第4話


「てんめえ、東児!! どおいうつもりだあっこらあっ!!」


 なぜか蟲が引っ込んだ。が、どうでもいい。

 あたしは、ともかく東児が許せない。

 すがるような、恐れるような目線を投げてきた瑠奈が可哀想だから――じゃない。


「あれだけ人に言い寄っておいて、なんだその行動はっ!!」


 そりゃ、生理的に東児は好かん。

 むしろ、嫌い。大っ嫌い。

 けれども、唯一知り合いの蟲飼いだ。

 それは東児も同じだろう。

 こっちがどれほど嫌っていても、何度も手痛い目にあっても、ずっと追いかけて来ていたのだから。

 もう、あたしは裏切られたという気分で胸が破裂しそうだった。


「だってさー。緋夕、さっぱりなびかないんだもーんっ」


 やたら気持ちよさそうに背泳ぎしつつ、答えた東児。さらに、


「それに、こっちの娘のほうが。可愛いし」


 なんですと!? ああそうですか、そうくるか。

 ――それが本音ね? この野郎。

 よし、わかった。目にモノ見せてあげるわよ。それも、とてもありがたいモノを。


 あたしは腰の縄に手をかけた。濡れてるから結び目が妙に堅い。

 いらいらする――力任せに引っ張ったら、縄が千切れた。

 反動で、べしゃんと濡れたジーンズがすっぽ脱げた。

 その音を聞きつけたのか、背泳中の東児が顔をこっちに向けた。目を見開いてそのまま硬直――沈んだ。

 何秒たったかな。ぞぶんっと海坊主みたいに水から頭を出すまで。

「う、うおっ!?」

 短く東児が唸った。それも顔を赤らめて。

 思いのほか純情だったのねと、微笑を投げかけ内心爆笑。

 だが、まだだ。まだなのだ。

 まだ、丈の長すぎるTシャツが太股あたりまで覆っている。


「東ぉ児ぃ」


 あたしは呼びかけた。とびきり、甘い声で。

 びくりと大きく身じろぎする東児。


(悪趣味な)


 その蟲の突っ込みに答える余裕などない、あたし。もう、吹き出しそうで大変。

 頬が引きつるのを感じつつ、Tシャツの裾に手をかける。思い切って一気に脱ぎ捨てた。

 これでブラ一丁パンツ一丁。

 この間、手に入ったのが黒でよかった。本当に。


「東ー児っ、来て♪」


 街灯に集まる蛾のように、ふらふらと呆けた顔で東児が歩いてくる。

 プールのなか、水の抵抗で足がついてこないのか、上半身が前に傾いている。

 あと五メートル。四、三、二――

 あたしは、にっこり笑顔を保ったままプールサイドにしゃがみこんだ。

 そこに、東児が手を伸ばす。両手を広げてママを求める赤ん坊の顔で。

 無邪気なものだね、まったく。

 その時に備えて、あたしは大きく息を吸い込んだ。あと五十センチ。

 あたしは胸元に手を伸ばした。

 ちゃりっ。

 胸の谷間に火が灯る。そう。落とさないようにとブラに挟んでおいた、ライターだ。


「このド阿呆」


 最上の笑みで、目一杯の炎の祝福。

 上半身丸焦げの東児が、後ろへと倒れこんで背から水没した。


「ほんと。馬鹿なんだから」

(拍子抜けだな、まったく)


 ここまで素直に引っかかるとは、実は予想外だった。

 あんなことやこんなことまで覚悟していた自分が、少々悲しく思える。

 同時に、少し東児が可愛いく思えた――いや。


「気の迷いでしょ。そんなことより」


 あたしはプールに飛び込んだ。下着姿になったのは、このためでもあったのだ。

 だらしなく浮いた東児の横を、すいすいっと泳いでゴムボートへたどり着く。


「んんんんっんんん」


 ノースリーブワンピースがそぼ濡れた、瑠奈の猿ぐつわを解いてあげた。


「い、いったい、今のっ」


 瑠奈の、驚きを隠さない声音と表情。どう答えたらいいのだろう――あたしは、黙りこんでしまった。

 複雑なあたしの胸のうちで、蟲が言った。


(そこにいる我が子よ。呼び声は届いているな?)


