2
「……ん、そんな目で見ないでくれよ」
眠気眼。もうすぐ朝がやってくる。
仮眠中に目が覚めて、僕は、僕に言った。
「…………」
おでこに張り付いた冷静なAIと、無駄の多い脳は頭の中で思考のケンカをする。
AIは、物事を正しい世界の統一思想に基づいて実行してくれるから、そのまま従えばいいのにポンコツな脳は気に食わないと嫌がる。
「…………」
そのおかげで提示された思考がないから僕はどうする事も出来ず、今現在のように間が空く。
脳は嫌いだ。無くなればいいのにと思うが、無くならない。頭蓋の中に引っ付いているので剥がれないし、替えもない。
両親からの霊子情報保存体が知識や経験を、脳が引き継ぐのは自然の摂理だ。しかし人類の頭脳を、AIだけにするというのは倫理的に間違っているから、僕以外の僕――つまり僕のみんなで考えている。
ああ。考えることは、なんと面倒臭いのだろう。性パートナーは仕事へ出かけているし、ひとりぼっちの時間は憂鬱でしかない。
「ふたりの僕。僕は図書館へ跳ぶよ?」
ふたたび、僕は僕に言う。そのままベッドに転がったまま目を瞑り、意識の中の情報図書館へ跳んだ。瞼を閉じたときの暗がりの寂しさは、AIの思考制御で何も感じなくなってしまう。――というわけで。これから莫大な広さの図書室へ逃げるようにダイブをするので、気持ちはとうぜん軽くなる。
閉じた瞳の瞬間の、遮ったはずの部屋の光は瞼に焼きつき増えた。
鏡を六十度に交差させたような――ぼんやりと六つに分かれた光が、僕の色彩感覚を削っていく。白色の室内灯の残光は、赤青黄緑と明度を主張し、淡く消えては、しつこく瞬く。ピントがずれて、光の粒は近視のように大きく広がっている。そのまま視界いっぱいに広がった六つの光輪は自らを織り込んで、天を昇る螺旋に変容した。そのまま僕の網膜を突き破り、花火の味わいのように弾けたら、ブラックアウト。視界は二秒ほどでいつもの図書館に変わった。
ずらりと並んだ身長の三倍程の本棚を見ながら、奥へと進む。ピリピリと電気信号が頬をかすり、振り向くと、僕とまったく姿が変わらないAIの僕が、無機質な顔で後について来ていた。
「…………」
それを横目に、本棚から空想辞典を引き出すが、背後からひょいっと辞典を奪われる。――脳の僕が、満点の笑顔でハイタッチを求めるが、無視をして辞典を奪い返した。
本当に面倒臭い僕たちだ。姿は同じだけれど脳の僕に限っては、声を出せないくせにへらへらと笑い、あかんべーをして茶化してくる。だから、両手であかんべぇをしてやった。――どんどん奥へと進み、本のタイトルを流し見する。
『異文化は、食文化から』――昔の料理技術本。一度読んだけれど、特に腹は空かなかった。
『原始時代から始める、分子生物学』――文字しかない本は読まない。絵がないと読めない。
『古いけれど新聞』――絵は載っているけれど、そうじゃない。読まない。
『ふと思い出したくなる、映画のワンシーン集』――絵が音声付きで動くけれど、これは本じゃないでしょう。読まない。
いつものように、引き継がれた知識の本に戸惑いながらも、好みの本を選んでいたら、棚の終わりがやってくる。すると、いつも同じ場所でそこから動いたことがない、ひとりぼっちの本が見えた。
「――やあ、国語辞典さん。今日も動かないね」
挨拶をしてみた。すでに空想辞典を持っているので、いつものように折り返そうとしたが、脳の僕と目が合う。ニヤニヤされた。明らかにバカにしている。先ほどの、あかんべえといい、何か腹が立つ。
「僕だって、たまには字だけの本くらい読むよ?」
さっそく国語辞典を手に取って、揚々と、五十音順の目次ド頭からめくってやった。しかし、“あ”のつく言葉ばかりでつまらない。
「…………」
ただの一ページがひどく重たい。いきなり字が浮き出して、天敵になったりはしないだろうか。少しは楽しませてくれそうだ。
――いや、むしろ強敵すぎて勝てる気はしない。
「…………」
さらりとめくっていく。これが速読というやつだ。
もちろん、読んではいないが。
「……?」
折り目が付いていたページに止まり、目が留まった。
「あい?」
知らない語だった。優秀なAIと、ぽんこつな脳の僕……額に張り付いたAIは、五感神経に流れる伝達情報信号を電位変化させて、視界上で、僕の姿をしたAIと脳の幻を現実に映し出す。
