蟲の心臓

藤原健市

第1話

「ひええっ」


 フェンスを乗り越えてはみたものの。

 下を見てしまったあたしの心臓は、きゅうと音を立てて縮こまった。

 背中のリュックは重いけど、向かいのビルまではたったの三メートル。

 跳べない距離じゃない。

 でも真下は真っ暗、路地に明かりなどひとつもない。

 吸い込まれるような黒が、横たわっている。

 まるで手招きされているようで――

 ここは、閉店後のデパートの屋上。

 ちょっと理由あって、ずーっと女子トイレに隠れていた。

 やり過ごせたと思っていたんだけど。


 甘かった――


 ビアガーデンでもやっていれば、誰かに助けを求める手もあったのに。

 これじゃそうもいかない。あるのは電源落ちたゲーム機くらいなもので、田舎デパート特有の子供騙しの屋上遊技場モドキはすっかり無人。


「どこに隠れてるんだっハニーっ!!」


 猫なで声なのか怒声なのか、どっちつかずな男の声。

 ――しつこいっ! ストーカーなんてあたしは嫌いだっ。

 逃げるには、居場所がばれないうちに向かいのビルへ飛び移るのが一番、と気合を入れてフェンスを乗り越えた。

 が。

 跳べませんって。

 頬の引きつりを感じる。恐怖というのに、人は素直なもんだねぇ。


「おーいっ。素直に出て来い――っ」


 出られませんってば。

 こめかみに青筋が立つのを感じる。

 生理的嫌悪にも、実に人は素直なもんだ。全く。


(どうする、緋夕ひゆう? 跳ぶなら跳ぶでさっさとして欲しい。先ほどから拍動が激しすぎて居心地が悪い。それとも私が代わろうか?)


 と。頭のなかで慣れ親しんだ声が響いた。

 声音が冷静すぎて腹が立つ。青筋がひとつ、増えた気が。

 他人事のように言うか? 宿主が死んだら、あんたも一蓮托生でしょうが。

 それに。あくまであたしが主だ、めったなことじゃ体の主導権を渡すもんか。

 結構、めったなことになっているような気がするけれど、あたしとしては無視したい。あたしの意識がある限りは。

「あ、あ、あ、あ、あんたねっ。あたしは、こ、これでも度胸あるんだっ」

 呂律が回らないとは我ながら情けない……と言っても、一歩間違えたらただの投身自殺になるんだから、いたいけな少女としてそれは正しいのだっ!

 うむうむ――とひとり変に納得している場合でもない。


「どこかなっどーこーかーなーっ」


 やばい。声が近い。楽しそうなのが気持ち悪いっ。


(捕まるぞ、このままだと)

