外法領域 ‐薄暮冥冥‐
津島修嗣
薄暮冥冥
『黄昏色の道士』〈前〉
……しくじった。
でも、俺は一体どこでなにを間違えたというのだ?
男がそう思ったときには、すでに何もかもが手遅れだった。
もはや自分が死地に足を踏み入れたことは明白だった。歴青の沼のように黒く重たく、その運命は男の全てをどっぷり呑み込もうとしていた。
ちくしょう、ちくしょう。
己を含めたこの世の何もかもを呪いながら、男はひたすらに暗がりを駆けて行く。
俺がなにをしたというんだ、なんで俺だけがこんな目に。
そういう言葉が何度も口をついて出たが、考えずとも答えは分かっていた。残酷なほどに分かりきっていた。ただ、現状を認めて受け入れることなど到底できそうになかった。
男は心身ともに限界まで追い込まれ、逃げ道を完全に失っていた。いくら己の悲運や迂闊さを嘆こうと、死の足音は確実に速度を速めながら男を追い詰めていた。
そうだ、奴らはもうすぐそこまで迫っている。
魔物どもの気配をすぐ後ろに感じながら、男はなおも自問自答を繰り返していた。地下迷宮の暗く塞いだ景色の連なりは、人間の思考をも簡単に閉ざしてしまうのだ。
ああ、俺はどこから間違っていた?
……賭博と酒が原因の些細な借金が発端だった、かもしれない。少なくとも、最初の頃は。
そこから妖しい貸金業者に頼るようになり、借金に借金を重ね、つい出来心で組織の商品にまで手を出して、そしてそれがあっさりとバレてしまった。
最初の追っ手は何とか振り切ることが出来た。けれど黒幇の連中は、あの乱脈極まる地上の街で一片の容赦もなく男を探し上げ、とことんまで追い詰めた。彼らはどれだけ時間を経ようとも、蛇のような執念深さで、どこまでだって裏切り者を追い詰める連中だ。そんなことは充分に知っていたはずなのに。
そういうわけで、男は追い立てるものから追われるものへと真っ逆さまに転落していった。
地上の街よりはるかに入り組む迷宮街に命からがら逃げ込むと、男は高飛びの資金を確保するため、地下迷宮に潜ることを決めた。
迷宮内に限り、地上のヤクザは手を出せない。そういう協定を結んでいるからだ。勿論、一歩外にでれば話は違う。
ここまでで既に最低最悪のいきさつだ。
でも、もっと酷い偶然が男を待ち受けていた。あるいは必然だったのかもしれない。
それは、落盤事故と魔物の巣窟だった。
地下迷宮には〈イミューン〉と称される魔物が棲みつき、独自の生態系を築いている。イミューンはその呼称が示すとおり、迷宮に分け入る探索者たちを自らの領域を荒らす異物とみなし、排除殺滅にかかる迷宮生物だ。
男は手ごろな素材を求めて迷宮を彷徨うなかで落盤に巻き込まれ、迂回路を探し歩き回るうちに、運悪く凶暴な魔獣の縄張りに足を踏み入れてしまったのだ。
運の悪さと経験の浅さが招いた惨事だった。領域を汚された魔獣どもは怒り、男を追いかけ、そして追い詰めた。
結局、俺は狼どもに追われて惨めな死を迎えるんだ。地上で辿る筈だった運命は、地下に潜っても寸分違わなかったということか。
最後に残った男の良心を責め苛むのは、妻と娘への仕打ちだった。
せめて、もっと優しく扱っていれば。自分を繋ぎとめてくれる者の存在があればこうはならなかったかもしれない。しかし、今になって後悔してもすべては後の祭りだった。
くそ。もう走れそうにない。
それでも男は走って、走り続けて、半ば諦めながら曲がりくねった道を抜けていった。
第二階層というごく浅い領域にいるはずだが、一心不乱に逃げ回ったため、かなり奥へと迷い込んでしまった。電脳接続によるナビゲート・システムは最早役に立っていなかった。そもそも男が受けられるサービスの程度など、たかが知れていた。
男は息を切らし、ひどい絶望感を抱きながら、ひらけた玄室に辿り着いた。
……行き止まりだ。
終わりか。そう思った。
俺はここで生きながら魔獣に喰われて死ぬのだ。
しかし、そこには思いもよらぬ光景が待ち受けていた。
この世のものとは思えぬ美貌の女人がたった一人、そこに立っていた。
全身くまなく魂を蕩かすような幽艶な美しさだ。目にしただけで、胸の奥がほんのりと温まるような。
そして、彼女は一人ではなかった。その傍らには薄い翅を持つ異形の黒妖精がふわりと浮かんで漂っていた。