この図書館の幻は、それの応用だ。瞼を閉じて視界を遮り、自身の身体のイメージを、幻として意識中枢の中で構築。AIが自称視点映像として処理をし、視覚化。イメージ行動を可能とする。もちろん現実の僕は、ベッドで横になっているだけだ。
図書館に保管されている本は、脳が記憶し保存している本物。これはAIが作成した仮想空間であり、遺伝した脳が覚えた知識や経験をわかりやすく読むことが出来るように作ってくれた部屋。わざわざ印紙されたように魅せている図書館型の情報群だ。脳に保存された情報には、日常生活で使わないものも多々ある。必要な時に必要なものしか使わない。
たとえば、動物知識図鑑やら、武術経験資料書……必要な時に必要なページを、AIが視覚や聴覚から状況を判断し、知識や経験のインストール。“思い出し”を実行する。
たまに、何かを思い出したいのに思い出せないのは、脳の僕がAIの提出する経験蓄積物使用許可書類に許可したとする印鑑を押さないからだ。
つまり僕に、AIは情報をインストールしようとしたけれど、キャンセルをした。それは思い出す手前で、脳が申請を拒否したということ。その時の気持ちと言ったら、本当にもどかしい。何を思い出そうとしたのか気になる所だが、しょうがない。もう慣れている。
脳もAIと同じく自動動作なので、たまに良くわからない理屈をへばりつけて、身体を動かせと命令をする。それで先ほど留守番をするか、外に出るかでAIにケンカをふっかけた。結局、身体に怪我はさせたくないと僕が言ったから多数決で留守番に決まったが。
ふたつの思考に基づいて、自らの思考を持ち、独自に判断をする、司令塔の僕。
僕たち三人は触覚や視覚、聴覚などの五感神経を持ち、各組織と繋がってはいるが、三人分の上下肢は持ち合わせていない。身体は、一つで共有するべき所有物。各組織と繋がってはいるが、二人の僕には出来ないこと。僕にしか出来ないことがある。
ある程度の思考能力を持っている、僕。すなわち、心臓の僕は、ふたりと違って、運動をする外部筋肉を動かすことが出来る。
ふたりの僕が意志をはっきりと決めてくれないと困ってしまうのだ。今、僕たちの現実の身体は、目を瞑ったままベッドで横になっている。
僕は、頭がむずむずするので頭を掻いた。頭がむずむずすることに、本を読んでいる僕だけ気がつかなかった。『頭がむずむずするから、掻く』……そんな些細な行動をAIが指示をし、脳はわかったように印鑑をすぐ押して、心臓である僕に頭を掻くように動けと、最終決定の書類を突き出す。それは光の速さほどで反応をして、僕を含めた三人は即決。心臓の僕は、身体の痒い部分をすぐに掻いたのだ。
三者の僕の意志の決定、自分会議。二人の考えは精確だ。心臓の僕はただジャッジをすれば良い。
「ええっと、あいの意味は」
《感じる事ができないもの。感じる必要のないもの》
《見えているのに見えないもの。揺らぐもの。溶けたもの》
らしい。さらには――。
《すぐ無くなってしまうが、しょうこりもなく製造されるような》
「――いや。なんだよ、それ」
投げやりだな。脳の僕は、心臓である僕を笑った。
考えろ、と。言われ、さらに読み進める。
「破滅?」
関連項目には、破滅と書かれていた。事項の詳細には、浸る。死ぬ。造られる。死ぬ。産まれる。死ぬ。それは腐らない金のように美しく、信じてしまうと苦くなる。と、書かれていた。
「わけがわからない」
“反創始者効果”という項目にも紐ついていたが、うんと頷いて、元の場所に戻した。AIが心臓である僕に向かって、冷笑する。脳と同じく、馬鹿にしている。
「…………」
たしかに思考する力は足りない。僕は全身を動かす心臓なのだからしょうがないのだ。
「ふん」
そうして、足りない僕の思考力が脳を使わずに決めた。国語辞典をしまって、大好きな空想辞典を読むことにする。図書館に寝転がって、ページをめくった。
空想辞典は本当に楽しい。霊子保存媒体から引き継がれ、何世代も渡り積み重ねてきた親達の空想を読める。その中で一番好きなものは、宇宙、という項目だ。
それは真っ黒で、全てを包み込んでいるような存在で果てしなく、無限に広い……と、フルカラーの挿絵付きで書かれている。
なんと、面倒臭くなって投げ捨てたような設定なのだろうか。