「わ、わかってるってばっ」


 意を決して、あたしは跳んだ。

 一瞬見上げた真夏の夜空、スモッグ塗れの星が嘲るように瞬いた。

 目一杯、手を伸ばす。向こうの屋上、コンクリートのへりに指がかかれば――

 やっぱりそれも甘かった。

 あたしは、人一倍背が低い。背中のリュックはやっぱり重い。


「ひぃぃぃぃえぇぇぇぇ――――…………」


 絶叫をたなびかせて、やっぱりあたしは闇へと落ちた。


    †


 にしても、無茶をしたものだ。我が宿主ながら呆れる。

 私は、今しがた落下してきた先を見上げた。三十メートルはあるか。

 よくまあ、体がばらばらにならなかったものだ。

 いくら私が強化しているからといって、こうもぞんざいに体を使われては敵わない。

 縛っていた髪が解けたくらいなのだ、衝撃はかなりのものだった。

 しかしこの髪は邪魔くさい。

 どうしてこうも無駄に伸ばすのか。人間の女は謎だ。

 縛りなおすか――緋夕、ゴムの予備がないと言っていたな。鬱陶しいが我慢するしかない。

 ゴミ溜めに落ちたことが、不幸中の幸いだったようだ。

 ビニール袋の山が、クッションになった。ただ、不燃ゴミだったのは不幸だった。

 蛍光灯やビン、ガラスの破片で血塗れだ。

 もっとも、切り傷など放っておけばすぐさまふさがる。

 食い込んだ微細なガラス片も、ほとんどは子供達が体外へと押し出してくれる。


「ふぅ」


 とりあえずは無事だということだ。

 安堵して、失神した主に代わり体の破損状況を詳しく調べることにした。

 緋夕が空中で失神したことが幸いし、私が落下体制を整えたからこそ頭から落ちるのは免れた。

 腰から着地したのだが、厚めの尻が奏効して骨にはヒビひとつはいっていない。

 再生中の皮膚の引きつりを無視して手足を動かしてみる。

 動く。鈍痛も激痛もない。つまりは、筋肉、骨ともに全身無事。

 となると、長居は無用だ。

 先ほどの男――東児とうじ、といったな。あのストーカー――に見つかると、やっかいだ。

 また緋夕が動揺する。あまり激しく心臓に動かれるのが、私は好きじゃない。住処は落ちついた環境に限る。

 急ぐべしと、ゴミ溜めから身を引きずり出した。

 がらがらぎゃりぎゃりと、不燃ゴミがわめきたてる。

 ここに突っ込んだ際にリュックの底が破けたか、ごそりと中身が落ちた。

 それがまたガラクタと一緒にがらがらと鳴った。

 うるさいが、さすがにこれは仕方がない。とにかく今はこの場を離れねば。

 表通りの喧騒はそれなりに近い、誰かに目撃されなければよいのだが――


「誰か、いるの?」


 女性、いや少女か。東児ではないのは幸いだが……始末するか?


(駄目だってばっ! なにを無茶考えてるのさ!?)


 緋夕が目を覚ました。

 無茶か。苦笑したくなる。誰のせいだと思っている?

 私に任せておけばこんなことにはならなかったはずなのだが。


(いいから、さっさと体を返せ!)


 ならば、好きにしろ。私が好んで他人に関わる必要など、ない。


    †


「誰か、いる……の?」

 再び、暗がりの向こうからおっかなびっくりの声。

 そりゃそうだ。たぶん、派手な音を立てたと思う。

 ……ビルから落っこちりゃ――ねぇ?


「ごめんごめん。驚かせちゃった?」


 大通りを行き交う車のヘッドライトが、ちらちらと彼女の影を見せてくれる。

 背は、高いほうかな。もっとも、あたしに比べたら、同年代は皆な背が高い。

 ちょっと傷が引きつるけれど、もう難儀するほどでもない。

 あたしは、声のするほうへと足を向けた。

 と、通過した車のライトが、一瞬だけあたしを照らした。


「…………きゃっ」


 ん? なんで叫ぶの――――あ。血塗れか、あたし。


(阿呆かお前)

(うるさい黙れ蟲けら)


 脳内の突っ込みに釘を刺し、笑顔を作る。


「いや、見た目は凄いかもしれないけれど。平気だからっ」


 説得力はないだろう。でも、これしか言えないし、それに事実だし。


「平気だなんて、そんな。手当てしないと」


 小走りに向かってくる彼女。暗いから危ないって――予想通り、蹴っ躓いた。


「きゃあっ」


 慌ててあたしも駆け寄った。間一髪、彼女を抱きとめる。


「痛っ」


 あたしじゃない。あたしはもう、あまり痛くない。

 でも、右手首にガラスか何かの破片が刺さったままだったらしく、そこが疼いた。

 再出血したみたい。

 彼女に傷をつけ、さらに血もつけた――って。それは、まずいな。


「えっと。大丈夫?」

「あ。すみません、それからありがとうございます」


 ぱっと身を離した彼女が頭を下げた。

 暗くてよくは見えないけれども、ふわりと広がった長い髪からシトラスが香った。


「この路地を抜けてしばらく行ったところに公園があります。水道もあったはずだから、傷を洗わないと」


 腕をつかまれ、大通りとは逆の方向へと引っぱられた。強引なまでの好意を受けるのは久しぶりだけど、少々困りもする。


(まいったな)

(確かにな)


