3
「やだ、やだよ。ありえないよ」
脳の僕が、えへへさんを慰めろと言ってくる。そのうえ、額のAIは無視をしろと脳に行動決定の印鑑を求めていた。
自分会議。二者の意見に挟まれた、僕。正しいのは統一思想に基づいているAIと決まっている。しかし脳は、頑なにAIの行動を理解しない。このありえない人物との接触に、AIは定められた思想の通りに演算をし、淡と行動書類を提出し続ける。慰めるか無視をするのか。AIが行動企画書に印鑑を求めるのは、プログラミングされた演算装置として当たり前の遂行行動。声帯を含めた、外部筋肉を動かすのは心臓である僕だ。そして。
「帰らないんですか?」
つい。無視もしていないし、慰めてもいない言葉を声に出してしまった。
「あ、あの。帰る前に……私のお婿さんは、誰になったんですか?」
「お婿さん?」
「私の結婚相手です」
彼女は座り込み、しかめっ面で考えに沈んだような顔のままだ。
「きっと、私もお婿さんも、よぼよぼになって死んでいますよね。明らかに文明が違いますし、ここは五年後の世界ではないですよね。私、二十歳の誕生日に結婚をするって決めているんですけど……ええと、確認いいですか。この時代では、すでに私は死んでいますよね?」
「……えっと」
瞳を潤ませながら、彼女は迫る。
「五年後に世界は滅びるんですか? 私は生きていますか?」
「…………」
「あっ。す、すみません」
僕の思考停止の沈黙に、彼女の目は泳いだ。
「……あの、話を変えましょうか……未来でも日本の技術力は世界一なんですか? 歌舞伎役者の影武者クローン、火星の力士事件は解決したんですか? 単細胞生物の言語翻訳機は完成したんですか? ブラックホール埋立地は、平和賞にノミネートされました? もしかして、日本の科学力は五年後に宇宙一になったとか」
思考停止に関わらず、更に迫る彼女。“日本”が大好きなようだった。かろうじてわかる語は“宇宙”というフレーズのみ。
「宇宙とは、あの狭い場所ですか」
「宇宙は狭いんですか。未来ってすごいですね……」
彼女はそう言った後、赤く点滅した腕のブレスを弄っていた。
「なんだろう、この点滅……?」
そんなことを言われても知るわけがない。
ついさっきまでの吹き抜ける風に湿り気が加わり、ただの風が雨となる時間に気がついた。
「あの。もうすぐ、雨が降りますから」
「あ。天気予報、ですか?」
予報ではなくて、予定では。
「この時間になると、降るからさ」
「ここはドームの中ですよね? そもそも、人為的に天候を変えることは禁止されているはずじゃあ。それに、えっと、お名前は?」
「心臓」
間違いではない。声を出しているのは、他でもない心臓の僕だ。
「変わった名前、ですね」
彼女は目をまんまるにして、ただただ問いかけた。馬鹿にされてなどはいない。鳩が豆鉄砲を食ったみたいな言葉のまんまだった。
「えっと。人間、だよね?」
「心臓」
「人間、でしょう?」
「僕は心臓だよ」
正直、登録記号を伝えるのは面倒臭かった。人間とするのであれば、脳が人間のどうしようもない野生の部分であって、それを誠実にする為にAIがあって、僕は人間の身体を動かす心臓で……。あれ? 僕は何のために存在して……ううん、わからない。こういった時、脳やAIのように利口になりたいと心底思った。――にやにやと微笑んでいる、僕だけが見える幻影の脳の僕。彼女をじろじろ眺めつつ考える、僕だけが見える幻影のAIの僕。僕は、僕たちで彼女を見ていた。
「もう。私は“えへへさん”でいいよ、心臓さん。ばいばい。帰ります」
彼女はわざわざ作った涙の笑顔でそう言うと、点滅しているブレスのボタンを何度も押した。時間を置いて、何度も何度も。しまいには大股になって力強く、何度も何度も。気味が悪い人だ……と、恨み節が口を衝いて溢れてきたように呟いてしまった。しかし、彼女の耳には届いてはいないし「なんで、タイムマシンが動かないの?」と嘆いていた。――目の前の変な彼女の腹の音のような、天井からどよどよと響く効果音に僕は焦る。
「――きゃっ」
気がつくと、慌てている彼女の手を引いて走っていた。彼女の驚いた声は身体をすり抜ける。繋がった掌から電気信号をぴりりと感じて、視神経から脳へ流れる景色がやさしく溶けていった。