乏しい想像力だなと、にやけてしまう。宇宙よりも、現実で僕が寝転がっている自室の方が広いに決まっている。だからこそ、お気に入りの本なのだが。
自室で寝転がっている本体である身体の目を開いて、視界を図書館から現実に切り替えた。
――ほら、間違いがわかる。一面の天井灯で、自身の肌色の皮膚がはっきりとわかって、明るい。辺りを見やって、宇宙よりも八帖の個室の方が広いと、すぐに認識できた。
宇宙という存在は明かりの届かない閉じた場所であり、まさに包み込んでいる存在と言われているが、むしろ光の方が宇宙の方を包み込んでいる。
点々と存在している「星」というものは、真っ暗な狭い部屋の扉の隙間から漏れた光。広い廊下の一部が見えてしまっているようなものだ。
――僕は、ふたたび目を瞑って古い図書館に入り浸ろうとした。
「――ここは、どこ?」
僕以外の、声が聞こえた。額に張り付いているAIと脳が、目を開いて声の方向へ身体を動かせと命令したので、声がした方向へ目を開いてから、身体を動かした。声が聞こえた方向はベッドの下。覗いてみると声の主と目が合った。まつ毛の長い声の主は、真っ青な顔で言う。
「ここは、未来ですか?」
「いえ、現代です」
僕に言わせるつもりだった「あなたは誰ですか」という言葉。すなわち台本(ト書きには、驚きと書かれていた)を、脳は印鑑を光速で押したのに、台本を確認するよりも早い速度で、思った台詞を言ってしまった。
「そっかあ……現代、かあ」
「ええと……あなたは誰ですか?」
一応、台本通りにした。驚くのを忘れてしまったが。
「……えへへ。じゃあ、私は帰ります。ここの住所を教えてくれますか……?」
「ええと。えへへさん、と言う名前ですか。住所は僕の家だけど」
「ダブルなんでやねん。私の名前はいいとして、僕の家ってなんですか。あなたは日本語を喋っていますし、教えてください。ここは、えーと……何県ですか?」
「…………」
「時間超越空間って、ものすごく気持ち悪くて……うっ……吐きそう……」
えへへさんは、ベッドの下でひっそりと大きな瞳を細くしてから、奇怪な顔で口を抑えた。僕の思考は停止をしていた。
――ダブルなんでやねんって、なんだろう。
――日本って、なんだろう。
――県って、なんだろう。
空想辞典を読んでいたおかげか、時間超越空間と地球のふたつだけは知っていた。それらは、時計の数字を増やしたり減らしたりする場所と、この部屋のようなちっぽけな狭い宇宙に浮いている青色の球体で、僕たちのような人間が住んでいる空想の世界だ。
「ええっと」
もはや考えるのが面倒臭いので、脳たちの言う通りにする。
AIの僕は、すぐに台詞を作ってくれた。印鑑もすぐ押してくれた。
「そんなことより、横になった方が」
淡々と言う。ト書きには、心配をしながらと書いていたのに。
「すでに横になっています」
きっとAIはベッドの下ではなくて、ベッドの上で横になれば良いと思い、綴ったのだろう。
「外の空気が吸いたい」
ベッドの下からごろりと転がり、カチリと一瞬、目が合ってしまう。
体調を必死で整えようとする溜め息は重たそう。そのまま青白い顔を叩き、気合を入れたが顔色はちっとも変わっていない。かすかに足を引きずり、扉の前に立つ。
切れ味の良い動きで扉が開いた。定期的に大気解放する真空チャンバーの心地良い排気音が聞こえて――面食らった彼女の肩が、びくんと跳ねた。彼女はゆるりと振り向いた。
「どこの自動ドアのメーカーですか、これ」
「えっと。YKKと、書いてありましたが」
意味が分からなかった。もちろん、この台詞はAIが作ってくれた。
「へえ……自動ドアはやっぱり国産に限りますよね。私の家のすべての窓はYKKですからね」
「…………」
いったい全体、なんなのだろうか。笑うにも、価値観の違いが大きすぎて、はじめて空想辞典を読んだときのような凄みと不気味さが混在していて、僕は返答に困った。
AIと脳は、彼女の後を追えと言う。僕は身体を動かした。外へ出るには部屋を出て、左。食堂の向かいの扉だ。長髪を垂らした背中へ「左に行って、左です」と言ったが、彼女はよほど気持ち悪いのか、頷いただけで無視をするかのように歩き続けた。まるで家主のようだった。
僕の部屋よりも宇宙よりも広い場所へ。外へ続いている分厚い扉は、僕たちを感知して、舵輪状のドアノブを勝手に回した。
