第5話

「そう――これよ。これなのよ」

 クレアノンは、会心の笑みを浮かべた。

「私が必要としていたものは――まさにこれなのよ」







「――はあ」

 アレンは袖口でグイと汗をぬぐった。

「さてはて、これからどうしましょう?」

「とりあえず――森から出るべきか、それとも」

 ユミルはチラリと空を仰いだ。

「いっそしばらく、この森で暮らしてみるか」

「どうしましょうかねえ」

 アレンはおっとりと言った。アレンはひとことで言って、ちっぽけでやせっぽちで、口の悪い者には貧相のひとことで切り捨てられそうな中年男だ。ゆったりとしたローブに身を包み、小さな足でチョコチョコと歩を進めている。

 誰も思うまい。アレンが『水の同胞』――水系統の魔法の比類なき大天才であるなどと。

「あなたはどうしたいんですか?」

 ユミルがアレンを見下ろす。ユミルはアレンよりも頭半分以上背が高い。細身ではあるが鍛えられた体で、どこか猫にも似たしなやかな身のこなしだ。きれいに手入れされた口髭のせいでいささか老けて見えるが、ひげさえなければその顔はまぎれもない、まだ青年と言っていい若者のものだ。

「ええと――どうしましょう?」

 アレンは、本当に困惑しきった顔で首をかしげた。その容姿はどこからどう見ても、くたびれた中年そのもののアレンだが、そんな仕草は不思議と子供っぽい。

「あなたの顔は、あなたの国の人達――ファーティスの人達の間ではどれくらい有名なんですか?」

 ユミルがたずねる。

「――すみません。わかりません」

 本当に申し訳なさそうに、アレンがこたえる。

「私、あの――他の人達とは、いつも離れて暮らしておりましたので」

「――そうですか」

 ユミルは強く唇を噛んだ。アレンは自分の祖国の人間達から、兵隊どころか兵器としての、生きた道具としての扱いをしか、受けてはこなかったのだ。

「まあ、私の顔などまったく有名でもなんでもありませんから、それは別に問題はないんですが」

「そうなんですか?」

「単なるハイネリア貴族のはしくれでしかありませんので」

「――じゃあ」

 アレンはひっそりと笑った。

「私がいなければ、ユミルは国に帰れますね」

「アレン」

「はい」

「今度そんな馬鹿なことを言ったりしたら、私、あなたの事ひっぱたきますからね」

「――わあ」

 アレンは感嘆の声をあげた。

「私、ひっぱたかれちゃうんですか」

「そうです。思いっきりひっぱたきます」

「そうですか」

 アレンはうれしそうに、にこにこと笑った。

「それならもう言いません」

「そうしてください」

 ユミルは真面目くさってうなずいた。

「それにしても、当座の食べ物くらいはなんとかなりますが、これからの生活となると――」

 ユミルは首をひねった。

「どうしましょうかねえ。私、手っ取り早くお金に出来るような特殊技能があるわけじゃありませんし」

「私は、水系の魔法しかできませんし」

「ええと――帳簿をつけたり、手紙を代筆したりくらいは、出来ますけどねえ、私は。それともあれかな、隊商の護衛とか、そういう仕事が都合よくあったりすれば、いくらかなんとかなるかもしれませんけど、それにしても――」

