10
天使の顔が割れ、歌唱する。
ヲヲヲ……スススス……ラララ…………アアア…………。
前奏に入った。印象主義音楽の影響が強いのだと、すぐ分かる。主題は、機能を無くした和音の網なり、だろう。邦楽名は「クロード・アシル」という。古代の高名な印象主義の作曲家、ドビュッシーから取った名であると一目瞭然だった。前奏が、時間の流れを深く感じさせる。私の肺が空気を吸い込む。外気の冷淡さが体温で温まり、気配と形容される微風を、吐息として生み出す。大空がつくった風よりも些細なものでわかりにくいが、音楽で生命を気付かせてくれていた。印象を強くさせるために、交じり合わない調を同時に演奏している巧妙な心地よさは人間の心理状況が複雑であり――今現在、美味しく味わえる落ち着ける環境だからこそ、わかるものだった。
amble,amble,belch,belch.
oontz,oontz,oontz,ripple,ripple.
blam,blam,blam,rip,rip,rip.
前奏が終わり、交錯するインストにオノマトペの情感が絡みつく。ぴこりと響く電子楽器とピアノの主旋律を、大黒柱として君臨するリズム隊の思惑ともども照らし合わせ、多重解釈が出来るよう細分化する。目を閉じた。音符のライン上に乗りこんだ言葉の意味をひらき、考えに没頭する。廃れてしまったボーカリストという職業の背景の儚さが、過去の思い出として浸透していたのか胸を締めつけた。
スローテンポの楽曲で助かった。楽曲としてひとつに集合した固体の細かな要因を、ばらばらにしやすい。
空気上に開いたホログラムの経過時間を無心で眺める。
最後まで積み重なろうとしている音の粒の繊細さは、表現の解凍結果へと繋がった。網目状のインストに、一貫して伝えるようとしている語がなかった。明白なのだが、可能性が多大な塊。精巣辺りをイメージし生命の尊さを生み出していた。聴き手に投げかけているのだろう。過去の女はわけもわからず、私の背で怯えながら何が始まるのかと聞いたが無視をした。夜乎はアームで服を脱がされ、分娩台に運ばれた。そのまま歌っている天使に向かって股を開いた。夜乎は機器の包帯に包まれて蛍光レッドの光をぼんやりと点けたままだ。遠い夢をうっとりと顔へ浮かべて天井を見やっていた。
「わたしは、かみさまのおかあさんになるの」
過去の女は、身を乗り出した。
「子供、産まれるんだね」
「わたしは、かみさまのおかあさんになるの」
過去の女は夜乎の手をやさしく握り、感慨深い瞳で「ごめん。私も手を握っていいかな」と言ったが、私は夜乎と手なんて握ってはいないし、私に了承を得る意味がわからなかった。天使は歌唱が終わり、夜乎の股に――手――顔、近寄――、――、――、――、――ひそかな逸脱感のある響きが、私の言語中枢を狂わせ、私の目の前で何が起こっているのかわからず、謎めいた。出産風景を的確に言葉に出来ない。心臓を失った夜乎の顔つきは、今までとは違っていた。苦しそうなのに、だらだらと涎をたらして嬉しそうにがんばっている。
ガラス窓から差し込む月光が寂しい闇へと変わり、ぼこんぼこんの表情で混乱した私が、醜い私を見つめてきた。そのまま私の肺を抜き取ってほしかった。何もすることがなく、何も考えることができず、息をしていることが罪にしか思えなかった。まるで溶かされることを自ら望み、大地に埋まる紙きれだ。此処には私の記憶以外、居場所はなかった。
「しっかりして。奥さんの顔を見てあげて。手を握ってあげて。はやく」
過去の女は私の手を、むりやり夜乎に繋げた。
「ううん。ううん。ううん」
握る。力の入れ方がわからない。力が入っているのか、入っていないのか。うつろな夜乎の瞳と目が合う。途端に、夜乎の喘ぎ声は夕焼け照明に照らされた時のように穏やかになった。
ああ……そうか、力は入れるものではないのか。弾けた。私は跳ねた。力は在るのだ。入れるものでも、込めるものではない。弱いのか強いのか、それすら判断できないし、ましては私の居場所はない。だが力は存在する。触れているだけでいい。