水を地へと染み込ませる雨。白い空は雲を生み出した。そしてプロペラは風を作る。彼女の肌の温もりがしっとりした手汗と伝わって口元がほころぶ。身体が、セイタカアワダチソウの葉を切るように当たったものだから、雨粒が吹き飛んで、僕らの顔がぶわっと濡れた。
てかてかで灰色の名前の無い木の陰に入った。えへへさんは濡れた長髪を絞り、ため息を漏らした。そのままマイルームへ帰りたかったけれど、彼女は僕の腕を振り払い、雨宿りすると動かない。前髪から垂れた雨粒が眉に垂れて、痒くなった。
「…………」
右手の人差し指で自分の意思で眉を掻いた。彼女は空をいっぱい見上げていた。僕に鼻の穴をみせたあと、手で鼻を隠しながら赤面した。その様子を眺めて、これからどうすればいいか脳に指示を仰ぐが返答はなく、姿が見えない。彼女はさらにため息をついた。
「ねえ、心臓さん。この雨はいつ止むの?」
「後、一時間くらい」
「ふうん……。ねえ知ってる?」
これから一体何を話すのか、知っているわけがない。そもそも君のことを詳しく、知らないのだ。
《――知っているか? という質問は、相手が知らないことを知っている前提で使い、無理やり話を聞かせるようとする。これは共感してほしい願望を持った人の変なくせのようなものだ》と、AIの僕が木の幹の裏側から、ぬっと現れて辛気臭く呟いた。そして僕に《脳を知らないか》と言った。僕は知らないと言った。
「あのね、雨の日はね。ウジウジしていたらお父さんが元気を出せって言ってくれて、一緒に虹を待つことにするの」
「虹って、何?」
「ううん、とね……」
「うん」
えへへさんは、目を泳がせた。泳がせた、というよりも溺れているようだった。自分が溺死しないように、助かるために、何かにしがみつこうとしているとでも言うのだろうか。そのまま目を伏せてから、腕のブレスを弄って軽く振った。ふたたび僕を見据えるが、やはり目は溺れている。目が合った事をなかったことにするように、また伏せた。
「えへへ。私にも、わからないや。あのね、本当に世界は……」
僕は言った。
「無くなるよ、少なくとも僕の視界から」
「え、えっと、えっとね。この時代が五年後じゃないとして。私の家族は、どうなったと思う?」
「…………」
彼女の表情の変化は、天気のように予定はわからない。ただただ不思議だった。
「あっ。ごめんね。当たり前のことを聞いちゃったね?」
「うん、死んだんじゃないかな」
「そっか。そうだよね」
「うん」
「あの。もう人類は心臓さんと、もう一人しかいないんだよね? 心臓さんの家族は……」
「…………」
「ご、ごめんね。言いたくないよね。そうだよね」
「家族って? そんなのいないよ」
「え……? ……ご、ごめんね。えへへ。心臓さんと同じだね!」
「そっか」
「うん。だから、心臓さんは寂しくないよ! たとえ、世界が……うう……」
潤んでいた。彼女の薄い茶色の瞳に、白い顔が映っていて、牢に閉じ込められた自分自身と目が合ったようで怖い。彼女の瞳の中で、誰かに助けを乞うように僕も溺れているようだった。
「…………」
「来るんじゃなかった。こんな未来はイヤだ。イヤだよ。帰りたい、帰れないよ。お父さん。お母さん――」
座っていた彼女は背中を向けた。僕はそれを眺めていると、寂しさにすり替わったと、いつの間にか気がついていた。
つぅり。
遍く電気の、全身に伝わる些細な信号。内臓から振動する気持ち悪さが、皮膚の触感に通じて、鳥肌が出た。信号は脳の皮質へ行き渡り、視界に幻影の脳が現れた。木陰の外に出ている幻影の僕の姿は、ざあざあと地面を叩く雨を上から下へ透き通していて、これっぽちも濡れていなかった。スケッチブックで、脳の僕が僕に伝える。
《情報記憶図書館、服装大辞典からの情報推測。彼女は五百年前の人間の女性》
脳の僕は、人間の部分を指で何度も叩いて強調した。
「ここは、えへへさんの時代から、五百年後の世界のようだよ」
「もう、そんなのどうでもいいよ……。お母さんもお父さんも幸せだったの? 最後まで笑っていたの?」
「わからないけど。ここは、えへへさんの世界の五年後じゃないよ」
「わけわかんない。そんなことはもういいよ。あなたって、馬鹿なの?」
「ええと」
「ああんもう」
「ええと……」