 この相槌には、同意するしかなかった。

 …………感染ってなきゃ、いいんだけど。


 あたし、こんなに流されやすい奴だったかな……

 人気のない児童公園、きこきこと泣く古いブランコ。

 その横の街灯の真下、ペンキのはげたベンチに座らされている。

 ぺしゃんこになった足元のリュックが情けなく見える。

 生活用品がぁ着替えもぉリュックももう使えそうもないしぃ。

 明日から、少々暮らしに困りそうだ。

 そんな失意のどん底のあたしに、優しい声。


「あんまり、傷がないんですね。出血のあとは凄いのに」


 濡らしたハンカチで、腕を拭いてくれている彼女。

 その左手に、真新しい細い傷があった。

 さっき、抱きとめた時につけてしまったものだろう。

 血がにじんでいる程度で、酷くはない。

 すまないなぁと思いつつ、彼女をよく見てみた。

 最初の印象通り、年は同じくらい。もっとも、育ちは段違いによさそう。

 雰囲気でわかる、絵に描いたような優等生だ。

 今時。なんの細工もないさらさら黒髪ロングに、いかにもな白いロングスカート。

 あげくに白のサマーセーター――あたしの血で汚れてる――だなんて、貴重すぎてありがたみもない。

 持っていたバッグも、麻か何かか、派手さはないが上品そのもの。

 おまけに美人とくれば、なおのこと。あたしとは、まるで別の人種だ。

 なにせあたしは小汚い。

 綺麗にしていたらそれなりに可愛いほうだけど、今は――。

 中途半端にブリーチした髪は伸ばし放題、邪魔だから縛るだけ。

 Tシャツ・ズボン・スニーカーと全部拾い物、おまけに今は血塗れ。

 下着はコインランドリーでゲットした――となど、彼女には言えないなぁ。

 あー、たまには風呂ぐらい入りたい。

 あたしは気ままな旅人……

 違うな、住み着いている場所がないだけの、放浪ホームレス。

 普通の生活してる人とは、やっぱり距離を感じる。


「もう大丈夫だからさ、ほんと。あんたみたいなお嬢さんは、早く家に帰らなきゃ」

「心配しなくても、大丈夫ですよ。寮の門限、塾通いの生徒は九時ですから」

「寮?」


 珍しい。同年代なら高校生のはず。


「ええ、寮です。私の学校、全寮制だから」


 それこそ珍しい。どこの令嬢だろ、この娘――つい、考え込んでしまった。

 手足を好きに拭われていたけども、それよりも。彼女の素性が気になった。

 育ちよさそうだから、家も良家かも……なお悪いよ。


「ガラス、刺さったままですけど――どうします?」


 言われて、触られている右腕を見た。手首のちょっと上、二センチくらいの破片が光っている。


「えーっと」―― なんて答えようか。

(医者に行くとでも言っておけ)


 内なるアドバイスに従うが正しいか、ここは。


「明日にでも、医者に行くから気にしないで」

「そうですね、下手に触るとまた出血しそう。絶対、お医者さんに行ってくださいね」


 声音に心配、目線に懇願。

 やっばいなあ、彼女、本気でいい人だ。

 万が一、適合者だったりしたら、どうしよう。


(心配しても仕方があるまい。いずれにしても様子見だ)

「まぁねぇ」

「どうか、したんですか?」


「いや、なんでも。ありがと、手当てしてくれて。それから、カーディガン汚しちゃってごめんね。弁償しようにもさあ、あたし、貧乏なんだわ。ほんと、ごめん」


 苦笑しながら頭を下げたら、髪がばさりと顔を覆った。

 髪がうざったい、切っちゃおうかなぁ、もお。


「セーターは替えが何着かありますから、気にしないで。それと。あの、よろしければ」


 彼女が差し出したのは、プラスチックの飾りがついたヘアゴムだった。


「あ。どもども」あ。つい、受けとってしまった。


(弁償もせずに物だけ貰うのか。図々しいにもほどがあるな)

(うっさい黙ってろ)

「いやぁ、助かるよ」


 頭を左に倒して髪をまとめる。くるくるとゴムでとめて、大雑把なサイドテール完成。ポニーテールは、清純すぎるイメージがあるから嫌いなの。


「じゃあ私、行きますから。本当に、病院に行ってくださいね?」


 髪を縛っている間に、彼女は立ち去ろうとしていた。ちらっと街灯脇の粗末な時計台を振り返る。なるほど、九時が近い。


「どもども。この恩、返せたら返すからっ」


 満面の笑みで手を振った。彼女は小さく会釈すると、小走りに去っていった。

「ほっ」ため息ひとつ。なんだろな、無垢な善意って、こんなに疲れるもんだったっけ?


