4

 人間とはなんなのだろうかと、考えたことがなかった。


 世界はすでに夜乎やおと二人だけになっている。一年ほど前になるだろうか。AIの指示を元に交尾をして、もうすぐ子供が産まれる。僕と夜乎は、子供の脳の知恵と経験となって生き続ける肥料でしかない。もうすぐ夜乎は出産する。すなわちそれは、僕のおわりで人生のおわり。しかし、目の前の彼女は肥料ではない。えへへさんがお腹が空いたと言ったので、マイルームの勝手口正面の食堂に来ていた。


「イッツア、ネバー、エバー、ハッピー」

「……何それ」

「おまじないだよ?」


 僕たちは向かい合わせに席に座っていた。あらかた食べ物の作り方の説明は終わっていたので、彼女は食べたいものを卓上の画面パネルのペイントをご機嫌で描いていた。


「おまじない?」

「えへへ。私は今、人類が二人だけだなんて、これっぽっちも信じていないから」

「なんで?」

「ここは私たちが築いた“未来”でもあるんだから。未来なのに、未来がないわけがないよ」

「…………」

「この世は、愛と希望に満ちているからね。人類が滅亡するなんて、大人が黙っていないよ。――だから、ねえ知ってる?」


 まただ。「ねえ知ってる?」といった言葉。知っているわけがない。


「宇宙人が攻めてきて、私たちの世界が侵略されちゃう物語。人類は最恐最悪の危機に陥って、反撃をするのだけれど、宇宙人の暴力に勝てず、絶望するの」

「へえ」

「でもね、人類はどうにか頑張って勝利するの。人種とか国境とかなくなって、みんなで力を合わせて一つの敵という名の目標に向かって、世界を守ったの。どう? 最高の物語でしょう?」

「そう」

「人ってね。絶対に滅びないように出来ているんだよ? もし全人類が滅びるとわかったら、人類は協力して滅びないようにするもの。私の時代が、今そうなんだから」

「それよりさ。なにその、変な食べ物の情報は……」

「納豆定食」

「食べ物なんて、図形と色だけで判断して作ってくれるよ」


 つぶつぶしていた。茶色の糸を引いたつぶつぶと、器にのった白いつぶつぶ。もう一方の器には四角い白いものが浮いた茶色の液体。その茶色い液体も、なにやら網目? のように、つぶつぶしていた。よくわからない。

 僕は、AIが栄養管理をしてくれるとわかっているので幻として出してくれた画像を画面パネルに視覚上で重ねて、なぞるように図形を描いた。


「何それ。算数の円グラフじゃない。そんな食べ物があるの?」

「未来だからさ」

「はっ。私の時代の方が進んでいるわよ」


 アナログなシステムを導入している所がお気に入り。栄養管理表をデータとして送信しても良いが、僕はAIが書いてくれた画像を指でなぞって絵を描いて。その図形の形状や色情報を元に、料理を作ってくれる方が好み。自分の描いた物を食べられるという、なんという画期的なシステムなのだろうか。素晴らしい。


「原始的というか、面倒臭い機能ね」

「未来を馬鹿にしている?」

「私の時代だと食べ物の名前を言うと、ロボットさんがそれを無視するの。それで適当に何かを考えて作ってくれるのだけど。それで、まあいいか美味しいし。って、みんなでそれをネタに笑いしながら食べるの」

