第2話

 …るる……るるるぴるる……


 なにか、鳴ってる。


 …………ぴるるる……ぴるるる……


 目覚ましとは、とっくに縁がない生活のはずなんだけど。


 ぴるるる・ぴるるる・ぴるるる・ぴるるる


「――なんなのよ、ったく」


 尻がなんか、ぷるぷるしている。音も、そこからだ。


 ――思い出した。携帯、拾ったんだ。

 狭くてどぶ臭い河原、鉄橋の下。

 工事現場からくすねてきたブルーシートが仮の宿。

 もそもそとブルーシートから這い出つつ尻ポケットから携帯を取り出そうとしたが、出てこない。

 引っかかってる。無理に引っ張りだしたら、なにかが落ちたような気がしたが、頭上をがたこんと電車が行き過ぎているからただの勘違いかも。

 電車の通過を待つ間にひとつ大あくびを済ませ、あたしは通話ボタンを押した。


『あの、もしもし』


 誰だ、この女?


「はいーもしもしーどなたさんですかー」寝起きなのだ、不愉快な声はご勘弁。

白木しらき瑠奈るなと申します――昨夜の人ですか?』


 昨夜――そっか。あの娘か――いきなり脳が覚醒した。

 まさかとは思うけど、昨日の今日。

 蟲に感染していても、自覚しているわけはない。でも、それとなく聞いてみよう。


「はいはい、そうだけど。どしたの? なんかした? 体が、妙だとか?」

『いえ、別に体は。あなたこそ、大丈夫ですか?』


 逆に心配された。当然か。こっちは、一見重症だったはずだし。


「おかげさまで、回復しましたー」

『よかった。でも、一応お医者様に――』

「わかってますって。で、なんの用?」

『あの――その携帯なんですが、できたら返して欲しいのですけど』


 ――あ。「そうそう、こっちもそうしようと思ってたの」

 大嘘。適当に使い倒して捨てる気満々だった。つい今まで。


『どうしましょうか。場所を教えてもらえたら、取りに伺いますよ』

「いや、いいよ。そっちが場所指定して。あたし、暇人だから」

『そうですか。じゃあ、お言葉に甘えます。放課後、四時ごろ。星領女学園の正門前でお会いできますか? 昨日の公園の近所です』


 せいりょうじょがくえん。たいそうな名前。

 公園の近所って言っても、色々あるだろうけれど、そこらで誰かに聞けばわかりそうだ。

 学校か……少し、興味がわいた。

 携帯、返しに行くか。見学ついでに。


「オッケーっす。じゃ、またー」

『じゃあ、後で。失礼します』


 急ぐように電話が切れた。

 あたしは、すっかり自分の体温が馴染んだ携帯を覗き込んだ。

 液晶モニタに、8:12の表示。


「そっか。学校ね」


 学生暮らしとはとっくに縁切ったから、忘れていた。

 携帯握り締めたまま、うん、とひとつ伸びをして立ち上がる。

 また、頭上をがたこんがたこんと列車が行き過ぎる――満員御礼だろうな。


「よくもまあ、飽きないことで」

(同意する。人間は、自虐性が高いな)


 そういうわけでもない。ただ、日常から抜け出るのが怖いだけ――あたしも、昔はそうだった。一度抜けると、気楽でしょうがないけど。


「その学校。さっそく探してみるか」


 タンクトップにショートパンツじゃ不似合いそうな響きの学校。

 服は失敬してきたものだから文句も言えないか……

 ぐぅぅ、と腹が鳴いた。


「その前に、腹ごしらえだ」


 にしても。まさかコインランドリーで財布まで拾えるとは思わなかった。

 免許もクレジットカードも入ってなかった。

 よって、届ける必要もないのだ。

 たかが三千円。きっと持ち主は困らない。

 されど三千円。あたしは一週間ぐらい暮らせる。ありがたいね!


