5回目 認める(上)
図書館の一角、熱心に書き物をする少年の姿が目に留まったのは何故だったのだろう。
制服が知人と同じものだったからか。それとも、参考書を開いて一見勉強しているように見えたその景色に、どこか違和感を覚えたからか。
(後ろの本をとるだけ、のぞくわけじゃない・・・)
心の中で苦しい言い訳をしながら、足音を殺して少年の後ろへと回り込む。
適当な本をとりながら、さりげなく、さりげなく。一瞬だけ見えた少年のノートには、「」や!がところどころにちりばめられていた。その一方で、広げられた参考書にはズラリと小難しそうな化学式が並んでいる。どこにも、「」や!は見当たらない。
(小説・・・?)
少年が熱心に書き込んでいたのは、どんな物語なのだろう。
その日は、時折ペンを休めて伸びをする少年の姿をしばらくの間眺めていた。
人は、好きなものには反応せずにいられない。眼は口ほどに物を言うとは、よく言ったものである。
「・・・安藤君、これが気になるんですか?」
とある合同授業の時間。隣の席からの視線に耐えきれず、出水は読んでいた小説の表紙を向けて見せた。
「・・・別に」
そっぽを向きつつ、安藤の視線は磁石にでもひきつけられたように出水の手元を向いている。無口な分、こういったところは分かりやすいのが安藤だ。
「これ、面白いんですよ。恋愛ものなんですけど、2人の感情の動きがとっても自然なのにドラマティックで・・・」
「分かる。王道なのにそれを感じさせないというかっ、描写がうまくて・・・あ」
「大好きじゃないですか・・・」
ほんの一瞬だったけれど、安藤の表情は今までにないくらい活き活きしていた。それだけ、この小説が好きなのだろう。
「・・・ひいた?」
「え?」
「男が恋愛小説読んでるなんて、気持ち悪い・・・?」
幸せそうだった表情から一転、安藤は一人この世の終わりに立たされたかのような絶望感を全身からにじませていた。叱られる前の子供の用におびえきっている。
「・・・そんなこと、思いませんよ。むしろ、この小説の話ができて私嬉しいですっ!」
この作家は、全くの無名というわけでもないけれど、まだまだ知名度は低い。
この小説を読んだとき、出水は隠されたお宝を見つけたようなワクワクに包まれた。一人でひっそり楽しむのもいい。けれど、その高揚を誰かと共有できるなら、それ以上のことはない。
「・・・ありがと」
安藤はそういってようやくぎこちないながらもはにかんで見せた。
「そういえば、この作者さんの新刊読みました?」
「まだ。本屋まわれてなくて・・・置いてるとこ少ないし」
「!それなら、お貸ししましょうか?この前運よく置いてるお店を見つけたんで買ったんです」
「!いいの・・・?」
「勿論っ。明日委員会ですし、その時にでもお渡ししますね」
「うん。楽しみにしてる」
よほど楽しみなのだろう。安藤の顔にもう絶望は残っていない。
丁度鳴ったチャイムを機に、出水はひとまずの安堵を得て本を閉じた。
きっかけなんて、今となってはどうでもいい。最初は半ば強引に押し付けられたようなものだった。それなのに、不思議なことにいつの間にかいわゆる(恋愛小説)や(少女漫画)なんてものにまんまとハマっている。いやはや、慣れというのは恐ろしい。いつの間にか、自分からそれらを手に取るようになっていたのだから。
委員会の日、化学室で出迎えてくれたのは机の上に置かれた一冊の本と見慣れた鞄だった。
(白石さんかな・・・)
シンプルながら、女子らしくキーホルダーがぶら下がっている。荷物を置いて、一旦出ているのだろう。深く考えることなく、机の上に手を伸ばす。栞が挟まれていないことを確認して、小説の1ページ目をあけた。あっという間に、ページの偏りがなくなっていく。
本の世界に没頭するのに、時間はかからなかった。
それは、化学室に誰かが入ってきたことに気付かないほどに。
その様子がおかしいことにも、すぐ近くに来るまで気づけないほどに。
「・・・なんで・・・」