「嘘つけ。馬鹿にしているだろう」

「本当だから。むしろ心臓さんが過去を馬鹿にしているでしょう。この未来は何かおかしいよ」

「何が?」

「だってさ、貴方は心臓なんでしょう?」

「そうだよ」

「私は、私よ?」

「?」

「私は、その額のAIを持ってはいないし、自分の脳と話せないもの」

「だから?」

「私は、ひとりよ」

「寂しいね」

「うるさいなあ。ねえ。未来人はみんなそうなの?」

「そうだよ」


 えへへさんは、食堂の隅で窓から外の景色を見ている看護婦に目をやった。


「――気になっていたんだけど、あの看護婦さんがもう一人の残された人類なの?」

「あれは人じゃないよ。他律人形」

「ふうん、ロボットさん? だったんだ。後で挨拶をしなきゃね。とにかく、手伝ってもらうからね」

「何を」

「私は、私の時代に帰りたいの。だからタイムマシンを出してよ」

「そんなものないよ」

「なんで? 私の時代にあるんだから、あるでしょう」

「ないものはないよ」

「本当に?」

「うん」

「いやいや……あ、そういえば。私が未来に飛んだって事実があれば、私が未来に干渉する前に、時間警察が黙っていないよね?」

「……何それ?」

「まてよ……と、なると。この時代は、なんなの?」

「知らないよ」

「そもそも。五年後へ跳ぶように来たのよ?」

「知らないし……」

「いろいろおかしいわよ、この時代。まるで、石ころに話しかけるくらいに意味なんてない。どぶに投げ捨てられた人があなたみたいね」

「ひどい。……でも、なんで笑っているの?」


 えへへさんは、外では帰れないと泣いていた。それなのに、今は思い切り笑っている。今を、思い切り笑っている理由が、よくわからなかった。


「未来って、わくわくするじゃない。でも私は元の時代に帰るからね。未来なんだから、タイムマシンは必ずあるはず! だから、協力してもらうからね。って、ああ! なんで、円グラフで担々麺がでてくるのよ!」


 彼女は、机の底から飛び出すように出てきた飯を見て、騒いだ。そこには慎ましさなんてものはない。さっきまで泣いていたなんて嘘みたいだった。


「ん? ああ。これ、タンタンメンって言うんだ。知らなかった」

「うわ。私の、なにこれ。納豆じゃないわ。腐った味がする」

「腐った食べ物を食べたことがあるの? 過去の人間は汚いね。すごいなあ」


 彼女はむくれたが、何かに気がついたかのように、もはや見飽きた笑顔を浮かべた。わざわざ箸を置いて――、僕の顔をまじまじと見た。そうして、胸に手を当ててから僕の頭を撫でた。


「私、わかったよ。心臓さんが口を聞けるようになった理由!」

「へ……?」

「きっと、沢山の人と話すと楽しいからだよ」

「意味がわからない」

「ひとりでいると、ね。かなしいもの。話せる相手が沢山いると楽しいでしょう」

「楽しい……?」


 謎、疑問。心臓である自分の、存在理由。行動決定権を行使し、適切な行動を取る為に、心臓である僕は存在をしている。当たり前の事だが、そんなことは考えた事がなかった。


「うん、楽しいよ? 見てて?」


 彼女は椅子から悠々と立ち上がり、窓から地平線の絵を眺めている他律人形。看護婦へ向かった。鼻唄が気持ちよく食堂の壁に反響する。一面真っ白の部屋は彼女の軽快な足音をカツカツと楽しそうに奏でた。


「こんにちは! ナースさん。あなたのお名前は?」


 看護婦はぎょろりと遠目の僕と目を合わせた。えへへさんは笑顔のままで、無機質な表情を変えてくれてないかとひらひらと手を振った。


「あっ。自己紹介は普通、自分からよね。私の名前は――」


 看護婦の耳に届いてはいない。僕と目を合わせて、何かの計算をしていると思った。ごきりと首を鳴らし、髪が靡いた。


 どす。


 僕の鼓膜を微かに揺らした低音は、皮から臓器が飛び出した時の音よりも重く、比べたくは無いほど汚く醜い音色だった。僕たち三人と唯一共通しているはずである時間感覚は停止する。脳もAIも命令などはしていないのに、僕はふたりの姿を焼き付ける行動にうつっていた。感心がないのに馬鹿を見るみたいに、釘付けにされている。ぴいんと空気は張り、その場の空気に身を託すのか。思考は澄んでいる。