「わあ……」
互いの頭髪が気圧の変化で散る。扉はズシンと閉まり、空気が揺れて頬が痒く感じる。――今は朝霧の時間。ぼやけた風景の中で目を凝らす。
遠くに、看護婦の人形がいた。人形は半径500メートルほどの、この世界の終わり……広さの限界、いわゆる行き止まりである壁に描かれた先人の空想のひとつである地平線の絵に触れて、突っ立っていた。
えへへさんは唖然として、霧でかすれて遠くまで見えないのに辺りを見回していた。
「……ここは、現代じゃない。未来じゃないですか!」
声を響かせて白色の空を見上げた。
そのまま、手を大きく広げてから唇をほころばせた。
「えへへ」
ひらひらした変なズボンを片手で払い、整えて。屈託を忘れた笑顔で瞳を輝かせた。
「この東京ドームそっくりの低い屋根! 私が空想した未来のお家のまんま!」
「?」
「ねえ、未来の事を教えて! あなた以外の未来人に会わせて!」
未来人。AIは、その単語に思考が停止した。
代わりに脳が台詞を作り、僕は言う。
「――すでに人類は、僕とパートナーの二人しかいませんよ。世界はようやく滅び、生まれ変わります」
「え?」
僕の台詞は空に吸い込まれたようだった。彼女は返事をせず、放心した。その表情は遠目で突っ立っている自律人形のよう。
「――ええと。本当、に?」
「はい」
僕にしか見えない、脳の僕の幻。視覚神経に流れる信号を電位変化させた幻が広げたスケッチブックの通りに、僕は答えた。
彼女のうさんくささは決壊し、僕は真剣に彼女を見ていた。たった二文字の言葉で表情は変わりはじめ、口に放り込んだ果肉のように潰れる。苦い、辛い、酸っぱい、甘い。味覚のすべてが混じり合った、不味そうな顔をしていた。
「嘘、でしょう?」
「いいえ」
「……」
不味そうで豊かだった彼女の顔は、からんからんの空っぽになっていた。
「未来なのに、未来がないの……?」
「はい」
言葉の真意はわからない。彼女は異質だけれど、害のないように思えた。言われたまま行動するように従順で、夜乎が飼っていた最後のイヌ科のアイツのような感じ。
「バカ、みたい」
膝から崩れ落ちた。彼女は瞳を洗いながら嘔吐した。口を抑えて、苦しそうだった。潤んだ瞳に悲痛を訴えた表情が。握った掌よりも丸くした背中が。思い扱っているそのすべてが、僕の内臓に通っている血流速度を上げた。
ただ気持ちが悪かったからというような、わかりやすい原因ではなさそうだった。彼女は口を袖で拭くが、涙は拭わなかった。流れっぱなしで、紫色の朝焼けの照明で光っていた。空を仰いでいたが、今ではうつむいて目を瞑り、心の鼓動を聴いているように見えた。
「…………」
きちんとした時間がまるで流れていないことを肌で感じたあと、僕は身体を動かしていた。
今の僕は、彼女の下瞼を指で拭いている。何故動いたのかは分からない。その意味を深く考えてみれば、このままでいると自分が辛くなるかもしれない……と、予感したから、かも……しれない。
「…………」
でもそれは――何が、何の為に辛くなるのか厳密には分からなかった。
ただ、予感がしたから。辛い未来が見えた気がしたから。
涙を拭きたくなったから、と、ただそれだけだった。
きっと僕は、眩しいからと明かりを消すように動いてしまっただけだろう。脳もAIも、そんな些細なミスは想定していて、困りはしない。
彼女のそれは、とめどなく溢れ続けた。止まらない、片付かない。それどころか、僕の行動に呼応したかのように水嵩は増して、川幅も広くなった。顔は青くはない。真っ赤だった。
「あの――、」
何と言えばいいかわからなかった。「あの」の一言で、わだかまりの奥にある血流速度を上げた根源、わからない何かの全てが伝わって欲しかった。
「…………」
遠目。看護婦の人形は地平線の絵に触れながら、首だけをこちらにぐるんと回して僕らを見ていた。
朝霧は緩やかに消える。かさねて、朝焼けの紫色は白色の照明に切り変わった。早朝のうやむやな風情は彼女に似合わせていたが、あっさりとはっきり昼間になる。綺麗な赤毛を揺らしたそよ風は、豊かな自然が作ってくれた。
――白い空から、プロペラを回して。
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