 ややあって。

 こくりと、瑠奈がうなずいた。


 押し黙ったまま、あたしは東児が浮いているのとは反対側のプールサイドへボートを引いていった。そこで、瑠奈の手足を縛っている縄を解いた。

 一足先に水から上がって、ボートの瑠奈へと手を差し出す。

 手を取りかけた瑠奈が、ぴくりと固まった。


「大丈夫。あたしは、なにもしないから」


 微笑かけることしか、できない。

 あたしの言葉を信じるも信じないも、瑠奈の自由。

 おずおずと、瑠奈があたしの手を握った。

 不安定なボートから、一息に瑠奈を引っ張り上げる。

 勢いあまって、ふたりで転んだ。


「――――あははははっ」


 笑えてきた。なんでだろう。

 なんでだろう――見上げた空、雲間の月が、ちょっと滲んで見えた。

 目を腕で拭い、そ知らぬ顔であたしは身を起こした。

 ぺたんと座り込んだ瑠奈を見やる。

 うなだれた彼女の顔は、長い黒髪に覆われて見えない。


「説明……いる?」


 ふるふると、瑠奈が首を横に振った。

 あたしは待った。瑠奈の言葉を。

 どれくらいの時が流れたのか。ほんの数秒だったのか、それとも数十分が過ぎたのか……。


「蟲さんから、だいたいのことは聞きました。蟲さんと相談して、できる限り普通の人間として振舞おうと決めました」


 そっか。じゃ、金曜日には目覚めていたのか、瑠奈の蟲。

 あたしなんか、蟲が目覚めた時に無茶苦茶取り乱したんだけどね。

 瑠奈は。やっぱり、しっかりした娘だ。


「でも、私にはやっぱり――よく、わからないんです。これから、どうしたらいいのか」


 ゆっくりと瑠奈が顔を上げた。

 濡れた髪が、いつもより強くシトラスを香らせている。


「緋夕さんは。今、どうやって生きているんですか?」


 どうやってか――ため息がでた。

 包み隠さず話そうか。それをどう判断するかは、瑠奈の自由だから。


「――と、いうこと」

 あたしは説明を終えた。簡単な話だからか、瑠奈は黙って聞いてくれた。

 虫飼いになってからの、この一年。

 困惑して家を飛び出し、同類探して放浪の旅。

 コインランドリーから色々盗み、ゴミをあさって生活してきた。

 途中で同類の東児と出会い、ストーキングされまくって逃げる日々。

 そしてあの晩。

 瑠奈と出会って、蟲を感染してしまったと。


「だから。恨んでくれてOKだから」


 あたしは今、どんな顔をしているのだろう。

 笑んで見せているつもりだけども、上手に笑えているだろうか。

 泣き顔になんか、なっていないだろうか。


「恨むだなんて、そんな」


 瑠奈の微笑みは、綺麗だった。同じ女の、あたしをどきりとさせるほどに。


「私は。私は、今までの自分が好きじゃありませんでした。だから、塾の帰りにわざわざ、あんな暗くて細い路地を通ったりしていました――」


 唐突な告白に、言葉もない。

 あたしは頷きもせず、じっと瑠奈の目を見つめていた。


「別に、襲われたいとか攫われたいとか、考えていたんじゃありません。けれど、ゆっくりと闇のなかを歩くと、知らない何かに会えるような気がして。それが、今の私を変えてくれるかもしれないと思って……笑ってしまいますよね、こんな少女じみた変身願望なんて」