文字にすれば、たった3文字。けれど、その3文字でも十分すぎるほどに、その声は悲鳴のように重々しかった。顔をあげて、現実へと目を向ける。
「えっ—―」
本を読んでいた。ただ、それだけだ。それなのに、どうして
「あ、安藤君・・・?何で泣いてんの・・・?」
目の前で無口な後輩が音もなく泣いているのだろう。
天河は状況が理解できず、膝の上に本を伏せた。
天河戸惑っている間にも、安藤の足元に滴がたまっていく。
「えっと、安藤君。何で泣いてるの?俺何かした?」
そう聞いてみるものの、ただでさえ無口なこの後輩が、そう簡単に話すわけもない。
安藤は黙って涙をぬぐいながら首を横に振るばかりであった・
「えぇー・・俺どうすればいいの」
わざと泣かせたのなら、まだ分かる。何もしていない、何も言わないと来ると、どうしようもない。性格が悪いと自負する天河にも、良心はあるのだ。
「頼むから何か言ってよ、これじゃ俺がいじめてるみたいじゃん」
目の前で後輩に泣かれて、放っておけるほど図太くもない。
「・・・すみません、これは、・・・」
「ごめーん、遅れたっ、もう皆そろってる!?」
無口な後輩のしぼりだそうとした貴重な言葉は、勢いよく開いたドアと明るく通る声の前に粉々に砕け散った。
「えっ・・・いっくん?何で泣いてんの!?大丈夫!?どこか痛い?」
矢継ぎ早に問い詰める柚季に、安藤の唇がキュッときつく結ばれる音を天河は聞いた気がした。
「え、天河君何かしたの?」
「いやいやっ、俺は何もしてないよ!とんだ濡れ衣。俺はただ、ここにあった本を読んでただけで・・・」
確認するように安藤を見るが、うつむいてこちらを見ようともしない。天河は諦めて膝の上に伏せた本を机の上に戻した。今はこちらが先決だ。涙をぬぐう腕の間に割り込むように、安藤の顔を覗き込む。
「安藤君、とりあえず落ち着いて。ね?」
2年生2人で1年生を囲んでいる図というのは、誰かに見られたら柚季のように嫌な誤解を受けかね.ない。誰かが来るまでになんとかしなければ。
そんな天河の願いもむなしく、化学室のドアは3つの人影を映し出した。
天河が化学室に着く少し前。
出水が化学室に入ると利市が窓際の席で退屈そうに足をぶらつかせていた。
「あれ、利市先輩早いですね」
利市の担任は話が長いと聞いている。実際、こうやって集まる時は大体利市が一番最後だ。
「それが、今日は担任が会議だとかでHR早めに切り上げたんだよ。つっても、さっき来たばっかだし、お前とそう変わらねぇけどな」
「ギリギリまでやってたんですね・・・」
「最後はすっげー名残惜しそうにでてったよ・・・ん?なんだそれ」
話し相手がほしかったのか、出水の置いた紙袋を見て利市はクルリ、と椅子回転させた。
「小説ですよ。安藤君にお貸しするんです。見ます?」
「ふーん・・・目ぇチカチカする表紙だな」
可愛らしいキャラクターたちが、フィクション特有の色をした髪をなびかせて笑っている。
利市はまぶしそうに眼を細め、無気力にページをめくった。つまみ食いをするように、挿絵のあるページで時折指が止まる。こんな風に時間を持て余しているなんてもったいない。2人にそう発破をかけるかのように、足音が近づいていた。
「!おっ、2人とも丁度いいところに」
「素さん、どうしました?」
「丁度いいって、何かあんのかよ」
利市の問いに、香坂の眼が僅かに泳ぐ。
「悪ィんだけど、今日届いた荷物運ぶの手伝ってくれね?」
「たまに早く来たらこれかよ・・・」
「ま、まぁ仕方ないですね・・・」
利市から受け取った本を机の上に置いたまま、出水は腰を上げた。
「届いたのがついさっきで困ってたんだよ。悪いなぁ」
口先では謝っているものの、全く悪びれている様子はない。むしろ、2人を捕まえられてラッキーとでも言いたげだ。
「ホイ、じゃぁこれよろしく」
香坂は2つの箱の内、大きいほうを出水に、小さいほうを利市に差し出した。
「?逆じゃねーの?」
「ま、持ってみろって」
大小2つの箱とくれば、大きいほうはハズレのような気がするのだけれど。
含み笑いをしている香坂は、その手を入れ替える気はないらしい。