 何故、彼女の哀れな姿を焼き付けようとしているのだろうか。様々な疑問が混じりひとつに連なって浮かんだすえの、という言葉がはなはだしく胸を〆る。


「――……」


 看護婦は、統一意志からそのまま行動しただけ。AIと同じく「殺せ」と指示されただけ。えへへさんは腹を殴られ、をクズ肉としたように、倒れた。


 ぼき。ぐちゃり。しとしと。ぬたり。


 これからやってくるであろう、未来の音が想像できた。ただ、それだけであるはずなのに、全身の力はすっぽ抜けた。あの時のえへへさんと同じように、膝は情けなく折れる。寒くもないのに身体は奥歯と共にがたがたと震えて、顔面だけぬるま湯に浸り、痺れた。それでも瞳だけは、地平線の絵を絞って見つめた時のように熱くて、儚く感じた。頬を伝った涙の存在理由はわからないが、脳が教えてくれた。、と。心臓の神経球の瞬きが全ての内臓を通り抜け、ぶるりと皮一枚を震慄させ、停止時間を弛ませた。看護婦は軽々と椅子を持ち上げて、気絶しかけた彼女の脳天へと振り落とす。途切れ途切れ、虹を見たときと同様の悲しみの感情が、神経球の奥底でばらけた信号として一つに集まり大きくなる。これは拳を作ってくれて、奥歯の震えを噛み殺すことが出来た。


 しんみり。


 まるで倒れた彼女の顔色はその一色だった。僕は弱く、情けない。

 可愛らしい頬が触れている床は冷たいことで余計に切なくなる。ありありと感覚の度は超えて、ぶちりとはち切れた。AIが、僕が弱いと思わないように気を利かせて、えへへさんを殴れ、殺せと言う。かさねて、脳は看護婦を殴れと言う。


 うるさい。黙れ。


 言葉にはならぬ啖呵を切り、彼女を守るために恐怖に浸っている身体を必死に動かした。憐れな姿に、看護婦は顔面を縦に割り、声帯スピーカーを響かせた。


「まあ、いいか。きせきはおもく、こどもはいいこ」


 前句は無機質な音声で、後句は肉声――、生体になりきった音声だった。打撃音は真っ白な食堂に響き渡らず、厚くこもったものだった。僕の背中に激痛が走る。不思議な僕は、嬉しくて泣いた。脳は遠目から静かに見つめて、これが勇気と教えてくれたが、絶対に違う。


「ただの悲しみだ」


 すでに涙は冷えていた。椅子の足が曲がり、投げ捨てた横暴な音は、彼女の心を殴りつけたように聞こえた。おぼろな瞳からの配慮の視線が痛い。彼女は腹部の痛みを、薄ら笑いを浮かべて隠したのだ。


「優しい、ね」


 僕の口は、辛く動いた。


「――ごめん、なさい」


 何故泣いているのか、何故嬉しいのか、何故謝ったのかわからない。――彼女は、不意に出た謝罪の言葉を聞いた途端にすすり泣いて、僕の頭を撫でようと手を伸ばすが払った。絶対に違う、間違っている。僕は撫でられるべきではない。ほがらかに強い、かといってかすかでない。密度は高いのに、中途半端に彼女を抱きしめて失笑すらできない。彼女の涙を拭いた時と同じものが内から溢れていた。さらりとした肌から、温もりと彼女の甘ったるい髪の香りが鼻をかする。僕は欠陥人間なのだろうか。自身の噛み殺したはずの奥歯の軋みは生き返るが、するどさは感じず、ほんのりとやわらかい。まざまざと彼女の頭を撫でた。「えへへ」と、彼女は尊く笑う。抱きしめているはずなのに、こすれ合う肌は、温かいはずなのに、身体は震え続けて、ありえない。僕は強いはずなんだ。自分が弱いと、なぜ錯覚してしまったのだろうか。


 すぱん。


 厚いガラス窓から羽ばたく子供の“天敵”が、べちゃりと窓に張り付いて垂れた。張りついた“天敵”は痙攣し息つく間もなく、はち切れた。


「……」


 マグネ銃で終わらせたの仕事は、筆舌に尽くし難いものだった。振動子に無理やりエネルギーを与え、内臓は気持ち良く膨張し、破裂した。音を楽しむどころではないし、今は嬉しいものではない。タンパク質の羽毛が大げさに舞い、劣勢情報浸透質に変わった。きらきらと輝き、不規則に落ち続ける。羽毛が変容した瞬間を図ったように破壊された胴体も質が変わり、ガラス窓と同化して見えた。