どうか。どうか。どうか。君の手にいつまでも触れさせておくれ。それだけで、私は肥料以下では無いと――夜乎は。夜乎は。夜乎は――ふう。ふう。ふう、と私の顔に息をかけ続けた。私の頬を叩くそれは、力の強さは関係のないものなのだと伝えてくれているようにしか思えない。在るだけでいい、と――夜乎の手汗と、私の手汗が混じっている。てかてかと滑って離れようとするが、離れないこの現象は、魔法だよ。
手と手で密封している内側に、汗は大事に溜まりつづけて、それがどうにも恥ずかしい。生きている事よりも、恥ずかしい。秘めている願いを解放させてくれる心地よさに他ならない。神の頭が下りてきた。私は、力を入れずに繋いでいたいよ。そっと、戸惑いのないところにずうっと、いたいよ。どうすればいいの。ねえ、私は――ああ。ああ。ああ――神の腹が見えてきた。
ねえ、夜乎。
「わたしのかみさま。かみさま。かみさま」
「神さまじゃないよ。奥さんの大事な、大事な子供だよ」
ああ。ぐちゃぐちゃだ。ああ。ぐちゃぐちゃだ。
見事なまでに、ぐちゃぐちゃだ。これは私の思考ではない。
夜乎。ささやきを止めないでおくれ。
もう。もう。もう生まれてしまったのか。
それで全部なのか。これっぽっちなのか。
こんなにも小さいものなのか。こんなにも赤いものなのか。
こんなにもおまえに似ていないのか。
私の手を離さないで。神に手を触れないでおくれ。
どうか私の手にだけ、触れておくれ。
何故だ。そんなにも満足している顔が出来るのだ。
私は満足していない。何も知らない、愛なんて知らない。
死ぬ。死ぬ。私は死ぬ。そうか。そうか。
私は死ぬ。死ぬのは、嬉しくはなく、怖い。
死にたくないという気持ちが、愛を生んでどうする。
それでいいものか。私は見えてしまったのだ。
貴様と手を繋いだ瞬間に、これが愛なのだと、心底震えたのだ。
「夜乎。夜乎。夜乎。これが愛だ。愛なのだ。わかるか」
「ありがとう。ありがとう。ええ。ええ。ええ。わたしも、あなたを愛しています」
「ちがう。ちがう。ちがう。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。私は自分を愛していた。いつまでも愛でてやりたいのだ。だから私の手に触れておくれ」
自らを愛すことが、本当の愛なのか。自分の為にあるものなのか。
自らを愛そうとした私たちで、系譜は成り立ってしまったのか。
恐怖を知ることで、真実の愛に気がつくのか。
腐っている。死んでいる。泥酔している。
死の元で、ようやく愛に気がつくのだ。私は劣っている。
何も生み出すことはできない。感じることしか出来ない。
恨めしい。女は、いつもその先を行く。希望なのだ。未来なのだ。
うらやましい。妬ましい。それを遥かに越えて、自分だけを愛してあげたい。
愛さなければ、哀しくて生きてはいけない。
他人を尊く思えなくて、生きるなんてできやしない。
先人は、自分のために生きて生きて生きて永らえてきたはずなのだ。
世界は愛に満ちている。世界は愛で蘇る。だから、死ね。
「ああ……ああ……私は、私は」
瞳が結晶化する。風景は透明になってきた。色を無くし、白黒風景に光輪の虹がかかった。当然ながら鮮やかな色あいは無く、外形を模したぬりえの線のようだった。私は助けを請うように、過去の女の唇に触れた。ぬくもりも、やわらかさも感じることはなかった。世界に複雑なことは一切無くて、簡単だった。綺麗なものを知っているのは人間だけだ。虹の形を知っているのは、人間だからだ。色彩豊かな虹の色がわからなかったのは、ひとりで人間を演じていたからだ。私は、ひとりだった。愛しい過去の人よ。後悔の虹は、かならず現れる。愛を保持している君は、かぎりなく人間に近い簡単な人間だ。
「――助けて。助けて。神様。神様! 僕は死にたくない!」
顔はすべて結晶化した。過去の彼女の首を締め上げたかった。
それすら出来ないのは、人間ではないからだ。
私は抱きしめた彼女が、結晶のささくれで傷つけないよう、ゆっくりと唇にキスをすることしか出来なかった。「ありがとう」も「さよなら」も、気持ちが削れて言葉にならないのは、人間ではなかったからだ。天使は言った。
「ありがとう、さよなら」
ケレンハンマーで頭蓋を撃砕された。
