少女はもう、答えを予測していた。
「君みたいな小さな女の子が、こんな本を読むなんておかしいな」。――そういわれることを予想していた。
ザイーレンには、それが容易に見て取れた。
「――おかしくなんかない」
ザイーレンは、にっこり笑ってそう言った。
「むしろ立派なことだと思うよ。君のような小さな女の子が、こんなに素晴らしい本を読むなんて。私は両方とも読んだことがあるが、どちらもとてもいい本だった」
「――ほ、ほんとですか?」
少女の目が輝き、頬が真っ赤にほてった。
それをザイーレンは、奇妙に痛ましいような気持ちで見つめた。
この少女は、きっと今まで誰からも、そんな言葉をかけてもらったことがないのだろう。
そう、思った。
「これは、君が自分のお金で買ったのかな?」
「そ――そうです。母さんは、わたしがいりもしない、着たくもない服はいくらでも買ってくれるのに、わたしが本当にほしい本は、絶対に買ってくれないから、だから私、は、働いて――」
「そうか。君は本当に偉いね」
お世辞ではなく、ザイーレンは本当にそう思ったのだ。ザイーレン自身、本を読むのは好きだった。
「だったらなおさら、私にその本を弁償させてくれ。ああ――この近くに、私のいきつけの本屋があったな。そこにいけば、多分その2冊はおいてあるだろう。――しかし」
ザイーレンは、ぐしょぬれになった少女と、同じくぐしょぬれの自分に、そのときようやく気がついた。
「やれやれ、ぐしょぬれだな、二人とも。――君は、あそこの喫茶店に入ったことはあるかな?」
「え、ええと、い、一回だけ」
「そうか。だったらあそこが、ちゃんとした店だということはわかるだろう。あそこでちょっと、服を乾かそう。もちろん、お茶ぐらい私がごちそうするから」
「え――わ、悪いです、そ、そんなことまでしていただいちゃ」
「いいんだよ。君みたいないい子をこんなひどい目にあわせたまま帰らせてしまっては、私の気がおさまらない」
「え――ええと――」
「さあ、行こうか」
「あ――はい――」
そして二人は、喫茶店に向かって歩き出した。
――それが二人の出会いの話。
イェントン家当主、ザイーレン・イェントンと、その妻、エリシア・イェントンの出会いの話。
ザイーレンは、そのときまだ気がついていなかった。
だが。
あの時に。
自分の大好きなことを、初めて誰かにほめてもらった少女の、真っ赤にほてる頬とキラキラ輝く瞳を見たとき、すでに。
ザイーレンは、恋におちていたのだ。
ザイーレンがそれに気づくのは、その出会いから、しばらくの時を経ることとなるのだが。
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