彼らの周りには奇怪な模様の魔法円が幾重にも浮かび上がり、それらの放つ青い燐光が玄室の輪郭をうっすらと照らし出している。迷宮魔術師の使う結界と似ているが、あちこちに符が浮かび、それが起点となって術が展開しているところをみると、どうやら
「な……なっ、あ、あんた! そんなところで何を!」
「なにって、決まってンだろ」
驚愕から間抜けな叫び声を上げる男に視線をむけると、女はニタリと微笑んだ。
得体の知れぬ笑みではあるが、これもひどく美しい。
「待っていたのさ、ここで。あんたをね」
「俺を、待って……?」
迷宮内の淀んだ空気を打ち消すように、甘やかな芳香が漂っている。桃の花のやさしい香りだ。
婀娜な笑み。闇の中にあっても浮かび上がるような、新雪の如くに白い淡肌。つやつやと輝く黄昏色の長い髪。鋭く整った輪郭に、妖しく括れた細い腰。
……本当にひどく美しい女だ。
だが、とりわけ印象的なのは、その双眸だった。
禍々しく渦を巻く淫蕩とした瞳。そこに宿る不可思議な引力は、老若男女問わず心を惹きつけ、奪い尽してしまうような罪深いものに思えた。しかしたとえそうであったとしても、何物にも代えがたい満月のような美貌であることに違いはなかった。
これは幻か何かだろうか。
だってこんなところで……迷宮の奥の地図もろくにない場所で、斯様な女がどうして自分を待つというのか。
それになんだ。風もないのに女の髪は舞い上がり、微風を帯びたように靡いているではないか。
この女は妖仙の類だろうか。そうでなければ迷宮に棲まうという悪魔族か。この上、自分は更に悪い目をみるというのか。
今にも取って食われるのではと慄き立ち竦む男のもとへ、奇妙ななりの黒妖精が飛んできた。ふわふわ宙を舞うたびに赤く輝く燐粉がこぼれ落ちている。
『安心しなよ! ボクら、オジサンを助けるためにここで待ち伏せしてたんだから』
「さあ、早くこっちに来な。すぐに追いつかれちまうよ……ほら、ねぇ?」
女がそれを言い終える前に、魔獣の群れが押し寄せてきた。
すべてが縄張りを荒らされたことに怒り、男を追いかけてきたものだった。
数が多い。最後に見たときよりも明らかに増えている。逃げる際の物音や魔獣間の呼ばわりに応えて集ってきたモノたちだろう。
闇に浮かび上がる無数の眼光は怒りと敵意、そして、捕食可能な肉を得た喜びに滾っている。男の姿だけではない。なにせ眼前には極上の肉が晒し出されているのだから。
「よくもまあ、ここまで呼び集めちまったもんだなァ。よっぽど深い業をお持ちのようだねェ、アンタ」
「ひい、う、うう……」
「ま、いいや。これくらいのほうが退屈しなくてすみそうだ」
ちら、と呆れ気味の視線を男に向けたが、女はすぐに眼前に群れ集う魔獣どもを睨めつけた。そこに恐れの色はない。むしろその目は嬉々として輝き、好戦的でざらついた光を帯びている。女は舌舐めずりさえして見せた。
それを眼にした男は、自らの肌が粟立つ気配を感じ取った。
『うわぁ、やる気満々って感じだね』
「どっちが? おれ? それとも奴らが?」
『両方じゃないの』
闇が赤黒く染まってゆく。
低級にして下劣な迷宮生物であるこの魔物は、いたるところに生息し、人を喰らう。
男女の区別なく――と言いたいところだが、実際は柔らかく捕食しやすい肉を好むため、女や子どもを選り好みする行動が多数報告されている。
一度人間を捕えると、獲物の味が損なわれぬよう絞め殺すことなく拘束し、骨肉を融かして味わい、血の一滴までをも残さず絞り取る。この触手獣こそ、もっとも多くの探索者を喰った魔物であろう。
狭い玄室は一瞬で彼らの狩場と化した。
「こ、こいつらをあんたがどうにかできるってのかよぉ!」
赤黒く照り映える触手の群れに包囲され、男はたまらず悲鳴をあげた。
女は一瞥もくれず、背後で暢気に漂うだけの妖精が代わりに答える。
『もちろんだよ。ねえ、トワイライト』
獰猛な目をした女が頷いた、その刹那。
食事を邪魔する闖入者、あるいは男よりも喰い甲斐のある餌とみなしたか。
男の脇をすり抜け、彼を庇うように立っていた女に向かって四方から赤黒い触手が殺到する。
粘液に濡れて蠢く肉の化け物。邪悪な異形の捕食器官。
しかし、女は初撃を避けようともせず、そのままあっけなく四肢を絡め取られた。
反応できなかったのか。でも、とてもそのようには見えなかった。
