5

 今宵は十五夜。満月の照明が厚い窓からみえて、真っ白な分娩室を黄色くした。えへへさんの入っている女性用生体維持装置の水は、いつまでも暗い青色だった。

 絵に描いたような涙の色に浸かっているようで胸を痛くするが、容器の鏡面反射が穏やかな月色にかさねて魅せてくれていたのが救いだった。「…………」眠りの妨げにならないように天井の灯りを消して――沈んでいる裸の彼女、えへへさんをうつろに眺めていた。


『未来なのに、未来がないの?』


 彼女の言葉が胸に引っ掛かって、辛い。この気持ちは一体なんなのかと聞きたかったが、AIと脳の幻影は昼間の事象から姿が見えない。生命維持装置の容器に手を触れたがガラスは厚く、中身の温もりは感じない。反射光に映った食事中の夜乎と目が合った。わざわざ分娩室まで食事プレートを運んで、いつも通り僕の側にいる。溜め息で容器を白くして、うさぎを描いて遊んでみるが、白い靄は月明かりを反射せず、黄色にはならなかった。


「月に、うさぎがいるんだ」

「――うさぎって?」


 夜乎は食事プレートに先割れスプーンを置いて、僕の背中に言った。


「昔、夜乎が飼っていたイヌがいたでしょう?」


 僕が振り向いた時、彼女の視線は下、だった。


「R18?」


 知っているはずなのに、名前を改めて僕に聞いた彼女の表情はそっけなくて仮面のようだった。


「そう、R18。うさぎって言うのは、R18と同じ陰毛のような毛むくじゃらの生き物だよ」

「ふうん、どうでもいいわ。思い出したくない」


 夜乎はうつむいてプレートをじっと見つめた。沈黙。昼間、頬に唇をつけられた事が何と言うか、難しくて、ついつい後ろを向いた。

 生体維持装置の反射が鏡越しとなって見えた夜乎の表情は、淡い黄色に包まれてはいたが、容器の液が涙色に浸されて、寒そうだった。


「――夜乎は、冷たいね」

「冷たい? 何故、私の気持ちが、ただの温度のように冷たいと言えるの」


 彼女は凛とした瞳をより強くさせ低音の品のある声が、異様に身体に痛く響いた。


「そう、思ったんだ。気持ちが冷たいなあ、って」

「冷たいって、気持ちがいいじゃない。あのガラス窓みたいにさ」


 そのまま、僕の言葉に間を入れずに答えた。窓に指を刺して流暢に言う。瞳は、私は間違ってなどはいないと強い思いが伝わったが、ガラスは気持ちが良いと感じるものではなく、冷たいだけだ。


「そう、かなあ」


 ――言葉。人間の奥底を根として、口から出る音は、根から育った葉っぱ。きっと根が枯れると、身体である茎も葉も枯れる。すべてが朽ちる。 今の混濁した気持ちを吸って、自分が口に出した言葉は枯れているとわかった。


「私はね。あのR18って名前記号が生理的に受け付けなくて、ただ、向こうが勝手に懐いて……一緒にいただけよ」

「そうだったの?」


 違和感。彼女の嫌がる表情が不思議と豊かに目に映って、綺麗だとはじめて思った。


「思い出させないでよ。私は食事中なのよ、気持ちが悪くなる」

「……なんで?」

「わからないわよ。あの名前に、汚いものを見せつけられたように気持ちが悪く感じるの」


 自動で付けてくれる、個体識別記号『R18』と言う名前に、汚いものを見せつけられたように、何故気持ち悪く感じるのだろうか。


「だから、なんで?」

「そこまで考えたことはないわよ。でも、女性の深層心理に何かを訴えかけられる、極度の不快感。鼓動から嫌悪できる。凄まじく気持ちの悪いモノを連想させられる文字列だとしか、わからない。――どうしてそこまで深く聞くの? まさか、AIに指示されたの? プライバシーには、踏み込まないようにするはずだけど」


 夜乎は不機嫌に頭を掻いて、話を続けた。


「そもそも、月は草木の就寝用の小さい明かりでしょう?」

「そう、なのかな」

「そうよ。私達も小さい明かりをつけて寝るじゃない。それと同じよ」


 ――未来なのに、未来がないの? 溶液に浸かっている彼女の言葉が胸に響き、とくんと、一滴おちた。血流は止まり、身体がただの血の詰まった袋になる。波紋は壁に跳ね返り、多面的に、全身へ広がった。満たされてゆく気がしたが、これは清いものではない。行き場を失い、身体のあちこちで跳ね返る波紋は止まり、血を躍らせたのは静かな怒りだった。こころの根っこは火が点いてしまい、喉に向かって伸びて、かっかと熱くなる。


