9
ああ。ああ。ああ。
熱中と理解の狭間に、私はたゆたう。分娩室の明かりを点けたときの歓びは、さながら砂が吹き飛び、己の美しい顔が削れて悔やむ大地。引き潮でも最後まで無くならない、己の深さを溺愛し嘆く海。辛苦の空が、撫でるよう包み込み、和ませるが――辛く苦い、東雲は静止して、うたたねというものがひどく懐かしい。今の今まで浅い夢だったのだと、髄に埋まった確信と疑問は、景色をも侵食し――依然と刹那の部で懸命に価値観を見定めようとしている。これは風のような、あるいは病のようなものだと思う。胸を突き抜けて、形がみえなくて 、寒さに犯されてしまう。私は現実で自我を探し尽くすことに溺れているのだと。
――などと、醜い、辛い、といった言葉が、陳腐で、上澄みの透き通った言葉へと肥大し、変容していた。この世のすべては蛇足で出来ているのだ。ただ短に、言語書物が流失し、思考上で、語が裏と表とその隙間、さらには忘れ去られた屑かごの暗闇へ逃げたものを捕まえて言葉に変えただけ。きらりきらりと多彩にばら撒きながら、下品に舞っていると眺めただけである。つまるところ、私は何も変わっておらず、浅墓だ。
それと同等なのだ。神の大いなる思考に対して、遥かに狭く乏しい思考だろうが、私は幽かに広く感じる救済感覚に巻き込まれ逆行し、得る事のできた経験記憶が思考をさらに躍動させる。そうして、至ったもの。言葉の究極は、無言と思ってしまった。天使を淡々と修理する私は、意識化していない知の肉であり、つまらないことに変わりはない。感情をひた隠し、意味のみを伝達する行為の存在自体をひっくり返してしまうこの愚かな思考は巡りに巡って、更に私を悩ませて言葉を発するのは、無駄なのではないか、と――自身を貶してしまっている。しかし、「そういうものではない。ふざけるな」と、思考は無意識に、叫ぶ。
なおの、こそ――、こと。
すべてにおいて、私は疑っている。思い出し知り得た、可憐な語の“なおのこと”と、いう言葉の存在に対しても。
ああ。ああ。ああ。
つまり私は臆病となり、萎縮しているのだ。ただ喜んでいただけで、私は何も変わらず自問を繰り返す。これも先人の経験の影響なのだろうか。私は、暗く深い深海から浮上できるのだろうか。
そうした考えの元で、わけも分からない過去の女を尊重するために、私は黙っているのだろうか。彼女に何を言われてもわからないものだから、結局は否定をしてしまおうと身構えている。これを先ほど感じた喜びと言えるのだろうか。私は、すべての事象に対し、肯定をしたい。しかし、皮肉染みている自分の姿はどうだ。これはまるで否定を、まるまま人間に移し替えて創造しているようではないか。否定などしたくはないのに。価値を見出すこと自体、蛇足、なのだろうか。喜びが湧き上がっている私は、本当に喜んでいるのか。誰か、教えてくれ。
「――ねえ、何か手伝おうか?」
「――助けなど、必要ない。私は、人間だからな」
「人間だから、必要なんじゃないの」
「なんでもできるから、人間だろう」
「ふうん。なんでも出来るんだ。すごいね、人間だね。じゃあ、なんでも出来るのに、何で神さまを欲しがっているの?」
「……私ではなく、世界が必要だからだろう」
「世界って、なによ。人間はなんでも出来るのでしょう? だったら神さまなんていらないじゃない」
「……過去での神とは、一体なんだ?」
「それはきっと、ここでも同じだと思うよ」
「同じ……? なんでも出来るのが人間で……神の一歩手前の、限りなく神に近い存在だろう、人間は。まさか、過去では神はいない?」
「いるよ。きっと神さまはいる。でもきっと……神さまが必要だったから、あなたの子供が神さまになったんだよね」
「……」
「だから、私は悲しいの」
「なぜ?」
「神さまは沢山いたのに、ひとりぼっちになってしまったのでしょう?」
「…………」
「……ああ、ごめんなさい。私は、君と神さまの話はするつもりはないよ」
「なぜ?」
「私たちは子供なのよ? 大人は神さまの話でケンカをするの。私はあなたとケンカはしたくない。子供の可愛さに国境がないのと同じことにしたい」
「? 過去には、偉い神さまが沢山いたのだろう。高みを目指すために、先人はひとつにまとめたのだから」