彼女と僕は背中合わせで会話しながら、雨を眺めた。木の葉は雨つぶを苦しそうに落とした。水滴はたくさん弾けて、僕らの足元へ散らばった。きらきらとして派手に思えるが、まんまるで古い時計の秒針が刻む音みたいに地味だけれど、身を委ねられる静けさがここにはあった。
「…………うん、えっと、ね? 私……私ね? 将来の夢はお嫁さんじゃなくて、YKKで働くことにする」
そして、彼女は「君がいてくれて、ありがとうだね」と、つづけて呟いた。僕は、彼女が感謝する意味がわからなかった。
「――YKKって、自動ドアの?」
「もう。ここは笑うところだよ?」
「そうなんだ」
そのまま彼女は振り向いて、点と点を一本線にするかのように笑顔に笑顔を重ねた。それは満点だったとでも言うのだろうか。甘い顔つきが脳裏に焼き付いた。その後に尖ってなんていない、まんまるな瞳を魅せてくれた。
「ねえ。なんで私の時代がわかったの?」
「AIが、脳に情報をインストールしてくれたんだ」
「?? AIって、古臭いね。もっと未来っぽい機械はないの?」
「そんなことを言われても」
「じゃあ、歴史を教えて? 五百年前から詳しく!」
「そんな膨大な情報、思い出すのが面倒臭いし、興味ないよ」
「思い出す? なにそれ。そんなの興味ないわ。じゃあ小さいことならいいのかな」
「ううん」
「じゃあ、今の? 内閣総理大臣は何をしているの?」
ふたたび訪れた内臓から皮膚へ伝わる電気信号の気持ちの悪さ。おでこのAIからの情報を脳の僕へ。突っ立っていた脳の僕の幻影はすらすらとスケッチブックに筆を走らせた。
「ええと。ナイカクソウリダイジン……八百五十六代目の時に戦争があったようで、政権は崩壊……」
「ちょっと待って。私の時代はちょうど二百代目で、お祭り騒ぎだったけど。八百を超えるなんて、いいかげん海外の政治家に馬鹿にされているんじゃない?」
「えっと、二時間で交代した時があって。それがきっかけで、何百年かけて作った、合成メタンハイドレートで築いた近隣国家信用が……」
「二時間! アルバイトみたいね。総理大臣の時給はいくらかわかる?」
「ええっと。アルバイトって、何?」
「ちょっと待って。まさかアルバイトを知らないの? まさか、本当に私の空想通りで仕事や、お金の概念がないの?」
「…………」
「私の中の空想ではね、仕事や、お金が無い未来は深く考える事ができなかった。だって、悲しすぎるから」
「…………」
「ねえ、心臓さんの世界の人は、何の為に生きているの?」
「わからない」
「私のお父さんは、お仕事が休みの日にお金を使って、色々な場所に連れて行ってくれたよ。恐竜園や月の兎園、深海ツアーにマントル見学。家族と過ごす時間が、楽しみだって」
わからない単語。その中で辛うじて分かるのは空想辞典に載っていた『月』と『恐竜』だった。
「恐竜って、本当にいるの?」
「いるわよ、何言ってんの。子供たちに大人気じゃん」
「月って黄色くて丸い石ころで、ウサギ? が、住んでいる照明の?」
「照明? うん、ぼんやりと明るいから、まあ照明といえばそうかもしれない。月のうさぎも可愛いよ?」
「恐竜も、そんな月も存在するわけがない。嘘だ」
「嘘じゃないから。未来人のくせに、何にも知らないの? 過去の人よりも遅れているね」
「別に、遅れてなんていないから」
「じゃあ、何か見せてよ」
彼女の世界は、過去。僕の世界は現代。培ってきた栄光の数は、確実に僕の世界の方が多いはずだ。いえば、僕の方が優れている。彼女の頭に触れて、脳に電気信号を送るようにと、AIに指示をした。AIは僕の指示に、辛気臭そうに首を横に振ったが、脳の僕が送れとスケッチブックに書いた。会議の結果は二対一。僕の勝ちだ。
さあ、彼女の視界に映るはずだ。僕の、この世界のすごさが。
脳は、わざわざ彼女の目の前に立って、得意げに仁王立ちをした。彼女は言う。
「――あなたの意識下で作った偶像を、ただ私と共有しているだけじゃない。こんなの驚けないよ。そんなの私の時代でもできるようになってきてるし、それにそんなホログラム映像だったら、私だって出せるもん」
彼女はポケットから黒く薄い長方形の箱を取り出した。指で『データフォルダ』をタッチして、そのまま『音楽』を続けてタッチ。流れるように画面に映った絵に指をスライドさせて、ぴたりと止めた。