おそるおそる受け取ると、大きな箱はふわり、と出水の手から浮いた気がした。
「!?ワッ・・・」
捕まえるように、手で支えなおす。大きさの割に、随分軽い。
「重てっ!何入ってるんだよこれ」
「出水の方は洗ったもの乾かすためのザルで、プラスティックだからでかいけど軽い。麻生の方はエタノールとか試験管だから見た目の割に重てぇぞ」
「先に言えよ!落とすとこだったろ・・・」
「それでこの振り分けなんですね・・・」
「そーゆーことだ。さ、とっとと戻るぞ。他の奴らが待ってるかもしれねぇし」
香坂は自らも2つ箱を抱えながら、満足げに歩き出した。
高校に入って、気づいたことがある。高校にいる時の香坂は、出水の知らなかった(教師)としての姿だ。今までは、8つも年上の(大人)だと信じてその背中を追ってきたけれど、教師としてはまだまだ(新米)で、生徒からも若い分親しまれている。それは、とてもいいことだ。
けれど。
今のような無邪気な表情を、出水はあまり見たことがない。そこには、どこかさみしさと言いようのない不安が渦巻いていた。
「お、もう誰かいるな。声がする」
「ちっ、運いいよなぁ」
もう少し早ければ、荷物運びに駆り出されていただろう。どうにもついていない利市が、切実さを漂わせながらつぶやく。そんな利市に抱いた同情も、香坂に感じた複雑な感情も全て、化学室を覗いた瞬間に霧散した。
安藤が、天河と柚季に囲まれて泣いている。
「あっ・・・」
こちらに気付いた天河の表情が強張るのが、遠目でも分かった。
「・・・えーっと。どうした?」
香坂が慎重に口を開いたが、安藤は一瞥しただけで、何も言おうとしない。
その代りに、とでも言うように天河が前に出た。
「俺たちは何もしてませんよ」
潔白を強調するためか、両手を顔の横で広げる。
「俺、この本をちょっと読んでたんです。そしたら、いつの間にか安藤君が泣いてて・・・」
机の上に、本は1つしかない。先ほど、利市に見たばかりの出水のお気に入りだ。
「あ・・・?それ、シロのじゃねぇか。安藤に貸すって言ってたやつ」
当然利市が気づかないハズがない。その一言で、安藤の肩がぎくりと震えた。
「あぁ、やっぱり白石さんの?ごめんね、勝手に触って」
「いえ、それはいいんですけど・・・」
もともと人に貸すつもりだったものだ。天河が読もうと、さほど問題はない。
「机の上にあって、面白そうだったからつい・・・」
言いながら気恥ずかしくなったのか弱まる天河の口調と裏腹に、安藤が勢いよく顔を上げた。まだ、鼻の先が少しだけ赤い。
「・・・ひかないんですか」
「え?ひくって・・・?」
(もしかして、泣いてたのって・・・)
出水と本の話をしたときも、安藤は同じような質問をしてきた。ゆっくりと、安藤の手が件の本に伸びる。
「・・・男がこんなの読んで、気持ち悪いとか、思いませんか・・・?」
まだ涙の残る声ながら、安藤はようやく(意思)を返した。
「何で?ユズその本きれいだし、読んでみたいなぁ。それに、何読もうといっくんの自由でしょ」
柚季らしい、素直な答え。きっと、本心なのだろう。
でも、それはただの(模範解答)で。
「なるほど?それで、俺に笑われるかもって思って泣いたのか」
天河の問いかけに、安藤が小さく頷く。
「・・・あのねぇ、俺、君の目の前でコレ読んでたでしょ。そんな俺が、コレを読む人を否定できると思う?」
今しがた、面白そうだったから手に取ったと白状したばかりだ。
自分が好きなものを、誰かも好きといっている。それを、どうして笑ったり、否定したりできるだろう。
「まぁ、気持ちは分かるけどね。俺も昔、もっとキラキラした少女漫画読んでて笑われたことあるし。誰にとは言わないけど、ね」
言わないのは口でだけ。天河の目は、明確な矢印を生み出している。
「・・・まだ根に持ってたのかよ・・・」
「笑っちゃいましたか・・・」
出水の隣で、利市が気まずそうに目をそらした。
「だって、天河が真面目な顔で少女漫画読んでんだぞ!?つい吹き出しちまったんだよ・・・」