 ごしごしと、瑠奈が手で顔を拭った。雨に濡れたからじゃないと思う。


「ですから、緋夕さんを恨んだりはできません。だって、そうした何かを望んでいたんですもの」


 じゃあ、なんで。


「駄目だよ。嘘は。強がりも」


 泣いているのさ。


「嘘なんかじゃ……嘘なんかじゃ…………」


 瑠奈がしがみついてきた。声を押し殺して、泣いている。


「簡単に受け入れられるわけないじゃん。こんな蟲なんてさ。ほんと、ごめん」


 言いつつ、胸に抱えた瑠奈の髪を撫でる。

 あたしには姉妹がいないけれども、なんか姉になった気分だった。

 なんだろう。

 久しぶりに家を思い出す。

 あたし蟲飼いにした、あいつ……クソ親父は、なにをしているのだろう。

 あたしを探しているのかな――それはないか。

 めったに家に帰ってこなかった親父。

 たまたま、帰るぞと電話があって、あたしは駅に迎えに出かけて。

 ガラの悪い兄ちゃんたちに絡んで絡まれ、ボコにされ。

 病院に担ぎ込まれて親父から輸血され――

 知らなかったわけがない。親父が、自分が蟲飼いだと。

 だいたい、親父が医者に言ったはずだ。

 宗教上の理由で、身内からしか輸血が受けられない、父一人子一人だから俺の血を、と。

 そんな妙な宗教なんか、あるもんか。輸血を禁じている宗教なら、あとで知ったけど。


『よう緋夕。蟲は目覚めたか?』


 あの時。とても嬉しそうに言ったからな、親父。


「ごめんね。ほんと」


 元はと言えば、親父のせいだ。でも、今はあまり腹も立たない。

 瑠奈には、申し訳ないだけだ。

 どうしたものだろう。東児の蟲も、医者にバレただろうし。


(蟲。あんたはどう思う?)

(東児はもう、警察にも手配されている。放っておくしかない。瑠奈はまだ、その蟲を東児以外には知られていない。生活にさえ注意し、医者を避けていれば、彼女は、当分は今の暮らしができるだろう)

(東児、バラしたりしないのかな?)

(しないな。あれはあれで、愚直な人間だと私は思う)

(愚直?)

(愚かしいほどに、まっすぐな人間だということさ。そう嫌うものでもないぞ、緋夕。今度のことも。お前の気を引くためだろう)

「えぇえっ!!」


 つい、叫んでしまった。

 泣きじゃくっていた瑠奈が、びっくりして顔を上げて身を離すほどの大声で。


「――どうか、したんですかっ」

「あ、いや。別になんでもない、なんでも」


 罰の悪さに、顔の前で掌を振った。


(ちょっと、それはどういうこと?)

(簡単なことだ。本当に瑠奈を手中に収めようというのなら。彼女を捕らえたあと、急ぎ街を去るが一番。だのに、わざわざ奴は待っていた。お前が想像しやすい場所でな。児童公園ではなかったのは、自分が警察に追われていることを考えてのことだろう)


 なにさそれ。

 あたしは、プールに浮かんでいる東児を見やった。まだ、失神中――ざぶんっ。

 水音が響いた。

 ざぶんっざぶんっざぶんっとバタフライ。


「うっわマジか、もう復活したのっ?」


 水に濡れていたから、あまり焼けなかったのか。

 そんなことは知らないけれども、元気にぐいぐいと腰を使いつつ、復活した東児が泳いでくるのは見りゃわかるっ、わかりたくないけどさ!


「い、いやっ」


 隣の瑠奈が、まともに嫌悪を顔に出した。彼女も生理的に東児が嫌いらしい。


「大丈夫。また、こんがり焼いてやるから」


 あたしは胸元からライターを手に取った。

 ちゃりっと擦る。点かない。もう一回。点かない。もう一回っ。


「嘘、なんでっ」

(雨に濡れたのではなく。まともに水没したからな、今度は。点くはずがない)


 冷静な蟲。あたしは気が気ではなかった。何度も何度も、奇跡を信じてライターを擦る。

 ――――――点かないっどうしてもっ!!

 顔から血の気が引いた。

 間近で水音、顔を上げたら目の間に東児が立っていた。月明かりにくっきりと浮かぶ分厚い胸板。炭と化した皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちていく。無数の白い線虫が蠢き皮膚を再生していた。こふーこふーと息も荒い。

 気色悪さ最高潮。色々な意味で。


「い……い……」


 なんでこんなにコイツが嫌なのかは謎だけど。嫌いなものは、嫌いっ。


「いやああああああああっ!!」


 その絶叫は、隣から。あたしより先に、瑠奈が叫んだのだ。

 さらに。

 それが、瑠奈の息の力なのだろう。

 瑠奈の叫びに晒された東児は、電光に包まれた。

 丸っきり雷の轟音が、夜の静寂を揺るがす。

 青白い閃光が、プールを真昼のように照らして瞬き消えた。

 今度こそ完全に全身丸焦げとなった東児が、背中からどぱんっとプールに落ちた。

 生理的な嫌悪感も消えていた。


「もしかして」あたしは呟いた。「東児の息の力って。女の子を不快にさせる、とか――まさかね」


 言って、瑠奈と顔を見合わせる。放心したように、彼女はぽかんとした瞳を向けてきた。


「まさか。そんな」

(厳密には違うが、おおむね正解だ)

「嘘っ?」


 その声は、ふたり同時のものだった。瑠奈の蟲も、同じ結論を主に告げたらしい。


(奴の蟲が、先ほど念で接触してきた。『コイツ、力に関しては運が悪いとしか表現できない。コイツの息は、人の精神を逆撫でる。弱い力ゆえに、無意識で常に働く。会う奴会う奴、コイツを嫌う。お前らだけでも、同じ蟲飼いのよしみで嫌わないでやってくれ』とな)


 哀れむような調子で、あたしの虫はそう語った。

 嫌われる息を吐く男。あたしも、同情したほうがいいのだろうか?