(穢れてるからな、緋夕)

「やかましい」


 突っ込み返しつつ、右手首に残ったガラス片を無造作に引っこ抜いた。

 裂け目から血が飛沫き、白く細い無数の線虫が傷を埋める。血も止まる。

 傷跡さえも、残らない。

 この線虫の親玉が、あたしの心臓には住んでいる。

 脳に神経を直結しているとかで、見るもの聞くもの触るもの、全部を共にしている。

 おまけに。勝手に語りかけるわ、あたしが失神したら好きに体を動かすわで――

 助けられることも、多いけれど。

 そう。あたしは、胸で蟲を飼っている。

 蟲といっても、普通の虫じゃなくてサナダムシみたいな奴。

 全身に、こいつの子供がはびこっている。

 宿主を死なせないようにするため、だそう。

 おかげで普通の傷は一瞬で治る。

 骨折でも、一時間足らずで元通り。

 もうひとつ、便利な力も貰ったりしている。

 そんなあたしを殺すには。心臓を抉り出すか、首を切り離すか――

 ともかくあたしは、

 そして、この蟲は。

 血で感染するのだ。


「あの娘、感染ってなきゃいいけど」


 心配するだけ無駄かもしれない。

 これは蟲の話だけれど、蟲が寄生できる適合者ってそうそういないらしいから。

 彼女の去った方角へ、目を向けた。水飲み場――あそこで、ハンカチ濡らしてたな、あの娘。

「ん?」なにか、落ちてる。

 ハンカチをバッグから出した時に、なにかを落としていったのかな――ベンチから立ち上がり、拾いに行った。

 携帯電話。


「届けたほうがいいかな。でも面倒――」


 小首をかしげた時、蟲が告げた。


(来るぞ)


 蟲同士の交感――蟲同士は、念話もできる。

 有効距離はたったの十メートルほどだけれども、ずいぶんと助けられ、ずいぶんと酷い目にもあった。

 半径十メートルで、お互いの位置が手に取るようにわかるらしい。あくまで蟲には。


「ハァァニィィィっ!! 見つけたっ!」


 ……最悪。東児だ。

 声の来たほうに向き直った。

 巨漢丸坊主眉なし野郎が突進してくる。

 あれで十七歳ってんだから先が思いやられる。

 もちろん、あたしの好みとは正反対だ。

 ここなら、大丈夫か。デパートみたいに、困ったことにはならんだろ。砂場にブランコ、水飲み場。燃えそうな物はない。

 急いでズボンの尻ポケットに手を突っ込む。

 あった。お尻から落ちたはずだけど、どうやら無事らしい。

 取り出しましたるは、ライター。百円の奴。

 どこでも売ってる、ちょっと探せば案外どこにでも落ちてる、ありふれたものだ。

 ちゃりっと火をつけた。小さなともし火の向こう、迫りくる東児。あと二三歩、もう目の前――あたしは大きく息を吸った。

 抱きすくめられてあげる気なんかないっ!


「馬ー鹿っ!!」


 火のついたライターに唇を寄せて、ふうううっと強く息を吹いた。

 普通、ライターの火なんか吹き消されるけれども。

 消えるどころか、火吹き大道芸人よろしくライターから火柱が走った。

 轟炎が、阿呆東児の上半身を飲み込む。

 これが、蟲がくれた力。

 あたしの息は燃えるのだ。

 原理なんかしらない。便利だから、それでいい。

 蟲飼いの息には、そういった超常の力があるそうだ。

 人によって種類も違えば、弱いか強いかも違うそう。

 弱い息の力は常に無意識に働き、強い息は意識しなければ使えないらしい。

 どちらにしても、超能力みたいな怪しげな力だ。

 で、あたしの燃える息は強いほう。

 気合を入れなきゃ吐息は燃えない代わりに、直撃受けたら、ただじゃ済まない。

 証拠に、目の前でこんがり焦げた東児が手を伸ばした姿勢のままで地響きと共に地に転がった。Tシャツは完全に炭化している。

 こいつが坊主なのも、眉なしなのも。何度も燃やされて、どちらの毛も伸びる暇がないからなのだった。

 あたしと同じ蟲を体に飼っているから、東児はこれくらいじゃ死なないし、別に悪いとも可哀想とも思わない。

 しみじみ、こう思うだけ。


「ほんと、こりない奴っ」


 立ち去るに限る。

 拾った携帯をライターと一緒にポケットにねじ込んで、ねぐらを探すことにした。

 来たばかりの街だから、いい所が思いつかない。

 どこでもいいか、夏だから。


「でも、まずは。この血だらけビリビリの服をなんとかしなきゃ」


 コインランドリーか、とりあえず。

 なにかあるだろ、替えの服。


(続く)

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