「これを見せてあげる。私の好きなアーティストのライブ映像」
長方形の画面から騒がしい音が聴こえた。まるで僕の耳を囲っているかのように音が立体的に流れて、驚いた。そのまま画面から三十センチくらいの人間が複数現れた。彼らは白い化粧をして、服装大辞典に分類すると芸術のカテゴリにあるような、動きにくそうな服を着て、肩から武器のようなものをさげて暴れている。その中のひとりが筒を力強く握って、がらがら声で独特のリズムにのって、歌っていた。
「すごい。何この騒がしい人たち」
「ふふん」
「でも、こういうものくらい僕の世界でも作れるさ。だってこれは過去のものだろう?」
「じゃあ見せてよ」
「持ってないから」
「持っていないなら、それは無いのと同じでしょ」
「持ってないけれど、絶対できる。この歌っている人間がいないんだからさ、できるものもできないだけだよ」
「……やれやれ。びっくりしたのは、この風景だけね。なぜこんな施設を作ったのか謎だもの」
「施設? 過去の世界は違うの?」
「こんな、東京ドームのような場所に住むわけがないじゃない。きちんと太陽の下で家族と一緒に住んでいるわ」
「…………」
もどかしい。脳の僕は開いた口が塞がらないようだった。AIの僕は虚ろな瞳で、しゃがんでその映像をじっと眺めて、掴もうとしている。えへへさんは、仁王立ちしていた脳よりも得意げで、思い出したように質問をした。
「じゃあさ、好きな本とかってある? 未来の本って気になるわ」
「……空想辞典とか」
「辞典を読むだなんて、頭がいいのね」
一瞬、馬鹿にされていると思ったが、そのような雰囲気はなかった。彼女はきょとんと、まんまるな瞳でこちらを見ている。
「僕は、字だけの本は苦手なんだ。絵が無いと読めない」
「そうかなあ。文字からイメージをするだけだし、絵付きの本よりも、文字だけの本を読む方が簡単じゃない。むしろ絵付き方が辛いよ、マンガとか細部の意味を、点や線の意味をきちんと理解して、読まなきゃだし」
AIの僕が、彼女が出した映像に魅了されていて――、その現実の違和感にむずむずした。なぜ馬鹿にされている気がしたのか理解した。これは単純に彼女が、ただのお馬鹿な人なのだ。
「文字だけの本を読むだなんて、頭がいいんだね」
だから、僕は彼女を馬鹿にした。
「馬鹿にしないでよ」
「別に、していないさ」
「嘘をついても無駄よ。そもそも、心臓さんの好きな本の空想辞典って、国語辞典みたいに絵なんてついていないでしょう?」
「え、ついているけど。動く絵は付くものでしょう?」
「なんで動画付きなのよ。人に空想をさせるのに、動画の力を借りるだなんて、卑怯じゃない、狂ってる。馬鹿じゃん。死ねばいいのに」
「いや、なんで?」
「動画とか、絵を載せてしまったら、その絵を元に、読み手のイメージが固まってしまうじゃない。それのどこが空想辞典なのよ。空想させなさいよ、頭悪すぎ」
「――ええと、恐竜って、いるんだっけ?」
「いるわよ。偉い人が数百年もかけて再生した歴史があるじゃない。タンパク質を環境下において眺めるだけのお仕事で、小さい地球を作る感じのパズルみたいな」
「もしかして、宇宙もあるの?」
「はい?」
「タイムマシンもあるの?」
「なかったら、私はここにいないわよ」
「幽霊も、いるの?」
「解明されたじゃない。人の感情と記憶が混じったもので、磁石みたいな力を持っている粒子信号体でしょう」
「なにそれ」
「それを固体化することに成功した人が文化賞をもらってたよ」
「……つまらない時代だね」
きっと嘘なのだろうと、決めつけて言うことしかできなかった。ありえないから空想辞典であって、僕の図書館に存在する空想辞典はそんな俗なものではない。
「私は、つまらないと言ってしまう心臓さんの方がつまらない人間だと思うわ」
「……あのさ、」
何もできないもどかしさ、苛立ちがさらに募る。AIの、彼女を無視しろ、という提案の意味を理解した。彼女は異質、無味。意味がないもの。僕の目の前に存在してはいけないもの。そこにいるだけで、乱されるのだ。
ぷつん。