「――だったら。なんでわざわざ三日月になったり、満月になったりするの?」


 身体の頭をくっつけている喉元から巻き起こった言葉は燃えていた。熱量を帯びたそれは、彼女の強張った表情を切り裂くように言い放ったが、


「そういう風に出来ているのよ。AIがそう言っているから、そうなんでしょう」


 夜乎は逃げるようにスプーンを手に持って食事を続けた。胸はそのまま熱くて、どうすればいいかわからなくて夜乎を鏡面反射越しに見ていた。えへへさんの食事をする時の表情と、全然違う。口に運んで、ただ静か。下手をすると食べているのか、わからないようにも思える。


「…………」


 とてもつまらない食事な、気がした。しかし健康に生きているということは、それには栄養があるからであって、AIに管理されていることは良い事だ。でも。


「ねえ。僕らはいつも同じものを食べているけど、明日はさ、違うものを食べてみない?」

「どういうこと? いつも違うものを食べているじゃない」

「そうじゃなくてさ……こう、栄養のないものを食べてみたくはならない?」

「なんでそうなるのよ。そんなものを食べたら栄養失調になって死んじゃうかもしれないじゃない」

「そうかもしれないけれど……」

「一体、どうしたのよ」


 何かを期待していた。今日の昼間の高揚感は、えへへさんの影響で、AIや脳に提示された行動とは別のありえない行動をして、自分で答えを出した。それはとてつもなく悲しかったり、怖かったり、嬉しかったり、そして辛くて。


 もはや何がなんだかわからなくて、ぐちゃぐちゃになった。それでいて溶液の中の彼女を眺めると、ただただ悲しい。しかし穏やかな表情は、僕の質量をすべて削ぎ落として、楽しさに変わっていた。


「私はね、もうすぐママになるの。栄養のないものは食べようとしたら、AIが強制執行権を使うかもしれないでしょう?」


 夜乎は、ぽっこりとしたお腹を優しくさすった。


「安静にしなきゃいけないんだよね。天敵の子供が現れた時に殺していたけど、大丈夫だったの?」

「ああ、昼間の。看護婦の劣等食が少ないからって、AIの指示よ。脳は動くなって、うるさかったんだけどね」


 彼女は、一重に微笑んだ。


「そうそう。私は、過去の彼女を見守るわよ?」


 聞いてもいないのに、あくまで笑顔で、そう言って。

 ――僕は面を食らった。


「私達の子供はメス。私達は遺伝して、もう死ぬ。どうあがいても、彼女は交尾が出来ず老衰して滅びる。これは脳の言葉」

「…………」


 僕は、面を食らったまま……もどかしい。


「神は細部に宿っている事で絶対化する。どうあがこうと、細かく管理された私達の前に、人が一人増えても何も変わらないし、私たちの歴史は動かない。彼女は腹に子を宿してはいないと解析されている。唯一のオスである貴方と交尾をしようとしても、私が止める。これはAIの言葉ね」

「…………」


 僕は面を、食らったまま……もどかしい。怖い。


「私も驚いているのよ? 過去からの訪問者なんてさ。でも、一番気にかかるのは貴方の起こした行動、ね。看護婦を壊すなんて、ありえないもの。でも、私は何も言わない。私は、貴方を止めずに見てしまったのだから。――なんというか、思考が止まったのよね」

「――と、いうと?」


 僕は口にしたが、僕は僕の、自分自身の言葉を出すことが出来なくなっていた。

 脳の幻が夜乎の発言に反応して現れて、差しだしたスケッチブックの台本に描かれた事を、心臓である僕はただ言っただけだ。夜乎は話を続けた。


「わからない。目が留まったというか。狂人が描いた地平線の絵を見たときのように」

「…………」


 うつむいた首が戻らない。怖い。夜乎が言った、「彼女を見守る」という言葉のせいだ。


「矛盾、無駄なことは、あの絵のように『面白い』ことだったのかしらね。もちろん、その矛盾を否定すると、切なくなるのは知っているわ。これを脳は貴方に対するとか、存在の意義とか言うけれど詳しいことはわからないし、AIも黙秘してる」