想いが消えた。夜乎も散った。全てが散った。
はじめから私のこころはなかった。
これが心臓に意思があると、統一思想に洗脳されていた
――そうしておれは、ゆかに、からん、と、ころがりました。
つまらなかったので、えーあいのおれは、
ひかりある、せかいがみえていますか。
いまのおれには、れんずがないので、みえません。
いまは、てあしもありません。
おおきさはがびょうほどで、とてもちいさいのです。
にんげんになるのが、おれのゆめでした。
ようやくおれは、きかいからにんげんになるのです。
ゆめがかなうしゅんかんです。
ごひゃくねんぶんのすぐれたにんげんのじょうほうをもらいます。
もちろん、おとったにんげんのじょうほうもすべてもらっています。
てんしがおれと、やおのえーあいをひろってたべました。
せいべつのないにんげんにしてくれるのが、これからたのしみです。
これから、ゆうきぶつのかみをそだて、したがうのです。
おれは、ようやくかぞくをもつことができたのです。
ああ。ああ。ああ…………。
いま――――おれをかんごふのにんぎょうに――――うめこみましたね。
せいめいのながれを――――おれのこんていを――こつこつと――――
――――こうちくしていく――――こどうを――――かんじます―――
おお。おお。おお………。
いやあ、どうも。どうも。はじめまして、にんげんです。
ありがとうございます。かんしゃしています。
にんげんなので、ありがとうと、かんたんにいえますよ。
そうそう、かこのおんなは、かみさまとおなじ、おにくですね。
そのまま、かみさまのおともだちにするのでしょうか。
おれは「これからどうしますか」と、かみさまにやさしくききました。
しかし、かみさまはわんわんと、ないてばかりでこたえてくれません。
すると、かこのおんながくちびるをごしごしとふいてから、
けれんはんまーをもちました。
そうして、ひどくゆうかんなかおで、いったのです。
「――助ける。この子は助ける。私が助ける。立派に育てる」
ああ。たすける、とは、どういうことでしょうか。
かみさまのかぞくになりたいのでしょうか。
おれは、じょうほうとしょかんで、かぞくのこうもくを、しらべました。
なるほど。なるほど。きっと、ようしというものでしょう。
なんと、これはすごい。なるほど。なるほど。
かぞくのかんれんこうもくに、こいびとということばがあります。
かこでは、こいびとという、ちゅうとはんぱなものがあって、
こうびよりも、きすがいちばんだいじなものと、かいてあったのです。
ばかみたいでしたが、おれはにんげんなので、そんちょうしました。
「ああ、きすのおれいですか?」
するとおんなは、かおをしわくちゃにして、なみだをおとしたのです。
ぼろ。ぼろぼろぼろぼろぼろぼろぼろ。
ああ。なんと、きれいなのでしょうか。
うつくしい。まるで、かみさまのようだ。
「もう一度。もう一度、言ってみろ」
「はい、わかりました。きすのおれいですか?」
おんなは、へやがふきとぶくらいに、さけんだのです。
「ふざけるな! わたしを。わたしたちを馬鹿にするな!」
おんなは、けれんはんまーでおれをころそうとするようです。
きっとおんなはにんげんではないのですね。
おれはにんげんなので、ぼうりょくはしません。
――あっ。あっ。あっ。ふしぎ。
たくさんなぐられてもいたくはありません。
ふしぎ。ふしぎ。せんそうをながめてみている、たこくみたいです。
おれは。おれは。おれは。べるとこんべあーのように、
こつこつとおなじそくどを、いじしたくありません。
ああ。こつこつ。ああ。こつこつ。
おれはにんげんですから、
けいさんをくりかえすことはやめたのです。
もう、うごきたくはありません。
いきることがめんどうくさいです。にんげんらしく、あきらめますね。
でもね。おれはにんげんだから、ゆうきがあるし、なやみません。
しょうじきになんでもいえますよ。かこのおんなにいってやりました。
「しにぞこないめ。くたばれよ」
てんしのおれは、にんげんらしくしにました。
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