「高みってなに? 神さまは沢山いるかもしれないけれど、子供にとって神さまは、ひとりしかいない」
「意味がわからない」
「そうだね。きっと意味がわからないと思う。その通りだよ。神さま、というか、もはやこれは夢みたいなものだよ。きちんと夢を誰かに祈ることができたら、子供にとって、神様は誰でもいいと思うの。お父さんでも、お母さんでも、兄弟でも。それが私たち日本人だもん」
「夢を祈れない子供は?」
彼女は一旦うつむいて、すぐに。
「ごめんなさい。私には、わからない」
「君の夢は、たしか」
「――私のことはいいから、早く天使さんを治そうね。人間さん」
「ひとつだけ教えてくれ。神は、まだ生まれていない。今、神さまは存在するのだろうか?」
「いないよ。だからよかったね、人間さん」
無表情だった彼女はそう言って、ちょうど二秒後に笑った。冷静な微笑みが、天使の首の配線しか見えない視野をこじ開けた。天敵に襲われた危機感に近いとでもいうのだろうか。まぶたを開かずにはいられず、視線を景色にそわせろといわんばかりだ。私は視神経の我儘に従うしかなかった。分娩室は照明を点けたから今は明るい。部屋が広がったと錯覚していたが、狭いままだった。真っ白な部屋に腹が立った。真実をぼやかせ、広く魅せているだけではないか。生命維持装置で眠る夜乎の腹がおおきく、胎動した。馬鹿な彼女は突っ立って――そのまま、夜乎に向かって呟いたのだ。「元気に産まれてきますように」と。
「なあ。それは、どこに祈っているのだ。神はいないはずなのだろう」
「……あなたの世界にはいなくて、私にはいるの。神さまが」
「神は、時間を越えてやってくるのか。身体は?」
「本当に、馬鹿。君は、神さまのお父さんだっけ」
「だから?」
「……もういいよ。人間さん」
彼女はそのまま黙り込み、夜乎の腹を容器越しから撫でて「女性のあなたも、あの人みたいになっちゃったの?」と口を尖らせた。そして私に、思い出したかのよう、凜と言った。
「ねえ人間さん。あなたの夢は、なに?」
「…………」
「私の夢は、お嫁さんになること。はっきりと言えるわ。あなたは?」
「夢、とは。自分が描く、目標でいいのか」
目標なんてないのだから、そんなことを言いたいのではない。彼女はきっと、目標は何だと、聞いてくるだろう。だから、死ぬことを目標とし、答えようとした。
「死ぬことは、目標じゃないわ」
彼女は私の思考を読めるのだろうか。それでも、私は……。
「死なない。人間さんは、絶対に死なない。信じない」
「私は――」
「人間さんは、誰かに感謝された方がいい。だから天使さんを早く治そう。私も手伝うから」
「何故、何もわからないのに、手伝おうとする?」
「私を助けてくれたでしょう。あとは、イライラするから。それだけ。たった、それだけ」
「――君は、私という、得体のわからないものに対して、何故、接触しようとするのだ」
「あなたは人間でしょう。私もだからよ。馬鹿」
人間、と言われて嬉しかったのだろうか。しかしその人間であるとするフィジカルは通らず、自然に口が動いた。それは「すまない」と言う、私の人格から推測された言葉ではなかった。私という人物の、人格の限界を超えたものだと確信した極み、美的感覚に溺れてしまった芸術家のような言葉とでもいうのだろうか。そういった陶酔に浸かったものを、私は口に出した。
「ごめんなさい。私には、わからない」
へんな言葉で、ただの謝罪だ。どう考えても私自身の言葉とは思えないのに口に出した瞬間、思考のシャッターは切れて、彼女の表情が焼きついた。この場を凌ぐだけの、ありふれた発言にしかとれない。彼女は埃をうざったいとするくらいの顔つきの、度合いの品格。嬉しいと誰にでも伝わる単純な喜びの表情になった。
「気にしちゃだめだよ、言ったでしょう。気持ちを支えているものは、形がなくて、くだらないものなのだから」
対話した結果の、喜びの
《――、――、――、――、――、――》
わかっているさ、つまらないやつだな。どうせ「彼女を殺せ」だろう。AIの言葉は地平線の絵のように、か細くなっている。深い谷底で、私が知る由もない距離から聞こえた気がした。
高嶺の花であるように。
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