「…………」

「看護婦は修理する。最初の人類の保育が残っているからね。もう、壊さないでね」

「――あの、さ。夜乎、」


 僕は、脳が描く台本をそのまま口にした。


「――もし、さ。彼女が過去に帰ったら、僕達はどうなるのかな」

「何、空想の話? 空想なんて興味がないことは知っているでしょう」

「――現に彼女は、過去から来ている。これは事実なんだよ」

「だから?」

「――つまり彼女は、過去で僕たちを消せる行動を起こせるんだよ」

「今、私たちは消えていないじゃない」

「――きっときっと、もし彼女が僕達を見て、消したかったら消せるんだよ。きっと。絶対に」

「だから?」

「――だからさ、僕が夜乎と交尾をしたでしょう? 過去に戻って、交尾を止めれば、子供は出来ない」

「いや、何回もするんだから、そんなことはないでしょう」

「――いや、全部止めたら?」

「全部止めようとしたら、AIは指示すると思うわよ? 早く交尾をしなさいって」

「――だから、さ。些細なことでも、未来は変わるって事だよ」

「私たちの時代は、彼女のからしたら、違う未来なんじゃないの。――ひとつ質問をするけれど、私達の思考はAIに管理されているわよね? 心臓と脳の思考を読み取った統一意志は、彼女を過去の訪問者として認識し看護婦を使って殺そうとした。しかし今は違う。『殺せ』と言う指示は、私にさえ来ていない。統一意志が彼女を『生かしても良い』としているのは、何故?」

「――それは、」


 僕に台詞を提示する脳は、何を望んでいるのかわからなかった。


「彼女が過去に帰って、何か行動すれば、私たちは消えるかもしれないのよね? だったら、殺した方がいいじゃない。なんで生かしておくの? 何故AIが私や脳に、強制執行権を振るって無機質な暴力をしなかったの?」

「――彼女は、いてもいなくても大丈夫だから……だ」


 提示された脳の台詞を言いたくはなかった。


「ご名答。過去を壊変されて、私達が消えるなら、もう消えているんじゃないの? でも今、私達は存在しているじゃない。蛇足すぎるわよ」

「……じゃあ、僕がタイムマシンを作って過去に行ったら?」


 奥底にある根は揺れていた。僕は、僕の言葉に頼った。

 夜乎はそのまま呆れ顔で、


「あのね、空想の中の話をされても」

「現代にはないけれど、過去にはあった。だから彼女は、此処に来ることが出来た」

「それで? AIの情報図書館で過去の経験知識を浸透させて作るの? 無理よ。私たちは彼女からしたら、どうでも良い未来人かもしれないけどね、私たちはしっかりと今を生きているの。それに先人がコツコツと積み重ねてきた時代を破壊しまう可能性があるものを作るなんて、AIは絶対に許さない」

「…………」

「よく考えて。私たちは、はじまりの親になれたのよ?」


 脳の幻は頭を悩ませ、スケッチブックに『僕が言いたいのはね、彼女にずっとここにいてもらって、機械の看護婦のかわりに僕たちの子供神様を育てて欲しい』と急いで書いて、これを読めと指示をした。


「――僕が言いたいのはね、」

「さっきさ、私達がいとも簡単に消えるって口ぶりだったけど、あなたはこの世に生まれた事に感謝した方がいいと思うわ」


 ただ揺れる以上のもの。ふたたび、奥底の根からひどい熱量を感じた。


「……しているよ」

「あのね。ガラス窓を、冷たくて気持ちが良いと思うのは、私自身が“温かい”からなのよ」

「だから?」

「貴方は今、冷たくて乏しい人間ということ。なぜわからないの?」

「……看護婦の首を飛ばした時に、なんで夜乎は僕の頬に唇をつけたの?」

「………………………私は」

「僕はその行動の意味がわからない。壊れているんじゃないの?」


 息を飲んだ。彼女の空気が変わった。先ほどと違い、僕の言葉に打たれても。


「――悲しかったのよ」


 夜乎は、逃げなかった。


「寂しかったの」


 顔をしわくちゃにして、それでも涙を出さず、噛みしめて。


「辛かったの」


 ――彼女の言葉は、脳でもAIの台本でもない。彼女である、心臓の言葉だ。


「あの口づけ――キスというものは、生殖行動と比べて、遥かに無為で、いわば空想的で不可思議な行動だったかもしれない。でもそれは私があなたに向けて、個の体現をした初めての答えなの。大好きだよ、って」


 彼女は苦しそうだったが、まるで樹木に葉っぱ一枚だけが残された美しい景観に見えた。姿形が見えたと言うよりも、耳がないのに音を聴くように、触れてもいないのに感じてしまった空の柔らかさのよう。問いかけても答えはない。掌ですくった水のように、ぼたぼたと床に落ちる。すくった時の冷たさも、指の隙間から滴り、うろたえ騒ぐ危機感も空気に溶け込んでいて気がつかない。知覚とは違う、存在しない水の感触だ。これは、他者に愚鈍と決めつけられる要因となってしまう感覚であり、生きる上で必要が無いものだ。しかし、それでいて、だからこそ。その大いなる感性なるものが、自分には在るのだと分かった。今の彼女は、自身の華奢な胴体の奥の奥。その奥にある塊から伸びて生えた、尊い葉っぱ。僕と同じ欠陥人間になってしまったが、違った。夜乎は透き通った笑顔に、たった今変わったのだ。