 ユミルはため息をついた。

「そういう仕事を見つけるためには、まずは人里に出ないといけませんね」

「すみません。私、空間移動魔法は使えないんです」

「私も使えません。だからお互い様です」

「――ありがとう、ユミル」

「何がですか?」

「私に気を使ってくれて」

「私が空間移動魔法を使えないのは、単なる事実です」

「――」

 アレンはそっと笑った。

「それにしても――どこでしょう、ここは」

「そうですねえ」

 アレンは小首を傾げた。

「――竜脈があるのは確かですけど」

「竜脈が?」

「水に、竜の気配があります」

「りゅ、竜の縄張り、ということですか!?」

「ええ、たぶん。あ、でも、あの、敵意は感じられませんけど」

「竜は――いえ、巨大な力を持ったものは」

 ユミルは顔をしかめた。

「敵意もなしに、弱いものをたたきつぶしてしまったりするものですよ」

「す、すみません」

「え――」

 ユミルは一瞬、しまったという顔をした。

「――ごめんなさい、アレン。あなたをやりこめたかったわけじゃないんです」

「――はい」

「竜――ですか」

 ユミルは眉をひそめた。

「出来ればお近づきになりたくはないですね」

「あら、そんなこと言われたら悲しいわ、私」

 目の前の、何もない空中から聞こえてきた声に、ユミルは飛び上がり、アレンは目をまるくした。

「驚かせちゃった?」

 いたずらっぽい笑いとともに、虚空からポンと実体化したのは。

「私、黒竜のクレアノン。――ねえ」

「――は? あ、あの、私に向かっておっしゃってらっしゃるんですか?」

「ええ。ねえ」

「は、はい」

「竜だからって、そんなに嫌わないで。だって」

 クレアノンは、クスクスと笑った。

「わたしはあなた達とお近づきになりたいんだもの」

「――え?」

 ユミルはわずかに身を引いた。

「それは――どうして?」

「だって」

 クレアノンは、やはりクスクスと言った。

「あなた達、面白いんだもの」

「面白い――ですか?」

 ユミルはわずかに顔をしかめた。

「失礼ながら、私達は別に――」

「おもしろいわよ。建国以来ずーっと犬猿の仲の、ファーティスとハイネリアの軍人どうし。あなたは水の同胞で、あなたはハイネリア貴族」

「の、はしくれです」

「あら、こだわるのね。とにかくそんな二人が、手に手を取って愛の逃避行ってだけでも実に興味深いのに、そのうえ――」

「失礼ながら」

 ユミルがむっとしたように口をはさんだ。

「あなた、悪趣味です」

「でも、事実でしょ?」

「――まあ、それを否定するつもりはありません」

 ユミルはむっつりと肯定し、アレンはうれしそうに頬を染めた。

「ああ、でもごめんなさい。失礼だったのなら謝るわ。どうも私――というか、竜族は全体的に、あんまり他者とのつきあいが得意じゃないの」

「はあ――そうなんですか」

「そうなのよ。改善すべきかもしれないんだけど、私達と本当に対等なつきあいが出来る存在って、なかなかいないんですもの」

「そ、それはそうかもしれませんね」

「あの」

 アレンがおっとりと口をはさんだ。

「それならば、あの、ええと、あの、クレアノンさんは、どうしてわざわざ私達とその、おつきあいしようとしてくださるのでしょう?」

「いったでしょ? あなた達、面白いんですもの。それに――」

 クレアノンの瞳が銀色に光った。

「あなた達なの。私が必要としているのは」

「私達が、必要?」

 ユミルがハッとアレンをかばった。

「そ、それは、それはいったい、どういう意味でしょう?」

「ああ、なにか誤解させちゃったのならごめんなさい。あなた達に危害を加える気はないわ。ただ――あなた達ならピッタリなの」

「な――何に、ですか?」

「あなた達」

 クレアノンは、銀の瞳でユミルとアレンを見据えた。

「世界を変えたいでしょう?」

「――え?」

「今の世界では、あなた達は、こともあろうに不倶戴天の仇敵国の人間とつるんで祖国を裏切った脱走兵よ。このまんまじゃ、あなた達は一生ずっと、逃亡者」

「――ファーティスでも、ハイネリアでもない国に行くという手もあります」

 ユミルは固い声で言った。

「もっといい方法があるわよ」

 クレアノンは、ねっとりと微笑んだ。

「私が力を貸すわ。――ねえ」

 黒竜が、そっと。

「――一緒に世界を変えちゃいましょうよ」

 分岐点を、創りだす。







「そう――そうなのよ」

 クレアノンは、うっとりと微笑んだ。

「私が必要としていたのは――世界を変える、動機なのよ」

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