「へーっ」


 降り注ぐ蝉時雨、濃い木々の匂い。

 煉瓦の門柱なんて、久しぶりに見た。塀も煉瓦だ。

 開かれた鉄格子の門の向こうには緑が多い。

 いかにもお嬢様学校な気配に満ちている。

 門柱にリベットで留められた、少し青くさびた青銅製だろうプレートには『私立星領女学園』の文字。

 目的の学校は、簡単に見つかった。朝飯食べたバーガーショップの店員が知っていたから。

 公園の近所もなにも。目と鼻の先、道路を挟んで真正面に学校はあった。

 なんで気づかなかったのか……半ば、森みたいだからかな。

 校舎が消灯されていたら、その一帯はたぶん闇そのものだろう。

 携帯の画面で時刻を確認。

 9:18――いくらなんでも、四時まで待つのは阿呆らしい。

 飯食ってトイレいって顔を洗って(全部朝飯と一緒に済ませた)、新聞読んで潰した時間が三十分。もっとのんびりしてくればよかった。

 とりあえず、街でもふらつくか。

 昨日来たばかりで、どこになにがあるのかさっぱりだし――

 と、見回したら不意に児童公園が目に入った。手当てしてもらったベンチも……

 ちょっと待て。

 まだそこに倒れていたの、東児?

「人情薄い時代ねぇ」苦笑いで呟いた。

 でも、あたしに介抱してやるような義理はない。

 奴のことだから、寝こけているだけの可能性も高い。

 見なかったことにして、とっとと立ち去るのが一番と、昨夜からぶっ倒れたままの推定半死人に背を向けた。


「どこに、行こうかな」


 図書館でもあれば、涼しく昼寝でも――


「緋ぃぃぃ夕ぅぅぅううっ」


 都合というものは。案外意地悪なものらしい。

 ちらりと肩越しに振り返る。復活したか。鬱陶しいな。

 勢いよく立ち上がった東児が駆け出した。

 車道を挟んで五十メートルも距離がない。

 上半身裸、いつにもまして筋骨隆々。気持ち悪ぃ。


「やっばー」尻ポケットを探る。ない。

 ライターが、ない……朝、携帯を出す際に落ちたのって、ライターだったのかっ。

 まずいな。火種がないと、あたしの『燃える息』は無意味。


(どうするね。逃げるか?)

「そりゃそう――」言いかけて、息を飲んだ。


 都合というものは、時として本当に都合がいいらしい。

 きぎぃっと派手なブレーキ音。ぐしゃりと愉快に痛そうな音。

 わき目も振らず車道に飛び出した東児が、大型トラックに撥ねられた。宙でくるくる回って頭からアスファルトへ、ぐちゃり。

 見る間に広がる鮮血の海。

 トラックはそのまま走り去った。

 非道だね……世も末だよ、まったく。

 あたしは口笛ひとつ吹いて、気分よく歩き出した。


(さすがに。薄情だと思えるが)

(あの程度じゃ、死なないでしょ? せいぜい救急車の人たちが驚くだけでさ)