「お、おいっ!」
男は驚き叫んだが、八方から肢体を絡め取られた女は頭を垂れたまま微動だにしない。それどころか声すら上げなかった。その身体からは完全に力が抜けている。
さらに襲いくる触手が女の四肢を締め上げ、伸縮しながら深く絡みついていく。
首や顎にまで纏わりついた襞付きの突起が品定めをするように、にゅるにゅると蠢いて口内にまで侵入を開始する。
「ん、く」と湿った吐息が漏れ聞こえた。それでも獲物が明らかな反応を示さないのが不満であるのか、魔獣は何かしらの変化を引き出そうと猥らに蠢動している。
どうせ喰らうのなら、活きのいい餌でなければ。
低劣なはずの生物に備わる知性の存在を感じ取り、男は薄ら寒くなる。
……今度こそこれまでだ。そう覚悟した時だった。
不意に、くぐもった笑声が聞こえた。
目を開けて見やれば女が笑っていた。口内を侵されているというのに、くつくつと肩を揺らし、愉快そうに笑声を漏らしている。
いったい、なぜ。
しかしそいつが漸く顔を上げたとき、男ははたと気がついた。
眼前の存在が女ではなく、女と見紛うばかりの美貌をもった青年であることに。
……その眼を見て分かったのだ。絶美な容貌に似合わぬ、おどろおどろしい黒渦の双眸。
彼の眼に宿るのは野蛮で底なしの〈男〉の欲望そのものだった。
瞬間、青年は口内で蠢く触手を勢いよく噛みちぎり、ぶっと吐き出す。
きれいに歯型のついた赤黒い肉塊が、ばちばちと火花を上げながら床に転がった。
「ぐえ……うっげぇ、クッソ不味いったらない三流駄肉っ!」
内側から雷撃を浴びたように、肉片は焼け焦げていた。
ぺっ、ぺっ、と子どものような動作で青年は残りを吐き出している。はっきり言って、とても悠長な振る舞い方だ。
女の金切り声のような甲高い鳴き声を上げて触手獣がうねり、青年への拘束を緩めた。
隙を窺っていたのか、彼はそこへ力を込めて腕を割りいれ、半身の自由を取り戻す。
「テクは最低。しかもしゃぶれたモンじゃねえ。こりゃ女探索者には全く喜ばれそうにないね。それにおれのほうが一億万倍イイもん持ってるじゃナイ!」
『あーもう、いつも通りお下品だなぁ。本当に品性の欠片もないよねえ、トワイライトって。あ、むしろ品性って言葉の意味知ってる? 説明したげようか? 幽燐堂国語大辞典によると品性とは、』
「うっせ、バァカ! お前だって毎回悪趣味な
『いいの! 今日はこれがお気に入りなの!』
「いやあの、どうせならオマエもっと可愛いのを、少女趣味なの作ればいいだろうがよ。ほわほわ~っとしてて、こう砂糖菓子みたいな女の子っぽいやつをよ」
『そんなありふれたオモチャ作って何が楽しいの。あんまり俗っぽい価値基準でボクという人間を判断しないでくれる?』
「俗っぽいってなんだよ? どんなだよ?」
『勿論トワイみたいなひとのことだよ。キミ、迷宮で捕まえてきた触手獣をこっそり飼って普段から遊んでるって言ってたけど、ほんとみたいだね。友達いないの? 触手は人間と感情を共有してはくれないんだよ』
「けっ……研究だよ! 研究! 趣味と実益を兼ねてンだ! 実際恋人とかもめっちゃ悦ぶもんね!」
『ほら、俗だ。俗物のカタマリだ』
面白半分の悪罵の応酬。
黒妖精に喋りかける青年の口からは、仄かな燐光が覗いて見えた。
こいつは自分の体内、おそらく舌か、そうじゃなきゃもっと奥にまで符呪の文言を直接彫り込んでやがるんだ。
驚きながらも視線を向けたままでいると、美貌の青年は妖しげな笑みを返してきた。笑みというよりも歪み。底意地の悪く、それでいて謎めいた微笑み。
男は先ほどまでの恐怖とは違う種類の恐怖、もっと根源的な畏れを抱き、体の芯から震え上がった。
あの青年の眼。その双眸といったら。
男は渦のような眼を見た瞬間に悟ったのだ。
……こいつの方こそよっぽど〈異形〉である、と。
纏わりついていた触手魔獣が再び蠕動を始め、周囲の獣どもが唸りだす。
『Мっ気発揮してないで、いい加減動けば? 時間が足りなくなっちゃうよ』
「んじゃ、まァ……いっちょいきますかァ!」
声に呼応し、長衫の陰から無数の咒符が飛び出す。青年の動きに合わせ、空中で動きを止めたそれらは、翼のようにも見えた。
青年は肉の
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