「……」


 看護婦は何もなかったかのように窓から外へ出て――劣勢情報浸透質の羽毛をむさぼりはじめた。穴の空いた顔面から、結晶を四つん這いで吸い込む姿の様式美は、今の今まで無駄がないと惚れ惚れしていたが。


「くだらない」


 抱きしめていた彼女は気絶して、看護婦に殴られた背中がじんじんと痺れた。脳は、今の気持ちになるとわかっていたのだろうか。空っぽで虚しいが、ものの全てが引き裂かれた想いだ。美しい瞳が見たいのに、今すぐにでも、明るい声が聞きたいのに、空っぽで在るとしていたどこかの隙間の全てから、めらめらと燃え始めた。どうすればいいかわからない。ぼつり、ぼつりと血が巡る律動が、真っ白な空を狭いと言われた時のように、宇宙は広いと言われてしまった時のように、悲しみは裏返った。


 額のAIは、僕と脳に向かって「やめろ。やめろ。やめろ」、僕らは笑って「嫌だ」と言った。


 先人のを行使する。脳は、それにアイという語を紐つけた。その意味を理解はせずに、許容した。これは死ぬ前に、理解できる本当のアイではない。身体は結晶にはならない。優勢情報浸透質にならないと、脳は安心を与えてくれた。

 情報図書館から一冊の本のページが一枚だけ破かれ、宙を舞い、すぱんと弾けた。“思い出し”の快感が背中の痛みを飛ばし、紙は砕け散り機械語に変容した。情報が、私たち三人の意識に沁みて流れて共有された。亡くなった人類たちの肥料、血と汗の結晶。“思い出し”の、何とも言えない快感は純粋だった。積年の素晴らしい経験がAIを通して濃縮し、脳溝の一次運動野に刻まれ、ふたたび、それは宿った。


 勇気と言ったか。かさぶたを剥いだみたいに悲しみの表面は消えて、それは露わとなる。二層目は劣情だろう。僕は僕がそうしたいから、ただそうする。秩序という鎖はすでに無い。だからこれは勇気ではなく暴力で、心臓である僕の、誰にも支配されてはいない不自由な我儘だ。

 えへへさんを冷たい床に置いたが、夜明けの気配のような高揚だった。攻撃思考の初動からの答えはひとつ。不器用にむさぼっている者を破壊する。


「――」


 開けた窓から下半身のバネを使い、跳んだ。天敵を駆除するためだけに、AIは僕に経験の欠片を浸透させていた。言われるがまま、土台となる全身の筋肉を幼い頃から柔らかくしていた。この世の生に、死が不要なモノに対して大事な技を扱うが、心臓の僕はすでに空っぽだ。後悔はしない。


「僕の身体よ。殺ろうか」


 外は快晴、相手の姿は土下座そのものだった。筋を絞り、捻る。足元の芝が一生伸びないくらいに大地を踏みしめて、羽毛の結晶にむさぼる顔面を真正面から潰した。首は、灰色のコードで繋がっていたが、空手の回し蹴りの一撃で容易に断たれ、充分なほど宙に舞った。看護婦のキャップは凹み、踏み込んだ芝は捩じ切れ、風に煽られた。三日月のように砕けた眼球と目が合うが、機質造形の顔面は飛ばされた事態を処理しきれてはいないし、悲痛の絶叫は無かった。一興だ、と、脳は言った。


 血管がはち切れるほどの熱量に蝕まれた身体の満足感に浸ることは出来た。血の匂わない首なし胴体は立ち上がり、ぎちぎちとこちらへ指を刺し、停止した。


「まあ、いいか。――軌跡は重く、子供は良い子」


 しとり。声と共に満足感を消し去った唇の湿り気――これが頬に伝わったのは、さらに後のことで――交尾相手の夜乎が背後から僕を抱きしめて、ノイズ声の破壊された看護婦を代弁した。妊娠している彼女はいつものように無表情で台詞を吐いているだけなのに、足裏をいとしく舐められたように思えて、と感じた。


 脳の幻は見えないが、看護婦を壊した僕を慰めていることだろう。


 人が良いのだから。

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