AIは音楽映像が終わったのを確認して立ち上がった。そのまま無表情でスケッチブックに《彼女は、我々の計画に支障をきたす可能性そのものである。すみやかに排除せよ》と、脳に行動決定書類を突き出し、印鑑を求めていた。脳は、印鑑をすぐ押すと思った。心臓の僕は、拳を握った。しかし脳は首を横に振って受理しない。かわりにスケッチブックで台詞を書いていた。それは僕から彼女へと向けた、たったひとつの過去に向けた質問だった。
《過去に、神様はいるの?》、と。
僕は困惑した。すると彼女はピンと張りつめた空気を切り裂くように言った。
「この未来に神様っているの?」
凍てつく空気が過ぎる前に、疑問は焼きつく。彼女はスケッチブックが見えていないにも関わらず、脳と同じことを言った。
「…………」
「…………」
神様は、
僕は、沈黙を打ち破る術は持っていなかった。白い空は雨を止めて、辺りを明るく照らしはじめる。彼女は、僕に背中を見せつづけるだけだった。ご丁寧に照射角度を計算した照明――自然現象である雲の隙間から零れた天使のはしごは、僕をぽつんと無様にした。幹の影からふわりと現れた七色の曲線を見つけた。これを彼女は虹と教えてくれると、唇の両端を引きつらせ言った。
「お父さん……」
彼女は、そのまま元の時代に帰りたいと仄めかし、彼女を殴り殺すために握っていた拳は解けた。いうならば、溶けた。虹と彼女を眺めると《排除》と言う指示が流れるように消え失せて、その居所すらわからなくなった。これを産まれてはじめて気がついた悲哀の感情と決めつけたが、そうはしたくなかった。
僕は「大丈夫だ」と言いたいが、風に感じる重さのように安く、容易なものに思えたからこそ、口に出せなかった。彼女を励ますことなどできるはずがない。自分が彼女と同じく馬鹿であると、嘘のような許容をしてから、気持ちを落ち着かせる。それでも「大丈夫だから」と自分の心臓の中でしか呟くことが出来なかった。
「…………」
感情は、ぐわぐわとざわめき、淀む。全身の毛がゆっくりと逆立つような、ぬたりとした舌で鼻を舐められる嫌悪感の高ぶりだが、少しだけ心地よい。
りう。ころり。
世界がゆっくりとひっくり返る感覚だった。思考が麻痺したのか。いや、麻痺したのではない。僕の何かの感覚が麻痺したのだ。四鳥別離とでもいうのだろうか。これは麻痺した感覚から押し寄せる、心配する気持ちを含んだ悲しみであった。
僕は何をすればいい。ああ、そうだ。いつものように空想に浸ればいい。
しかし、目の前の彼女がいるだけでそれが出来ない。空想に憧れる気持ちを忘れてしまいたいのか、僕は眩暈がした。目の前の彼女は過去から現れた非現実的な存在だ。それを簡単にそうなのかと信じてしまう僕がいる。この状況を、どこか幸せに思っているのは、きっと空想辞典を読んでいるときの気持ちと重なっているからだろう。
僕のごちゃごちゃとしたよくわからないこの気持ちは、いったい何なのかと考えてみると、“くだらないもの”になった。しかし空想は、僕にとって絶対的なもので、いつまでも温かくあって欲しい。彼女が僕にとって、空想と同じ存在であるならば、僕も彼女も、これからどうなってしまうのだろうか。自分の背中がいったいどういった形をしているのかわからないように、想像がつかなかった。
「ありがとう、心臓さん」と彼女は言った。
眠って体験出来る夢のように、触れられない快感で尊くあってほしい。
空想に浸ってきた僕を粉々に壊れてしまうであろう、彼女から醸し出されて伝わる予感は、ねっとりと怖くて、滑るように速く冷たく――気持ちを即座に傷つけてしまう代物で恐ろしい。でもせめて、だからこそ。空想がただの夢であったとしても、嘘ではないと信じているのだと伝えたい。だから綺麗な彼女に合わせるように、微笑むことしか出来なかった。きっと僕は、馬鹿でつまらない人間なのだろう。
僕は、この場を離れるためにひとりで歩いていた。だが、案内なんてしていないのに、彼女は僕についてくる。
僕たちの足音がはじけた。草を敷き詰めている金属板――ざらざらでへこんだくぼみの水たまりが、照明を反射し続けて、波紋と一緒にその陣地がじわりと広がる。水音が、彼女の落とした涙の音にしか思えず、たまらなかった。
生かすか、殺すか。最後の選択は僕に委ねられたが、僕は絶対に生かすと決めた。
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