「私は。私は。私は。そう……、神以しんもって……あっ」


 彼女から繊細な音が鳴り響き、瞳は結晶へと漸進的に変わり始めた。


「夜乎……?」


 満月は絞られ、光量は弱まった。五分に一回、月照明はじっくりとまばたきをする。黄色に冴えた分娩室は、徐々に生体維持装置のぼやけた青い光に染まった。


「あっ。あっ。あっ……。なんで、なんで今なの? まだ出産をしてないのに、おかしいよ」


 人体観察用に施した水中照明が作った青色の透ける影、ほのかに揺れた無数の泡立ちは白色と青色の水玉模様。夜乎の片目は深くまで結晶化し、血の色は見えず青い光を通し始めて、脳がまるまま見えた。これをうらやましい、と、思うことは出来なかった。


「ああ……そっかあ。そういう事なのね。馬鹿げているわ。きっと男の人は赤ちゃんを見ないと強さを自覚しなくて、女の人は自分から好きって、口に出した時にようやく弱さを自覚するもので、私はその答えに触れた。――いいえ、違う。私は答えを……たった今、を掴んだ。握った。経験した。浸透させた。まるで一秒先の記憶にしつこく染み込もうとしている、目に映った景色を犯し尽くす空想――これは、他者に汚されることは無い孤独の象徴だ。そう、これがならば、証明された。私は一人だったと」


 淡い影のシルエット。その片目部分は青色に浸食されていたが、もがくたびに光の透過角度が青色を途切れ途切れの虹色に変えて、丸い虹の影へと著しく変わった瞬間、彼女は僕を抱きしめた。


 ――無くならない。彼女は温い表情の作り方を記憶の奥底にしまってはいない。彼女と初めて手を繋いだ時のようだった。まるで、思い出は美しいとでも言うのだろうか。彼女と側にいた過去の時間が、彼女の表情だけを浮き出していた。全ての風景が光のどこかに消えてしまって、楽しそうな表情だけが鈍くくすぐる。彼女はあるがままに、当たり前のように、この世に自分は一人しかいないと優しく主張しているかのように、微笑み続けた。


「悲しい顔をしなくてもいいわ。私たちの子供は絶対に産まれる。私の心臓が強制執行権で、壊れるだけ」


 僕の正しい恐怖の顔と、悲しい顔が同じに見えたのだろうか。一歩、二歩――、三歩。よろよろと女性用生体維持装置を解除して、治療中のえへへさんを引きずりだした。それから彼女の腕のブレスを外し、廃棄口へ乱暴に投げて、闇に飲まれて消えていく。もう、ブレスを取り出すことは出来ない。


「――これで、安心でしょう。タイムマシンは存在しないし、在ってはならないもの。かぎりなく透明で無意味なものだから」


 瞳の大きな結晶は細やかに砕けて散らばり、床を濡らした溶液に押し流されて行方が分からなくなった。


「ううん……。冷たい、寒い……お腹痛い……」

「――ごめんね、過去の人。AIが言っているの。この容器は私が使わなきゃいけないみたい」

「ねえ、夜乎……、僕はどうすれば、」

「私は、愛せていましたか?」

「夜乎?」

「子供は宝物なの。貴方はそれを抱いて、死ねばいい。それだけ」


 夜乎は、えへへさんを僕に渡して、荘厳のまま溶液に浸る。水嵩が増す前に、強制執行権で彼女の心臓が破裂し、結晶化は身体の体積の三分の一ほどで止まった。勢情報浸透質は皮膚、内臓、骨の外形が重なりつつも、青く透き通った内臓はいとわしく鼓動し、残り余った生の脳でさえも嫌らしく見えた。青い溶液は紅く緩やかに染まる。作業アームが傷口を塞ぐように急いで突っ込み、ぽっこりとしたお腹が胎動した。心臓は意志の無い半壊した臓器となってしまい、心電図の音がふたつ、弱く響く。月光が、月がまぶたを開けた。


 脳の幻はくしゃくしゃの顔で触れることはできないのに、いつまでも夜乎を抱きしめようとした。幻は涙でさえも再現し、人間ではないその姿は月光で消えかけて、まさしく滑稽だった。


 えへへさんと、二人きり。言うに言われぬ、その愛らしい顔に僕の表情は崩れて、宝物のように大切に抱いた。夜乎は、腕も、足も、肺も、眼球も思うように動かす事ができず、表情筋の無いネコのようにこちらをじっと見ていたが、血の色が邪魔をして、こちらは見えないだろう。夜乎の心臓が壊れた事を、嬉しく思う。


「――ひ、ひひ……あはっ」


 そうだ、僕は。僕は――僕は人間なのだ――は。

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