 誰かが119番してくれたらの話だけど、ね。

 朝だというのに、この通りは行き交う車がほとんどない。

 ベッドタウンということか。ただひたすらに、蝉がやかましいだけだ。

 仕事がある人は、皆などこかへお出かけしているのだろう。

 学生さんは校舎のなか。主婦はたぶん家事そっちのけでワイドショーに夢中だろね。

 つまり、運が悪い東児はしばらくそのままってこと。

 蟲の治癒力で、そのうち勝手に復活する――好都合。

 ってか、そうじゃないと困る。

 東児が病院に担ぎ込まれると、厄介なことになりかねない。

 彼も、蟲を飼っているから。一部の医者には格好の実験体なんだから。


「またね、東児」


 背中越しに一声残してあたしは立ち去った。



 だいたい、街のことはわかった。

 推測通りのベッドタウンだ。

 昨日の夕方、駅に降り立った時に感じたにぎやかさは、昼にはなかった。

 駅前は静かなもので、逃げ込んだデパートと、飛び移り損ねた学習塾が目立つだけだった。

 あとは、ありふれた商店街といくつかのマンション、それからお世話になったコインランドリー。ライター拾うにはもってこいの、どこにでもあるパチンコ屋。

 今日も、半分以上ガスが残っているのをゲットしてきた。また落とすと困るから、念のため三つ。

 もっとも、よく失くすから昨日も一個しか手持ちがなかったのだけど。

 だから、三つのうちで一番小さいのを、落とさないように胸の谷間に挟んでおいた。

 いや、ブラに挟んで、というほうが正しいか。

 ……あたしの谷間、あんまりないから。

 しかし――この連中は、失くし物なんてしないんだろうな。

 星領女学園の門柱によりかかって、頭をかいた。

 下校の生徒が、どれもこれも個性のない清楚さで少々居心地が悪い。

 上下真っ白という制服も清潔過ぎて気持ち悪い。

 瑠奈とかいうあの娘の昨夜の格好も、制服だったのだ。

 じゃ、こいつら皆な塾にいくわけね。勉強熱心なことで。


「長居する街じゃないやね、ここは」

 

夕方近くまで歩き回って、他に蟲の気配は感じなかった。

 あたしは全国をふらふらと旅しているだけれど、それは同類を探すため。

 

…………唯一見つけたのが東児とは。

 ………………やめちゃおうかな、旅。


 東児が倒れていた場所には、赤黒い染みが残っているだけだ。

 立ち去ったのか運び去られたのかは知らないが――どっちでもいいけど――

 ため息が漏れた。


「あの」

「なにさ」


 不愉快な声だと思う。事実、気分は最悪に近い。


「ご、ごめんなさいっ!!」


 いきなり謝られた。目を向けた先で黒髪が揺れる。シトラスが香った。


「あ、ごめん。昨日の彼女か」


 ひょこんと身を起こした彼女、まともに恐縮したような表情だった。


「やっぱりお呼び立てなんかしちゃいけませんでしたね。こちらから出向くべきでした」

「いや、それは別に構わないんだけど」


 暇だから、あたし。あんたみたいに勉学に勤しんでいるわけじゃない。


「はい、これ」さっそく携帯を差し出した。

「あ、ありがとうございますっ」


 またも彼女が腰を折る。

 まったく、いい教育受けているみたい――少々呆れた。

 ほんと、感染してなきゃいいのだけれど。

 この娘の無垢さでは耐えられないだろう。

 ……自分の心臓に、うねうね蠢く蟲を飼うのは。

 まだ感染していない可能性のほうが高いし、あまり関わらないほうがいいか。


「じゃあ。あたしは行くから」


 くるりを背を向けた。が、タンクトップの裾を掴まれた。


「お礼、させてください」

(どうする?)蟲に相談。

(好きにしろ)予想通りの答え。


 人の好意を蹴るものは。そのうち必ず損をする――身を持って覚えたことだ。


「じゃ、お言葉に甘えよっかな」


 ちょうど、お腹は減っていた。


    †


 軋み音の煩わしいブランコに腰掛け、私は情報を整理していた。

 白木瑠奈、十五歳。

 全寮制高等学校、星領女学園一年三組。

 成績はごく普通だと言っていたが謙遜だろう、おそらくは上位。

 自宅までは駅七つ。放課後は塾で過ごす。

 その塾も星領グループだそうだが、学園内ではなく駅前にある。

 わざと敷地を分けるのは、蟲である私にはあまりに非効率的に思えるが、それはお節介というものだ――

 私達はまだ、この街にいた。

 瑠奈に関する話は、五日前に洒落た喫茶店で本人から聞かされた。

 せいぜい三十分の短い語り合いだったが、全国を旅しているという緋夕に、瑠奈は興味を持ったらしい。

 緋夕もまた、己と真逆のタイプと話すのが楽しいらしく、あれから毎夕、瑠奈の塾までの時間を児童公園で共に過ごすのが日課となっている。

 おかげで、忘れかけていた曜日感覚をおかげで取り戻したそうだ。


(余計なお世話だっ)

(そう言うな。人として曜日くらいは把握していないとまずいだろう。で、今日は何曜日だ?)