矢印がもう一つ。大分涙のひいた安藤の眼が、利市を睨む。
天河のほうはからかい半分だが、こちらは重い。利市はたじろいだように一歩後ずさった。
「こういう馬鹿もいるから、隠すのも賢明だと俺は思うよ」
「でも、いっくんは何も悪いことしてないのにコソコソするなんて、なんかやだなぁ」
納得いかないと柚季の唇がとがる。それをなだめるように、天河は小さく肩をすくめて苦笑した。
「でもさ、俺みたいにその趣味が分かる人間だっているんだから、そういう人に出会ったときだけでも、素直になればいいんじゃないかな」
「素直に・・・」
「そ。なんなら、今度安藤君のおすすめ教えてよ。俺も持ってくるからさ」
少しわざとらしいくらいに明るくあっけらかんと話す天河は弟をあやそうとする兄のようで。真剣な天河には悪いが、出水にはどこか微笑ましく映った。
「そうですよ。私もその本を読んだ安藤君の感想、待ってますから」
ただ貸すだけではつまらない。語り合うからこそ、共有する意味がある。
「・・・ん。ありがと。なるべく早く読むね」
安藤は穏やかな表情で優しく本の表紙を撫でた。
一件落着。誰もがそう思い、束の間の安息が流れる。
特に、一番振り回された天河は目に見えて肩を下ろした。
「それじゃ、そろそろ・・・」
「・・・先輩」
これにて一件落着。めでたしめでたし。そうキレイには終わらない。
「俺?」
安藤は深く頷くと、自らの鞄から一冊の本を取り出した。
その目には、もう涙はにじんでいない。
「・・・コレ、僕のおすすめです」
「あ、あぁ、貸してくれるの?」
早速出てくるとは思わなかったのだろう。天河は一拍遅れて差し出された本に手を伸ばした。
「あ。俺コレ読んだことあるよ。面白いよね」
「!シリーズ、全部・・・?」
「うん。うちの姉が好きでね。その影響だけど、この人の本割と好きだよ」
「僕も好きですっ、この人の本。特に『明日の道を』ってやつが好きで—―」
一度外れた枷は、窮屈すぎてもうつけられやしない。安藤は今までの無口を取り戻すかのように語り始めた。素直になった途端これである。
「あ、安藤君、分かった。後で聞くから、先に委員会を・・・」
申し訳なさそうに安藤の言葉を遮った天河の言葉で、出水は自分の腕にかかる重みを思い出した。いつもなら、作業の半分は終わっている時間だろうか。
「あぁ、いいよ。神谷は安藤の話聞いてやれ」
あっさりと、今までの成り行きを見守っていた香坂はそう言った。
天河の顔に戸惑いが、安藤の顔に輝きが広がる。
「別に正規の委員会じゃねぇんだ。後輩の話きいてやれ。オレらで十分人手は足りるしな。終わったら入ってこい」
いいだろ?と柚季や利市に尋ねるその顔は、一切の含みがなかった。
(・・・素なんだよなぁ・・・)
付き合いの長い出水にはわかる。香坂は、語りだした安藤を天河に押し付けよう、なんて考えているわけではない。良かれと思ってやっている。
「で、でも・・・」
安藤の口は、まだ回り始めたばかりだ。ちょとやそっとじゃ止まらないことは誰の目にも明らかだった。天河が、戸惑いの声を漏らす。
「いいんじゃねーの?話聞いてやれよ天河」
香坂に便乗して、利市までがこんなことを言い出した。こちらは、愉快犯なのがありありと伝わってくる。天河が凍りそうなほど冷たい目でにらんでいたから、無事では済まないだろう。
「それじゃ、始めるか。麻生、出水、それこっちに持ってきてくれ」
「へいへーい」
「あ、はいっ・・・」
チラリと安藤を見やると、口を開いていない間の分を貯めているかのようにうずうずとしているのが分かった。語りたい気持ちが、今にも爆発しそうだ。
「じゃ、天河君、いっくん、あとでねー」
多分終わらないだろうけど。柚季は小声でそう呟いて、3人に紛れるように準備室へと飛び込んだ。無情にも、無機質なドアが明暗を分ける。
結局、その日の作業が終わるまで、2人が準備室に入ってくることはなかった。
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