 あたしは、少しの間だけ、水に浮かぶ不幸全開野郎をぼーっと眺めていた。

 可哀想かも。東児って。

 とくんと、小さく心臓が鳴った。



 人の善意はありがたい。

 その善意は、背負った大型ザック一杯に詰まっている。

 地味に暮らせば半年は生きられるだろう。

 あの後。ほんの少しだけ瑠奈と語り合った。一緒に旅するかと、訊ねてみた。

 いつまで普通の暮らしができるかわからない。 けど、できる限りはこのままでいようと思う――瑠奈は、まっすぐな目をして言った。

 答えは、NOだった。

 血液検査だけは絶対に受けちゃダメだよと、当たり前のアドバイスしか、あたしにはできなかった。

 それから、彼女を寮に送っていった。途中で、大勢の娘や幾人かの先生に出迎えられた。あの落雷に似た音に、急ぎ飛び出してきたらしい。

 瑠奈のことは、貧血で学校林のなかに倒れていたことにした。

 あと、プールに雷落ちるのは確かに見た、まだ帯電しているかもしれないので近寄らないほうがいいだろうと、瑠奈が上手にごまかした。

 で。あたしは、寮の学生たちから色んな不用品を大量に貰ったのだった。

 瑠奈を見つけたお礼じゃなくて、もともと、プレゼントしてくれる予定だったらしい――体のいい、ゴミ回収のような気もしないこともない。

 カンパまでしてもらった、二万と二百五十円。

 ほとんど小銭で、かなり重い。

 でも、文句なんか言わないさ。

 その重さが好意なのだ。

 なにより、とりあえずしばらくは服に困らないのが幸せ。

 東児は、まあ。あのまま誰にも見つからなければ、朝には復活するだろう。

 せいぜい、上手に警察から逃げて。

 遠くから祈ってあげる。

「ほれほれ、がんばれー」と。



 意気揚々と、あたしは夜の街を歩いていた。

 ベッドタウンだからか、繁華街の灯りもほとんど消えている。

 ぽつぽつ残った街灯が、少し物悲しい。

 もう午前零時くらいか。河原に戻って一眠りしたのが失敗だったな、まだ終電に間に合うのかな……

 駅の灯りが、今、消えた。


「あちゃー」


 しょうがない。駅前広場があったから、そこのベンチの下ででも、寝ようか。

 だが、駅前広場には先客がいた。

 三人の少年がスケボーで遊んでいる。

 しょうがない、別を探そうかと周囲を見回した時、彼らが声をかけてきた。


「よ、そこの彼女。遊んでかないかっ?」


 誰も彼も、おんなじようなストリートファッションで。大差ない茶髪で。薄暗い街頭のせいもあって、あたしには区別がつかない。


「缶ジュースくらいなら、奢るよー」


 そんなに安かないぞ。あたし。


「仲間になってくれるならね」

「なんだよ、それ」


 だいたい、こいつらはろくにこっちを見ない。

 ただ、がぁがぁとローラーがうるさいスケボーばかりに目をやってる。

 あたしは、見る奴がいないのに目一杯の笑顔を作った。


「人間辞められるか、ってこと」


 一斉に、彼らが振り返る。


『げー。電波かお前ーっ』


 げんなりしたような表情が三つ、まるでコピーしたように並んでいた。

 あたしは彼らに背を向けた。


「似たよーなもんよ。あたしにゃ関わらないほーが、吉っ」

「とっとと消えちまえー」


 怒声なんだか罵声なんだか。

 彼らはただ、あたしをからかってみただけなのだろう。

 ローラーの転がる騒音を背中に聞き、あたしはその場を去ったのだった。

 高笑いしながら。

 見上げた空に瞬く星たち。今は、嘲笑っているようには見えなかった。

 単純に、すがすがしい星空だ。

 明日はいい天気になって、きっと暑くなる。


「もう夏だなあ。夏らしいとこ、行きたいな……」

(短絡思考だな。馬鹿丸だし)

「うるさいっ」


 ――さてと。どこに行こうか。



 了(2016年2月29日)

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