(金曜日っ。馬鹿にするなっての)

(それすらも。つい先日まで理解していなかったな、緋夕。ぐうの音もでまい)

(…………………………ぐぅぐぅ)


 緋夕が寝た振りをした。まあ、いい。今日はそれが正しい。

 これから見極めなければならないのだ。瑠奈が、我らに感染したのかどうか。

 ――通常、我らは感染後五日以内に覚醒する。

 今日が、その期限。

 我が呼びかけに瑠奈の蟲が答えなければ、彼女は寄生の不適合者ということだ。それならそれで幸せなことに思う。

 瑠奈は私から見ても素直でよい娘だ。緋夕のように外道な生き方はできまい。

 それを緋夕もわかっている。だから私に見極めとその対処を頼んだのだ。

 仲間は欲しい。

 けれども、瑠奈にそれを望むのは厳しい現実。

 緋夕のような子供に理屈で理解しろと言うのは、酷であろう。


(……誰が子供だって?)


 この通り。自覚もなく主張するのは子供の証拠。


(そういうあんただって。生まれてまだ一年ちょっとじゃないの)

(時間は関係ないさ。少なくとも私には数多の子供がいる)

(変な理屈)


 それきり、緋夕が黙り込む。

 やはり複雑な心境のようだ――人に喩えるなら、手に取るように私にはわかる。

 私は宿主の脳にまで神経組織を伸ばしているから、極めて当然のことだが。

 だから。緋夕が『あんたに頼む』と言い出したことは理解できる。

 今日は。今日だけは、直接顔を合わせたくないということも。

 非感染であれば、万一に備えてもう会わないほうがいい。

 感染しているならば、うつした者として事情を説明しなくてはならない。

 私は、緋夕に代わって瑠奈を待っているのだ。

 先ほど、自販機で飲み物を二つ仕入れておいた。緋夕と違い、奢られるだけでは気が引ける――寄生生物のくせに妙な気遣いか。

 苦笑いというものをしてみた。表情筋を操るのには慣れがいる――と。

 嗅覚が特徴のある匂いを捕らえた。

 シトラスと緋夕が表現した、彼女の香り。

 匂いの元を辿って顔を向ける。推測通り、そこには瑠奈がいた。

「こんにちは」

 微笑み小さく会釈する瑠奈。

 彼女に不快を覚える人間など、そうはいないだろう。

 こんな娘の胸の奥に、私のようなものが蠢いているとは想像しがたい。


「こんちゃっ」


 ブランコから立ち上がりつつ、不本意ながら緋夕の口調を真似て返した。


「今日は、あたしが奢るよ。はいっ」


 わざと強く、缶を放って投げた。しかも取りにくい足元へ。

 速度・位置。並みの人間に反応できないはず。

 蟲によって、体が強化されていなければ――


「きゃっ」


 瑠奈の向こう脛に缶がヒットした。……悪いことをした。


「ごめんごめん、手元が狂ちゃって」


 先ほど練習した苦笑を浮かべ、缶を拾いに行く。

 脛を押さえてしゃがみ込んだ瑠奈の顔を覗き込む。


「……大丈夫? 痣にならなきゃいいけど」

「うん、平気だから。気にしないで」


 笑んではいるが、瑠奈の眉は寄っている。罪悪感が増した。

 この娘。やはり不適合者か。

 おそらくは、そうに違いない。それに越したことはない。

 蟲飼いになってしまえば平穏な日常など望めないからだ。

 見たところ、肉体の反応・痛さへの表情、どちらも瑠奈は普通の人間のそれだ。

 瑠奈は感染しなかった。そう判断してよいと思える。半ば安堵しながらも、一応は、と強い念を放ってみた。


(そこに。いるか否か?)


 びくりと大きく、瑠奈が身を震わせた――


「ご、ごめんなさい。ちょっと気分が悪いから、今日はこれで」

「あ……」


 いきなり瑠奈が駆け去った。私が伸ばした手は、空を掴んだ。


(続く)

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